ゲーム 第18話

 好きという気持ちは、どこから沸いてくるのだろう。

 それが愛に変わる瞬間は自分でわかるのだろうか。

 最終の新幹線で帰る中村君を、ホテルの玄関で見送りながら、そんなことを考えた。

 頼りなさそうな後輩というイメージはすっかり消え去っていた。

 よく考えたら営業のホープが頼りないわけがない。

「中村は帰ったのか?」

 エレベーターを待っていたら、宮下君がいつの間にか後ろに居た。

 あれからどこかへ行っていたようで、スーツのままだった。

「ええ」

「そうか」

「夕食はもう済んだの?」

「まだだけど、食べる気がしない」

 降りてきたエレベーターに乗り、同じ階で降りた。廊下はしんとしていて誰も居ない。

「どこへ行ってたの?」

「すぐに広山邸に戻ってた」

「……は?」

 なんだってまたあんな場所にと思って横を見上げたら、宮下君は小さく息をついた。

「ちょっとこんな所では話しづらいから、おれの部屋に来て欲しいんだけど?」

「何もしないのなら」

「しないよ。挑発されない限り」

「お酒は飲まないわ」

 言い返した私がおかしかったのか、宮下君はくすりと笑って自分の部屋を開けた。

 入ったら、襲われても文句は言えない。

 それがわかっていてあえて私は入った。

 部屋の仕様は私の部屋とまったく同じだった。ベッドに備え付けの机、テレビ、サニタリー……。

 私は机の椅子に座り、宮下君はベッドの縁に腰掛けた。だるそうにネクタイを引き抜いて、だらしなくベッドに落とす動作が妙に色っぽくて、一瞬だけ胸の鼓動が早まった。

「で、話って何?」

「おれ達が帰った直後、優の容態が急変した」

 わかってはいたものの、あの病的な広山優がフラッシュバックして、気持ち悪さと意味不明の感情が胸にこみ上げた。

「……多分、もう、助からない」

 辛そうにまつげを震わせ、宮下君は頭を抱えて膝にうつぶせた。

 いったんこみ上げたものはそのまま胸に留まり続け、吐き出したくてたまらないのに、目の前の宮下君の姿がそれをさせてくれなかった。

 広山優は、嫌だと言ったのに止めてくれなかった男で、目の前の男は、そんな男を庇う信じられない人間だ。

 だけど……。

 見城ほのか、あの女が…………。

「……ゲームオーバーって一体何?」

 宮下君はゆっくり顔を上げた。

「林さんを抱いて落とせたら、おれの勝ち、落とせなかったらあいつの勝ち……」

「何よそれ」

「林さんを監視してるってあの女が言ってたろ? ……おれが負けたら、今後一切林さんにもおれにも関わらないという条件だった」

「普通逆じゃないの?」

「それがあの女の誤算さ。林さんが落ちなくてよかった」

 うれしいような、腹立たしいような、おかしな気分だった。

 そもそもあれは唐突過ぎて卑怯にもほどがあり、あの最中もひどい言葉ばかり投げつけられていたような気がする。ようするに嫌われるためにやったってことか。

 宮下君は長めの前髪をかき上げ、深いため息をついた。

「蛇みたいにしつこいからな。あいつの取り巻きもその条件を取り交わす時に、その場に居た。父親もわざわざ呼んで同席させた。娘の所業は気づいていてはいたが知らないふりをしていたらしい。これでもう手出しはしてこないだろう。あの女、林さんの変貌振りに恐れをなしていたから」

「彼女は、宮下君が好きなんでしょう?」

「らしいな。でもおれは大嫌いだ。お似合いな奴と結婚してくれてうれしいよ」

 宮下君は唾を吐くように顔をゆがめ、鼻で笑った。

「どうして彼女があそこに居たの? ゲームのため?」

 部屋の空気が一瞬で険悪なものに変わった。その殺気は私に向けられたものではないとわかっていても、何かに隠れたくなるほどの強いものだった。

 組まれた手が、ぶつける先がわかっていながら、それでもおさめなければならない怒りで震えている。

「……あいつはな。優を俺の代わりにしていやがるんだよ。見なかったか? 優の首筋に痣があったろう?」

「…………っ!!」

 病人相手になんてことをする女だ。ひょっとしてそのせいで広山優は発狂したんじゃないの!?

