清らかな手 第2部 第13話
鍵が閉まる音がしてフレディは息をついた。監禁される事はわかっていたのでこれくらいで落胆はしない。
ずっと攻める側だった為わからなかったが、攻められる側の体力の消耗は激しすぎる。何しろ自分の精力をセーブできない、楽も辛いも相手次第なのだ。
「……アウグストも辛かったろうな」
アレクサンデルの屋敷に囚われていた時に観た、雅明がさまざまな男達に陵辱される映像が頭に流れる。抵抗する雅明、押さえ込まれ無理やり貫かれ苦悶の表情を浮かべる雅明、……麻薬を定期的に打たれて、だんだん目の鋭気が消えていった。
そして、アレクサンデルの目を欺くためとはいえ、最後の止めとばかりにフレディが雅明を押し倒した時、自分は雅明の心にヒビが入って砕け散る音を確かに聞いた。あの絶望に揺れる茶色の目を自分は一生忘れる事はないだろう。
どれだけ辛かっただろう、僅かにあった雅明の望みを自分は確かに破壊してしまった……。だがあの時は他に手が無かった。売りに出されるチャンスを窺う事だけが、あの時のフレディの全てだったのだから。
頭を横に静かに振り、フレディはゆっくり立ち上がった。今は感情に流されている場合ではない、どんな時も冷静さを失ったら敵に呑まれてしまう。
窓際の木のテーブルの上に食事が置かれていた。コーヒーとクロワッサンとスクランブルドエッグ、野菜スープと果物という至って普通のメニューだったが、フレディはコーヒーを飲もうとして口元まで持って行ったカップを止めた。それは闇の組織に居たフレディだからこそわかる僅かな臭いだった。
「……俺も麻薬漬けか」
椅子に座ってカップをテーブルに置き、フレディは苦笑した。体力は回復しているがだるさが抜け切らない身体は、まだ悦楽の埋み火が底にたゆっている。水色のバスローブからはみだしたフレディの足は裸足だった。
ちちち……。
小さな灰色の塊がその足元に近寄ってきた。女性なら悲鳴をあげるネズミだ。しかし不衛生な地域に多年居たフレディには、身近すぎる動物だった。数匹チラついたところで珍しくも気持ち悪くも無い。
「腹が減ったのか、お前……」
クロワッサンを千切って床に投げた。ネズミは自分の身体ほどもあるクロワッサンを尻尾に絡めて背中に乗せ、そのまま部屋の隅にあるベッドの下へ消えた。
事態はどんどん進行している。それが生と出るか死と出るかは自分の運次第だ。アレクサンデルの時は、雅明を救う事ができたと思っている。だが身体は救えても心は救えていただろうか。余命短い雅明が復讐に生きる事を決意し、失敗するのをフレディはずっと見ていた。見ている事しか出来なかった。
「……結局、なるようにしかならないと言う事か。そうだな、非力な俺にできる事などたかが知れている」
カップを手に取り、フレディは麻薬入りのコーヒーを全て飲み干した。その彼を天井の隅に配置されているカメラがじっと見ている。
(だけど俺は必ずトビアスに勝つ)
スパイ時代、もう駄目かと思った時に唱え続けてきた、「勝つ」という言葉を心の中で反芻する。フレディの「勝つ」は一般人のそれとははるかに意味が異なる。
一般人の「勝つ」は、生きて勝利の美酒を味わうもの。
フレディの「勝つ」は、自分の命を捨ててでも事をやり遂げるもの。
しかし、それを思うたびに高野の顔が脳裏によぎり、フレディは自分の弱さを叱咤するのだった。
「うっそー、飲んじゃったよフレディ」
別の部屋で純が万歳をした。彼の前には大型のテレビがあり、フレディの部屋が映し出されている。ここはいわゆる監視部屋だった。
「あれは、そういう男だ」
「あの人絶対わかってて飲んだよ。なんでわかってて飲むの?」
「馬鹿だからさ……」
「馬鹿って、ひどいなあ旦那様はっ」
純は頬を膨らませながら新田に振り向いた。新田は大きなソファに腰掛けて、煙草の煙を燻らせながら新聞を広げていたが、丁寧に折りたたんで純を手招きする。飛びついてきた純に唇を重ね、暫くその細い身体を撫で回した後、新田は小さく笑った。
「フレディ・ミッドガルド。あれほどの身体を放置していたとは、もったいない事をしたよ」
新田の目は、ベッドに仰向けに倒れ目を閉じたフレディを追っている。
「うん。僕、彼が欲しい。何とかならない?」
「……お前が? さて、どうしようか」
やがてフレディは眠ってしまったようで、ぐったりとベッドに沈んだまま動かなくなった。それを確認すると新田はリモコンのボタンを押し、画面を切り替える。真っ黒な背景に白い文字の暗号文は、新田しか読む事ができない。様々な記号とアルファベットが流れている文字をじっと見つめ、純が新田に抱きつきながら言った。
「ねえ? それなんて書いてあるの?」
「教える馬鹿はいない。死にたくなかったら聞かない事だ」
「つまんないのー」
「二十歳前の坊やは黙って私の言う事を聞いてればいい。そうでないと、この男のようになる……」
くっと新田が笑ってリモコンを押すと、再び画面が切り替わった。画面に映ったのはまるで石で造られた地下牢のような部屋に、男が猿轡をされた上に首輪をされて寝転がされている姿だった。男は寝ているのか気を失っているのかピクリとも動かない。
それを観た純が目をパチクリさせる。
「この人ちゃんと生きてんだ。元気なさそうだけどご飯食べてるの?」
「死なない程度に餌はやっている。組織の恐ろしさを知らないからこんな目に遭うんだ」
