ゲーム 第16話
ホテルへ帰ってきて、シャワーを浴びてさっぱりとした。
今日みたいに暑い日は、薄化粧でもべっとり貼り付くようだったから、落とすと気分がいい。
……にしても。
ものすごく疲れた。精神的にも肉体的にも。
おんなじ顔でも宮下君とは大違いだ。
広山優。
病魔と罪の意識が彼をあそこまで追い詰めた。想像以上に広山優は暗くて重くて病的だった。余程サバサバした前向きな人間じゃないと、30分と彼と一緒にいられないと思う。
見城ほのかみたいに、自意識の塊のわけのわからない悪意に満ちている人間も、普通の神経の持ち主なら耐えられないわ。
もう二度と会うことはないけれど、あの屋敷一体がなんだか別空間だ。
時代に取り残されたような狂気と、差別と、淀みが確かにあそこにはあった。
昔からああだったのなら、宮下君は別の家に住んでいて正解ね。あんなところに住んでいたら狂ってしまいそう。よく耐えられるもんだ……って、なんかずいぶん私、彼に同情的だな。
でも、負のオーラって言うの? ありすぎでしょ、あの二人とあのお屋敷。
なんか霊でも憑いてるんじゃって疑うくらいの暗さ。
許しはしないけれど、彼の場合、同情する部分が多すぎる。あんな二人に常時張り付かれたら、私なら己を保つだけで精一杯だ。
はあ。
こんな時、お酒が飲めたらな……。
のどが渇いたから、ミニ冷蔵庫からオレンジジュースを出して、備え付けのカットグラスに注いで飲んだ。
とてもよく冷えていて、いささか気分がスッキリする。
広山優のあの狂気がそこいらじゅうに漂っている気がしていたから、こうしてくつろいでテレビを観ているだけで、だいぶ気がまぎれる。
ホテルの電話が鳴り、私に会いたいという人が居るとフロントマンが告げた。その相手の名前を聞いて、どうして彼がと思いながら、また再びメイクをしてスーツに着替え、下へ降りた。
エレベーターから降りてきた私に、駆け寄ってきたのは中村君だった。
「林さん」
「どうしたの中村君。あなたも出張だったの?」
「ここのホテルの会議室でさっき商談が終了したばかりです。林さんが宮下さんとここに居るって、石崎課長に聞いてました。こんな遠くまでの出張は初めてでしょう?」
「ああ、課長に聞いたの」
ロビーのソファに向かい合わせに座った。
中村君はさっきまで仕事だったせいか、ちょっと疲れているみたいだった。
「心配して来てくれなくても大丈夫だったのに。普通にやってるから」
「どうでしょうか」
その口調に妙に棘があり、それが中村君らしくなくて、ドキッとした。
「広山優に会いに行ったんでしょう?」
「え?」
……まるで私の過去を知っているような目だ。
驚いている私に、中村君はいささか切ない表情を浮かべた。
「いつ気づいてくれるかなってずっと思ってましたけど、僕、朗と親友なんです。家へも中学時代しょっちゅう行ってたんですよ?」
「……知らなかったわ」
「それくらい、あなたは人嫌いだったんですね。あんなにしょっちゅう行っていたのに」
確かに私はあの頃、人の顔なんてろくに覚えていなかった。誰でも同じように見えていたから。朗は友人がとても多くて、いちいち覚えきれていなかったせいもあるけれど。
にぎやかなロビーにいるのに、あの苦痛の一年間を思い出すのもおかしな感じだ。
もう過ぎた時間なのに、昨日のように思い出してしまうのは、さっきの出来事のせいもあるだろう。
いつもと違う中村君に気づかないふりをした。
「……彼は病気だったわ。それも精神のほうがひどかった」
「それはまた……」
朗と友達で、広山優についても知っているのなら、私がどんな人間なのかも中村君は知っているに違いない。
さびしい。
もうこれまでのように、素直にじゃれあったりなんて無理だ。