 自嘲するように宮下君は笑った。

「罪の意識にさいなまれる優をあいつは利用して、おれの代わりを10年務めさせたのさ。気弱な優が断れるわけない。そりゃ発狂もするさ」

「宮下君はそれを知ってたの?」

「選んでいた高校をふって東京へ進学して、ずっと京都へは帰っていなかったから知らなかった。知った時は手遅れだった」

「広山優の両親は良い人だと言ったわよね? 気づかないわけが無いわ……どうして」

「良い人で事なかれ主義だ。家の存続が大事で、スペアのおれが元気なら、息子を離れに置いて家の恥にさせない」

「息子を見捨てたってわけ? それのどこが良い人なのよ!」

「じゃあ林さんの両親はどうなんだ? 林さんが必死に隠していたって、向き合っていたなら絶対にいじめられているのがわかったはずだ。あの朗が言わないはずがないだろうが! でも実際のところは何もしてくれなかっただろう? 仕事仕事で忙しいから疲れている。娘が隠していたいのなら知らないふりをする、なんて、一番楽な道をとったんじゃないか!」

「違うわ! 朗は言ったりなんかしない」

「ふざけんなよ。お前は知らないんだ、あいつがどれだけ姉を救おうと必死になってたか!」

「……うそ」

 宮下君はくやしそうに唇を噛み、ベッドを力任せに叩いた。

「おれはいつもいつも後から事を知る。とんだ間抜け野郎だよ。この間、お前の家に行った時に朗に釘を刺された。これ以上姉を傷つけたらすべてを告発してやるって」

「朗が……」

「おれは誰も彼も守れなかった、あの女から……」

 相手は見城ほのかだ。悪知恵といい、行動力といい、取り巻きも居るから一人では太刀打ちはできなかったろうけど……。

「ただでさえ短い寿命を、見城ほのかはさらに縮めやがった。それなのに今度は結婚までするらしい。林さんは許せるか?」

「相手はあの下種でしょ?」

「それでも一応は御曹司様さ。遊び暮らせる金をたんと持っている。なんで優が死んで、林さんが苦しんで、あいつらはのうのうと遊んでいられるんだ」

 まだ死んではいないのに……。

 言い掛けてその言葉を飲み込んだ。それほど夕方に見た広山優は衰弱して見えた。

 一番苦しんでいるのは、ひょっとしてこの宮下君ではないのだろうか。

 人の不幸の上に作られた不幸。

 それは特別でもなんでもなく、誰でも経験しているものなんだろう。それを恨みに持つか持たないか、その差が人の幸せを左右するのかもしれない。

 ふいに、広山優からもらったミニディスクの存在を思い出し、スーツのポケットに手を入れるとまだそれはそこにあった。

 これが必要なのは私ではなく、彼。

 震える手にミニディスクを手渡した。

 宮下君は受け取ったけれど、本当にいいのかという顔をした。

「中身は見たのか?」

「見ないわ。きっと私もあなたも関係があってろくでもないものだと思う」

 宮下君はそれを、ベッドヘッドに置いてあるクリアファイルに入れた。

 その時、宮下君のスーツのポケットからスマートフォンの着信音が響いた。

 相手に対して、はい、としか答えず、顔色だけがどんどん悪くなっていく。ああやはりと思ってしまう。

 暗い表情のまま通話を切り、今夜が峠らしいとつぶやく宮下君の顔は孤独に満ちていた。

 彼の中にいる広山優は、笑顔なのだろうか、それとも恐ろしく病んだあの暗い顔なのだろうか。

 広山優がどうであれ、宮下君は彼を大事にしているようだ。彼の罪をすべて自分の罪にして、そのツケを支払い続けているのだから……。

 複雑に絡み合った思いの連鎖を解く方法が見つからない。

 部屋は驚くほど静かだ。

 そっとしておこうと部屋を出ようとして、背後から宮下君に抱きしめられた。切ない息遣いが背後に迫り、思わず身体をこわばらせると、宮下君ははっとしたように私を解放した。