新田は冷たい視線で男を観ながら、自分の頬に口付けてくる純の太ももをいやらしく撫で回した。
「ふーん……。じゃあ、さっき僕が邪魔って言ってたの聞こえた?」
「そんな事を言ったのか? 聞こえなかったが」
「だって一対一でやりたかったんだよ。フレディが本気で欲しかったんだもん」
ごめんね、と純はぺこんと頭を下げた。新田は一瞬呆気にとられた顔になり、すぐに真顔に戻った。
「仕方ないな。だがあれは私の物だから遊ぶのは程々にしろ。そうでないと私は彼を……」
純は怖い顔になっていく新田を諌める様に、両手を胸の前で振った。
「はいはいはい。ずっと好きだったんでしょ。でもさあ彼、二日間もほとんど飲まず食わずで、その上二人がかりでセックスさせられてクタクタになってる。程々にしないと痩せてがりがりになって、あの雅明みたいに商品価値も下がっちゃうよ」
「ああ、あの男娼はひどい痩せようだったな……」
そのまま二人はソファになだれ込んだが、部屋の電話が鳴り、純がぶつぶつ文句を言いながら新田の膝から降りて受話器を取った。最初は日本語を話していた純だったが、途中でドイツ語に変わった。暫く話した後、純は新田に受話器を渡しながら片目でウインクした。
「ドイツから。まだかって言ってるよ? フレディってば沢山の野郎に愛されちゃってるうっ」
新田の顔は、とても渋いものだった。
「……しつこいな。まだ捕らえて数日なのに」
「仕方ないよ。頑張ってね。佐藤貴明も居るんだし大変だよ」
純は受話器を押し付けるとスキップで部屋を出た。向かうのは二階の真ん中の部屋にあるフレディの監禁部屋だ。部屋は空調が効いていて肌寒くなる今の季節でも暖かだった。陽光がカーテン越しに差し込む中、フレディは長い髪をシーツに流してぐっすり眠っている。
「三十路過ぎてるのに可愛い顔して寝てるねー」
寝ているフレディの横に寝転び、純はその白い肌をすうっと撫でた。西欧人の肌はがさがさだと聞いているのに、なぜこの男は少年のように美しいままなのだろう。純はそんな事を考えながら首筋を舐めた。しかし余程深く眠っているのか、フレディが起きる気配は無かった。
「ねえフレディ。ドイツに帰されそうになったらどうする? うれしい? 悲しい?」
フレディは答えない。純も答えを望んでいるわけではないので、黙ってフレディの胸に右耳を載せてその心音を聞く。力強く脈打つその音は生きている証だ。やがて純は起き上がり、上掛けをフレディの首元までかけた。
「さて……と!」
純はベッドの下を覗いた。さっき映像に映っていたネズミが気になっているのだ。ネズミは菌を持っている上、あちこちのものを齧りまくり不衛生極まりない……。
昔は権勢のあった自分の家を思い出す。美しい母が死に、代わりにネズミが居つくようになってから、あっという間に没落していった。頼りにしていた兄はネズミに篭絡された父に国外に追いやられ、自分は夢を絶たれて新田の店に未成年で売りに出された。
最初は小さなネズミ一匹だった。でもそれがあっという間に増えて、自分達をこんな闇の世界に追いやったのだ。だから純はネズミを骨の髄から嫌い抜いていた。
「やだなあ……ネズミは居つくと増えるし。この別荘建てたばっかりなのに何で居るんだろう」
部屋中を注意深く隅から隅まで見ていく。純の勘はフレディが何かを仕掛けた事に気づいていた。一番怪しいのはあのネズミだ。しかしトイレの中、クローゼットの中、カーテンの影、どこを探しても見つからない。ネズミの抜け穴らしい抜け穴も無い。
「はあ……参ったなあ」
困っているところに、掃除をする男が器具を担いで入ってきた。男は純を見咎め乱暴に言い放つ。
「おいお前、こんな所で遊んでんじゃねえよ。10時からお客様だろうが」
「っさいなあ。わかってるよそんな事!」
純は毒づいた。忘れていたわけではない、忘れていたかった仕事だった。
「わかってるんならさっさと行け」
「うっさいなおっさん! 死んじゃえばーか!」
「はいはいお前も性病に気をつけろ」
前掛けのエプロンをしている男は掃除用具を置き、純が出て行ったのを確認してドアを閉めた。そしてカメラの死角になっている床板を外し、そこのくぼんだ50センチ平方の部分に数匹いたネズミを一匹取り出しポケットに入れた。ネズミは人に慣れているのか、ポケットに入れられても少し動くだけで静かにしていた。
次に男は眠っているフレディのベッドに近寄った。この男はフレディに欲を抱かなかったようで、反対に呆れと軽蔑をその目に浮かべた。男は日本人ではなく西欧人だった。
『暢気に寝てるなこいつ……』
男はドイツ語で低くつぶやいて、眠っているフレディの髪を三度も乱暴に引っ張って出て行った。監視部屋のカメラの映像にはその姿がもろに映っていて、それを見た純は怒りを露にした。
「旦那様が部屋に居ないからって、何やってんのこいつ! これだから闇のメンバーってヤなんだ乱暴だから」
ぶつぶつ言いながらシャワーを浴びた身体を拭き、妙に露出が多い服に着替えていく。これから男に抱かれなければならない。この別荘は彼のような男娼が数名いて接待のようなものをしている、新田が作ったハーレムなのだった。
(三回か)
髪を引っ張られて眠りを中断されたフレディは、上掛けを頭まですっぽりと被せて横向けになった。上掛けの中で微笑む彼は、久しぶりの緊張の感覚に気分が高揚していた……。