清らかな手 第2部 第16話

『髪の毛を三回引っ張った時は、計画実行間近の合図だ』

 季節はずれの雷雨が暴れ、木造の別荘は暴風でみしみしと軋んでいた。困った事にこの辺りは滅多に台風による被害が無いらしく、雨戸が無い。窓に容赦なく叩きつけられる雨風は、今にもそのガラスを蹴破ってきそうな勢いだった。

 自分の部屋のベッドで寝転んでいるフレディの元へ、一匹のネズミが近寄ってきた。目が赤いハツカネズミは連絡用だ。しかしカメラに撮影されているのでそのネズミにフレディが触れることは無い。ただネズミの色に意味があり、その色は計画を実行するとの『i』……イヴィハイトからの合図だった。

 フレディはむくりと起き上がり着ていたバスローブを脱ぎ捨て、与えられていた白のシャツとベージュのスラックスを履く。長い髪は後ろで括り、最後に革靴を履いた。

 するとフレディの行動を待っていたかの如く、別荘の照明が消えた。午後の二時と言えばまだ明るいのだが、この暴風雨のせいで夕方並みに部屋は暗い。カーテンを閉めると夜のような真っ暗闇に包まれた。

 コンコンとドアをノックする音がして、ドアの影にフレディはさっと隠れる。

「ねえ起きてるフレディ? いきなり停電になっちゃってびっくりしてない?」

 開錠する音がして、純が部屋に入ってきた。純の持っている懐中電灯の細々とした明かりが、部屋をほんの少しだけ明るくする。ライトの光はベッドやテーブルを次々と映していった。フレディを探しているのだ。

「あれ? フレディいないな……。トイレかな」

 フレディは自分を探し回る純に音もなく忍び寄り、慣れた動きで首の急所を手刀で叩いた。抵抗する声も出せないまま純はフレディの胸に崩れ落ち、フレディはさっきまで自分が寝ていたベッドに気を失った純を横たわらせ、腰にあった別荘の部屋の鍵の束を自分のベルトに掛けた。

(なんでこんなものを持ってるのか知らないが……)

 純のズボンのポケットからナイフを取り出し、すべての武器を取り上げた後、部屋の隅のネズミが飼育されている場所の床板を剥がし、そこから拳銃を二丁取り出して携帯した。さらに丈夫な革紐を取り出して純を手際よく縛っていく。純の開きかけている唇に猿轡をきゅっと締め、最後にその身体の上に上掛けを被せた。

「!」

 人の気配をドア口に感じ、フレディは俊敏に銃を構えた。

「撃つな、俺だ」

「……イヴィハイトか」

 入ってきた人影に、ホッとしてフレディは銃を降ろした。

「その坊や、その程度だと何するかわからないから地下に放り込むぜ」

「地下なんてあるのか?」

「ああ、もう一人のそいつのご主人様がそこに放り込まれてる」

 貴明が言っていた『i』ことイヴィハイトは黒の剣時代からの仲間で、フレディが今もなお信頼している男だった。とはいえその信頼は薄氷の上を歩くような危ういもので、絶えず警戒はしなければならない。全面的な信頼など闇の世界では有り得ない事なのだ。例えば雅明がフレディに抱いていた信頼が百パーセントだとしたら、この男はその二割にも満たない。それでもフレディはイヴィハイトを今回の契約相手に選んだ。何故なら、彼だけがトビアスの素顔を知っていたからだ……。

 暴風雨の音が凄まじいだけで、別荘の中はひっそりしていた。雨風が暴れまわる音のほかは、二人の足音ぐらいしか人の気配がない。

「……トビアスが、この別荘の地下に閉じ込められているとはな」

 フレディが確認するように呟くと、イヴィハイトは笑った。

「どれだけたいそうな悪者でも、ちょっとした隙があれば地獄に突き落とせるさ。トビアスは新田と日本のやくざを舐めてたからな」

「……嫌に静かだな」

「警備の連中は眠らせた。俺には朝飯前だ」

「新田は?」

「新田は会社だ。ただこの季節はずれの嵐で今日は帰ってこない。それにこういう日は人も外にまず出ないからな、計画実行には最適ってわけだ」

 トビアスを殺した後、フレディはイヴィハイトと死体を山中の地中深くに埋め、逃亡する予定だった。もう佐藤グループに戻るつもりはなかった。高野の顔は相変わらず脳裏にちらつくが、貴明と再契約を結んだ時からそう決めていた。