「ゆきのは、おれが嫌いだよな?」

「当たり前でしょう?」

 一旦離されたはずなのに、強く壁に押し付けられ、唇が重なった。

 それはとても熱くて、お酒を飲んでもいないのに、あの夜の再現のように狂おしい甘さがにじんでいて、そのままその場所でとろけそうになった。

 え? これって……お酒のせいじゃないの?

 壁に押し付けられた両手が、甘く痛む。

「ふ…………ぅう」

 何が違うんだっけ。

 広山優と何が、あいつらと何が。

 雨で増水した川で、浮かんで沈んで消えて、また浮いて、あっという間に流されていく小さな枝に似てる。

 大切なのに、川に押し流されてその木切れを掴めない。

 キスは長く続いたのに、唇はすっと離れた。

 間近の黒い目が、熱く燃えてまっすぐ私を見ている。

「こんなふうに最低だから、愛されないんだな。抱かないと誓ったばかりなのに」

 寂しそうに言われ、また唇が重なる。

 普通に告白されて、過去にあんなことがなければ……どんなにかうれしかっただろう。

 こんなに熱い腕を私は知らない。

 いつも私は、この男を許したがっている。ひどい目にあって、また……。

「頼む。今夜、おれと一緒にいてくれ」

 そのままベッドに押し倒された。

 うそつきで、卑怯者で、犯罪者の主人の味方で、同じやつらを心から憎んでて。

 宮下優は、万華鏡のようにくるくるとイメージが変わる男だ。

 悪人だと思いたくても、思い切らせてくれない。

 それは彼が、加害者であると同時に被害者だからだ。

「どこまでも最低ね、宮下君は……」

 そうつぶやいたら、またキスされた。

 自分をとことん憎ませない、悪魔みたいな魅力を持つなんて卑怯だ。

 広山優のほうがまだまし。少なくとも、私の前では彼は最後まで悪人だった、。

 ひょっとして、あの時彼は狂ってなかったんじゃないの?

 最後まで、私の中に住む自分を悪のままにして、それで私を憎ませようとしたんだ。

 ううん。

 宮下君と繋がってるんだから、計算してなんでもやっていたのかも。

 どっちにしても、私が彼らと意を共にするのは、見城ほのかと取り巻きが大嫌いってことだけだ。

 それ以外に何も存在しない。

 きりっと胸が痛むのは、気のせい。

 彼に対する想いは、もう存在しないはずなんだから。

 宮下君は私を抱きながら、私の名前を呼び続けた。

「ゆきの、ゆきの……」

 うそつき。

 広山優に会ったら、二度と顔を見せないといったくせに。

 手を出さないって言ったのは誰だった……?

「は……ぁ」

「ゆきの……っ」

 大嫌いと叫んだのはつい先日。

 なのに今日はもうこんなふうになっちゃってる。

 これも見城ほのかのゲームの続きだったらどうするの?

 宮下君に抱きつきながら、ふと脳裏に土下座した過去の広山君が蘇った。

 この人は。

 あの時から何も変わってない。

 でも、それに気づいたら駄目。知らない、知らない。

 流されてるからこんな風に思うんだ……。

「ゆきの、────……」

 囁かれたのは、明日には消えてしまう偽りの言葉。

 翌日の昼、広山優は入院先の病院で亡くなった。

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