清らかな手 第2部 第15話

「商売女だった母親が乳飲み子を世話するのを嫌がって、あてつけに父の館の厩舎に捨てたんだそうだ。父親は認知しない、義母は毛嫌いする。弟にもそれが伝染する。使用人だってそうだ。哀れに思った馬の調教師のじいさんが育ててくれた。その人も……俺が物心つく頃には死んだけどな。それからずっと厩舎で過ごして、馬のえさを食べて生きてた。勉強も言葉もろくに話せない人間だったな」

「……まじ? それ」

 純がひどく驚いているのがおかしくて、フレディはくすりと笑った。

「うそに決まってるだろ。……馬鹿」

「だ、だよねえ。馬の餌なんかで生きられるわけないし、厩舎? って馬が生活するところで、藁とかしか無いとこだよね? そんな所で生活できないもんね、お風呂とか無いし、臭くて変な虫とかいそうだし」

「ああ……」

 風呂など入った事がなかった。自分が臭いともわからなかった。馬のえさを人間が食べる事が異常である事も知らなかった。こんな人間が居るなんて誰も思わないだろう。

 だから雅明に出会ったフレディは、雅明の輝きの前で完全に影になった。貴族の家の、才能溢れる画家だったという雅明。誰からも愛されて愛する妻も子供も居たという。それはローゼに騙されていた時に、自分が描いていた理想そのものだった。

 それを彼から奪ったトビアスとアンネは絶対に許せない。自分の光を消し去ったトビアスを、絶対に殺してやる。

 フレディは再び箸を持ち、料理を口に運んだ。

 フレディの今は刑務所時代に養われた。刑務所内の学校で初めてフレディは勉学に励む事ができた。刑に服している時に出会った男が上流階級の出で、食事を摂る所作は彼の影響を受けたおかげで洗練されている。番号で呼び合っていたため名前も知らないあの男は、今どこで何をしているだろうかと時々思い出す。

「フレディってばすごいねー。どっからそんな作り話思いつくのさ」

 純が妙に感心するのを聞きながら、自分は作り話と思われるほどのひどい過去を持っているのだなと、フレディはおかしくなった。

 この二週間飲み続けている麻薬のせいで気分が高揚している。快楽を感じやすくなり、苦しい緊縛にも耐えられるぐらい痛覚に鈍感になった。

(もうすぐだアウグスト。あと数日で俺はお前に会う事が出来る)

 至福にも似た思いが一瞬心を満たしたが、次の瞬間、雅明の顔が高野に入れ替わってフレディにさびしく微笑む。

(……忘れてくれ。俺の事なんか)

 

 人それぞれの得意分野があるように、苦手分野もやはり存在する。それはエリートとそうでない人にも平等に天から与えられていて、誰一人全てにおいて有能という人間は存在しない。やり手と言われていて、常に黒字をはじき出す経営者である貴明もそうだった。

「あれから数週間経つがまったく何も起こらない。どうなってるんだ?」

 フレディが誘拐された時、彼に仕事用の電子手帳を所持させていた。暗号化されている電子ファイルにはいくつかの機密事項が記載されていて、取り上げられる事を見越しての電子手帳だった。しかし、新田建設から佐藤グループのコンピューターへの不正アクセスはなく、黒の剣からと思われる不穏な動きもまったく無かった。

 高野は社長の席に着いている貴明の前で、昨日から今日にかけての動きを貴明に報告しているところだった。

「こちらが用意した偽りの情報への接触もありません。新田も別荘から普通に会社に出向いているようで、黒の剣のメンバーと思われる人物との接触もありません」

「……裏をかかれたか」

 珍しく不機嫌さが滲み出ている表情を隠そうともしない貴明に、高野はしばらく沈黙してから頷いた。佐藤邸の社長室と違い、本社ビルの社長室は地上七階にあり、外の風景がはるか眼下に見える。ビルをいくつも超え、さらに山をいくつも越えた向こうに、フレディがいる別荘がある事を二人は掴んでいた。