「……佐藤グループの様子は?」

「特に変わった様子はない。あったかもしれないが表には浮上してないよ。何しろ俺に対する返事がない。お前の様子を聞く事もない。お前、完全に捨て駒にされたんだな」

「そうか、……それは良かった」

 会社が安泰で、自分を放置してくれるなら万々歳だ。そう思いながらもフレディは何故か一瞬涙が眦に滲み、瞬きを繰り返した。

 階下に降り、一番北側の厨房に入ったイヴィハイトは、一番奥にあるドアを開けた。中は階段が下に続いているだけで暗闇が広がっている。純から取り上げた懐中電灯の明かりを頼りに二人は地下へ降りた。突き当たりに現れた粗末なドアをイヴィハイトが開けた途端、一面にホテルの廊下のような豪華な空間が現れた。ずっと続いている廊下には真紅の絨毯が敷き詰められていて、一定間隔を置いて茶色のドアがあり、そのドアには金のプレートが付いている。

「……なんだ? ここは」

「新田が作ったハーレムだよ。接待用に男娼が時々居るけど今は居ない。この別荘の上の部分は普通のペンションみたいなもんだが、下はお偉方を迎える豪華ホテルって感じ?」

 部屋数は左右あわせて四つだった。その奥の突き当たりにまたドアがあり、イヴィハイトが開けた。そこは無機質なコンクリートの部屋で、裸電球だけが頼りない明かりで中の牢屋を照らしている。

 六畳ほどの広さの牢屋に中年の男が倒れていた。フレディはその男の顔に見覚えがあり、一瞬でフレディは何もかも悟った。

「……そいつはトビアスか?」

「新田のマスク被っているがな。驚いてないで坊やから取り上げた鍵を貸せ。そいつをこの牢屋に入れる」

 フレディは鍵束を渡さず、拳銃を握り締めた。イヴィハイトが振り返った。

「何をしている?」

「……お前、何でこの別荘に入れたんだ?」

「は? 新田建設と関係のあるやくざと知り合いだからって言ったろ?」

 イヴィハイトは呆れたように言う。フレディは牢屋の鍵をちらりと見て、すぐに視線をイヴィハイトに戻し、拳銃を向ける。

「この鍵は、アレクサンデルの地下牢と同じものだ」

「……おいおい、ぼけたのかお前は?」

 血走った目でイヴィハイトがフレディを睨み、同じように拳銃を抜いた。フレディは拳銃を構えたまま、ドアの方へゆっくりと後ろ向きに下がっていく。

「近寄るな。……もう契約は終了だ」

「何言ってんだ。俺はお前の願いどおりに、トビアスが放り込まれている牢屋に連れて来てやっただろ? あいつはあの通り身体を縛られて動けない。アウグストの復讐を叶えるチャンスじゃないか?」

 イヴィハイトから目を離さないまま、フレディは首を横に振った。ドアまでもうすぐだ。

「……そいつはトビアスじゃない」

「お前は一年間のご隠居生活で本当にやわになっちまったのか? そいつは新田幹夫に化けてるトビアスなんだよ」

「お前は嘘を言っている。そいつは本物だろう! 俺が変装のプロだってのも忘れたか? 言え、トビアスはどこに居る?」

 強くイヴィハイトを睨みながら、イヴィハイトの心臓部分に照準を当てる。

 イヴィハイトが笑った。

「知らないな」

「トビアスと何を契約した?」

「お前を売ったら、俺は組織のナンバー2になれるんだ」

「馬鹿な。お前は気の向くままに生きるのが楽だって言ってただろう」

 イヴィハイトが笑い声が、嫌にコンクリートの壁で響いた。

「若いうちはそれでもいいさ。だけどもう俺もお前も若くない……、次のステージに進む必要があったんだよ」

「次のステージ?」

「そうさ。好き放題した後は、たんまり金をもうけて裕福に暮らすんだ」

 その欲望に染まった顔に、昔のイヴィハイトの面影はまったく無く、フレディは睨みつけながらも悲しくなった。一体何が彼をここまで変えてしまったのか。いや、最初から彼の本音はこれで、あの陽気さで隠していたのだろうか。