あの人はこのことを知っているんだと思うだけで、もうその人を避けたくなる。
「駄目ですよ」
「え?」
「今、林さん、僕との間に思い切り線を引こうとしたでしょ? それが駄目だと言ってるんです」
さすが敏腕営業マン。人の顔をよく見てるな。
気まずい……。
「朗は、僕が林さん信者だって知ってたし、どれくらい林さんを大事に思ってるかわかってたから、時々話してくれてたんです。もっとも、広山優との夏の一件を知ったのは昨日ですけど」
「朗に聞いたの?」
「はい。会社がピンチな時期に、社長の跡取りの宮下さんが、なぜかあなたを連れて、わざわざ京都へ出張なんておかしいと思いましたから」
「宮下君も言ってたわ。本当なの? 会社が危ないって……」
「見城コーポレーションが、何かにつけて圧力かけてきてるんです。僕も引き抜かれそうになったし、石崎課長も声をかけられました。ああ、気づいてるのはほんの一部分だけです」
「何なの一体」
「見城のご令嬢とやらの今度結婚する相手が、業界の最大手なんです。だからその勢いを借りてってところでしょうか。内部から手引きをする人間が居るから困ってるんです。うちの営業部にいますよ」
「大田部長?」
「当たり」
ふと周囲が気になった。でも大丈夫、誰も私たちを見ていない。
第一こんなに人が居ておしゃべりしているざわめきの中で、聞き耳を立てるなんて不可能だ。
でも、聞かれたら由々しき問題な気がする。
中村君は笑った。
「聞かれたってかまいません。おれの旗色ははっきりしてますから。それに今回の件は林さんもおおいに巻き込まれてますしね。接触してるがばれたところで、ぜんぜん困りません」
「私もって……」
「ええ、こっちの方が問題です。大田部長、請求書の山をみんなあなたが水増しして請求してるって、この間経理の専務に密告しやがったんですよ。横領だと大騒ぎになりました」
「ちょっと、それ本当!?」
予想もつかない爆弾を落とされて、思わず椅子から立ち上がってしまった。
冗談じゃない! 自分の遊びのつけを私に押し付けないで欲しい。しかも横領ってなによ!
落ち着いてくださいと中村君は言い、おとなしく座った私に声をひそめた。
「石崎課長はすぐそれを宮下さんに報告しました。なぜ彼が情報部に入ったかもうわかりますよね? 社長からの忠告の意味もあったのに、大田部長は完全にこっちを舐めきっていて、こんな暴挙に出た。石崎課長は大田部長の側と思わせておいて、実はこちら側です」
はあ……。
もう何にも言えないや。あの見城ほのか、こんなところまで虐めの根を張ってるわけ?
沈んだ私を見て、中村さんは安心してくださいとにこにこ笑った。
安心も何も……、疾風怒濤な事件はもう勘弁よ。
桜子、だれそれが付き合ってるだの、いい男情報だのより、こっちの方を優先にしてくれないかな。
気づかない間にとんでもない展開がありすぎよ。
心の準備が全然なかったから、洗濯機でもみくちゃにされてる洗濯物の気分だわ。
「なんだってそんなに宮下を狙ってるわけ? 見城さんは」
「宮下さんが振ったからです。聞いてないんですか?」
「……彼を思い切り馬鹿にしてたわよ」
「振られた腹いせですね完全に。可愛さ余って憎さ百倍って奴です」
「わがまま意地悪令嬢そのものね。あの人働いてるの?」
「一応は……。でもろくに仕事もせずに遊んでいるから、社員たちから嫌われているそうです。彼女のせいで止めた社員も大勢いるとか。男関係も派手ですよ、いい男と見ればすぐに取り巻きで圧力かけてモノにするんだとか」
そんな女に淫乱呼ばわりされたくないわ。ああ、むかつく!
中村君も粉をかけられているらしい。
本当に手当たりしだいだなあの女。
恥知らずの厚顔無恥の根性悪の……ああ、いくら言っても言い足りない!
一体何なの。