 自分を囮にすると言った時、フレディは隠れて親しくしている男がいると高野と貴明に打ち明けた。その男はかつての同僚で黒の剣を裏切りながら所属しているのだと。フレディが長野県の白馬にある新田の別荘に囚われていると、i(アイ)という闇の名を持つ男からの通信があった時、二人はかなり警戒したが、流れてくるフレディの情報は嘘とは言いがたい現実味を帯びていた。

「その男を信用するなら、フレディはドイツに送られてしまう。トビアスは最初からフレディだけが目的だったんだろう。」

 ため息をつきながら貴明が言った。しかし高野はそんな事は信じられない。信じたくなかった。フレディは自分のものだ、他の誰にも渡しはしない。

「たかがミッドガルド一人を誘拐するだけに、彼は来日したのですか?」

「……iという男の情報が正しいのならば、な」

「トビアスがその別荘に居たのですか?」

「……違う、新田幹夫がトビアスなんだ」

「は?」

 貴明が机を拳で力いっぱい叩いた。近くに人が居たら皆その迫力に逃げ出してしまうほど、大きな音が部屋に響いた。

「僕もお前も奴に騙された! 紅梅会に居た新田幹夫はすでにトビアスだったんだ。フレディですらトビアスの素顔を知らなかったのだから、騙すのはお手の物だっただろう」

「馬鹿な、新田幹夫は日本人です。整形にも限界があるはずで……」

「精巧なマスクを作るぐらいお手の物だろう。体格が似ていればいくらでも化けられる。まったく、してやられたよ!」

 三人ともフレディの捕獲は表向きで、トビアスの狙いは佐藤グループの情報だと思っていた。どう考えてもフレディの身体だけの価値を思うなら、彼は年を取り過ぎている。男娼の適齢はせいぜい20代前半までだ。

「フレディの身柄だけが目的だったのです、会社には喜ばしい事でしょう」

 嫌味かと貴明は思ったが、どうやらそれは秘書としての発言のようだった。貴明は深くため息をついた。

「その分フレディの危険度が増す。トビアスはおそらく…………」

 顔色を失っていく高野の前で、不意に貴明が話を変えた。

「……確か、お前弟が居たな? まだ10代後半で父親に売られたとか」

「何故ここで弟が出るんです」

 突拍子も無い話の切り出しに、高野は訝し気に眼鏡を光らせた。椅子に凭れていた貴明が、机に右肘を突き自分の唇を親指でゆっくりとこする。愛妻以外には気づかいなどほとんど見せない男が、これから口にする事をためらっているようだ。

「新田の別荘にえらく風変わりな男娼が居る。……名前が…………」

 社長室には高野と貴明しかいないのに、それでも周りを気にしてか貴明の声が低く小さくなった。余程聞き耳を立てていないと聞こえないほどに。

「……と言うらしい」

 貴明が口にした名前は、高野を絶望の底に突き落とすのに十分の破壊力を持っていた。暖房が入っていて部屋は暖かだったが、高野の周りだけ気温が下がり冷気が漂う。

 そっと眼鏡をはずし、高野は目じりを指で押さえた。

「……社長、貴方がうそつきなら良かった」

 ずっと探していた弟が男娼などしていたとは。あれほどプロの将棋士になると夢を語っていたのに。自分がイギリスに留学している間の家の異変は皆事後報告で、知った時には全てが終わっていた。弟が父親に売られて消えたというのに……。

 ずっと探していた弟が、よりにもよって新田の男娼だったなんて信じたくない。いや、その可能性を信じたくなくて、自分は現実から目を瞑っていたのかもしれない。

「高野、休暇をやるから一刻も早く長野へ行け」

「……よろしいのですか?」

「暫くは何も無い。お前の代わりは川谷と榊原の二人でやってもらう」

 高野は机の引き出しにしまってあった封筒を取り出し、貴明の机の上に静かに置いた。封筒に書いてある三文字を見て貴明が目を瞠る。

「お前……」

「もしもの時の保険です。弟とミッドガルドと私が無事に帰って来れたら返してもらいます」

 高野が社長室のドアを閉めるのを見送ってから、貴明は高野が置いていった封筒をじっと見つめた。彼の経歴を知っている貴明には、こんなものを常に用意している高野が哀れに思える。

 それには、退職届と書かれていた。

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