「そこの色ボケ爺に化けたトビアスが言ってたろ? 上の言う事を聞くもんだってな。俺はもう命令されるのは嫌なんだ」

「それなら組織を抜けて独立しろ。足を洗うわけでもなければ粛清もあるまいよ」

「冗談! 今やトビアスの組織はヨーロッパでも一目置かれる巨大さだ。近いうちにオランダのロッテルダムに移住する。そこのナンバー2なんて夢のようじゃないか」

 興奮を抑えきれないのか心底うれしそうに言うイヴィハイトに、フレディの心は急速に冷えていった。今のイヴィハイトは、佐藤邸の書斎で適当に取った本で見た地獄の餓鬼のようだ。こんな奴はもう死んだほうがいい。そうでないとさらなる地獄が彼を待っている。

 イヴィハイトが発砲し、フレディの足元に火花が散った。銃声が反響し耳が悲鳴をあげる。

「鍵を寄越して坊やと一緒に牢屋に入れ」

「断る」

「人一人抱えてる、素人同然の銃の腕前のお前と黒の剣でスナイパーとして現役の俺とじゃ、勝負は見えてるだろ? トビアスから手足なら動けなくしても構わないって言われてるんだぜ?」

 硝煙の臭いが漂う中、またイヴィハイトが発砲する。なんと今度は純を狙ったらしく、純の肩口で血が飛び散った。

「イヴィハイト!」

「うるせえなあ、かすっただけだ。さっさとその坊やと牢屋に入れよ。さもないとその坊やごとお前をぶち抜くぜ」

「おま…………ッ」

 突然身体に雷のような衝撃が走った。持っていた拳銃を握ったまま、フレディはコンクリートの床に崩れ落ちた。気を失ったフレディを、新田のマスクを被ったトビアスがスタンガンを持って見下ろしている。

「助かりました、ボス」

 イヴィハイトがそう言って僅かな笑顔を見せた瞬間、銃声が響き、イヴィハイトの頭部が柘榴のように割れて飛び散った。銃声がコンクリートの壁を反射して先ほどから凄まじい音を立てているのに、牢屋に入っている本物の新田は寝転がったまま身動き一つしない。

 トビアスは拳銃を持ったまま、一瞬で息絶えたイヴィハイトの遺体を靴のつま先で蹴り飛ばした。

「この役立たずめが! フレディに気づかれやがって……」

「うううう……うーっ!」

 ぴくりとも動かないフレディの横で、気を失っていたはずの純が床の上で毛虫のようにもぞもぞと動き、猿轡を噛みながら何かをフゴフゴと言った。トビアスは拳銃を胸ポケットにしまい、血の付いた靴で純の元へ跪いて、ポケットから取り出したナイフで猿轡を切った。

「もうっ乱暴なんだから! 旦那様の馬鹿っ、肩が痛いよー」

 純が毒つくと、トビアスは笑った。

「本当にかすっただけのようだから、すぐ治る。お前を担いでいたからフレディの気を散らせた。ありがとうな」

「はいはい慣れてますよ。……それより殺しちゃっていーの? それにこの馬鹿がフレディにこの別荘の秘密しゃべっちゃったよ、やばくない?」

「イヴィハイトもそいつも山中に埋めさせるさ。フレディはもう私の元から離さないから問題ない」

 きつく締められていた手首の紐がはずれ、純はホッとしたように痣のついた手首をさすった。フレディはトビアスに横抱きにされ、再び階上へ運ばれていく。その後ろを純が暗い面差しで続いた。

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