清らかな手 第2部 第22話

 佐藤邸の裏庭にある梅が花を咲かせる季節になった。

 数日前医者から許可がやっと下りて、表面上では高野もフレディも何事もなかったように仕事を再開した。別荘での事件は首謀者が死亡した為、大部分が闇に包まれたまま処理される事になった。おそらくあの別荘で男娼遊びをしていた者達の圧力がかかったのだろう。何故なら新田が大量の麻薬を打たれて廃人同様になっているにも関わらず、それについての捜査がほとんど行われないままの捜査打ち切りになったからだ。

(嫌な世の中だ)

 フレディは望めば弁護士を立てて裁判を起こす事もできるのだが、彼自身も叩けば埃が出る経歴を持っているためそれをしなかった。麻薬だと思っていたものが全て媚薬で、副作用がないものだったと判明した事も大きな要因だ。

 薬をすり替えたのは誰か。それは死んだイヴィハイトとしか考えられない。純もトビアスも麻薬と言っていたし、フレディもそう思っていた。少ないトビアスの部下達もそんな事をするメリットがない。あるとすればいつ裏切るかわからない彼しか有得ないのだった。

あんなに憎んでいたトビアスに対する憎悪は消える事はないが、何故か純に対しての彼の態度を思い出すたびに温かな何かが憎悪を溶かしていく。憎悪を中和するような愛が確かにトビアスと純の間にあった事が、誰も報われる事がない憎悪からフレディと高野を救い出してくれていた。不幸に見舞われていた純が、トビアスによって幸せになれた事に間違いはなかったのだから。

 秘書室で書類を整理していたフレディは、室長の高野に声をかけられた。今日またあの紅梅会があり、高野とフレディと石倉が同行する。

「ミッドガルド、用意はいいですか?」

 高野は人前ではフレディの事を苗字で呼ぶ。フレディは返事をしながら席を立った。

 階下へ降りるためフレディはエレベーターのボタンを押し、高野が乗ったのを確認してから自分もエレベーターに乗った。

「社長は本邸ですか?」

「お出かけ前は必ず麻理子様と過ごされますからね……」

 扉が静かに閉まり、エレベーターの表示を見上げていたフレディは、高野に不意打ちのキスをくらった。

「ふ……っ……」

 舌が滑り込み腰が抱き寄せられて密着する。直通のエレベーターではないのに、どこかの階へ止まって誰かに見られでもしたらどうするつもりだと思いながらも、フレディは抵抗できなかった。とんと背中に壁がぶつかり逃げ場が消える。

「……はんっ……ん」

 スーツの上から的確に胸の尖りに触れられ、甘い戦慄が背筋に走った。互いの息づかいが荒くなり、一層激しく唇を貪りあった瞬間にエレベーターが静かに止まる。涙で視界が滲んでいるフレディを離して、高野はしゃあしゃあとこんな事を言った。

「残念。続きは夜になりそうですね」

「…………!」

 エレベーターの扉が開き、高野は何事もなかったかのように颯爽と出て行く。フレディは壁の鏡を見て唾液が唇周辺をぬらしている事に気づいて、慌ててハンカチで拭った。あの別荘事件以来身体を求められたりしなかったのに、医者の許可が下りた途端にこれだと僅かに顔を赤らめ、エレベーター横の壁にしばらく凭れた。そうして顔のほてりが治まるのを待ってから、本社ビルから隣の佐藤邸へ行き玄関口に向かった。

もうフレディ以外は皆そこに居てフレディを待っていた。貴明は歩いてきたフレディに気づくといきなり妻の麻理子に抱きついた。

「じゃあ麻理子、行ってくるからね」

「ちょ……貴明ってば! ミッドガルドさん達が見てるのに……んっ」

 人目があるというのに熱烈なキスをしだした貴明に、フレディはまた自分が赤面しているのを感じる。自分もされたばかりだったせいか、それを見ただけでフレディは女のように胸の鼓動が高鳴っていくのを止められない。

(この非常識男どもめ!)

 非難がましくフレディは高野を睨んだが、高野はいつもと同じように涼しい顔で立っている。フレディは内心むしゃくしゃしながら貴明の為に車の後部座席のドアを開けた。

 四人が車に乗って紅梅会が行われる県外のホテルへ向かう中、右隣の貴明が肘掛に頬杖を突いて、車窓の流れる景色を眺めながらぶつくさ言った。

「あーあ。また今夜は麻理子に逢えない。思いっきりやりたいのになー」

「やるって料理ですか?」

 麻理子がフレディの看病をしてくれている間、貴明とそういう事をしたいと言っていたのを思い出してフレディは言ったのだが、前の二人が思い切り吹き出し、とんでもない場違い発言をした事に気づいた。だが今の何がおかしかったのだろう……。きょとんとしているフレディに貴明も大笑いをした。

「お前は天然だなー。はははは! おい高野、フレディはお前と料理をしたいんだとよ」

「……参ります。料理は嫌いではありませんが深夜はちょっと困りますね」

「そうだよな」

 深夜に料理を高野と? フレディの頭の中は?だらけになった。まだわかっていないフレディに石倉がぶっきらぼうに言った。

「馬鹿かお前は。やるってったら、○○○に○○○を突っ込んで気持ちよくなる事だろうよ。小学生じゃあるまいし察しろよ。ああお前は男で○○○はないから、後ろでやるのか。高野に散々突っ込まれてるくせに……ったく」

 フレディはやっと意味がわかり赤面し、同時に腹が立って来た。なんという事をこんな場でいうのかと石倉を睨む。しかし隣で貴明がにやにや笑い、フレディの神経を逆なでするような事を口にした。

「前立腺を擦られると天国にも上る心地らしいな。ふふふ……」

「社長!」

 フレディが抗議しても貴明はにやにや笑いを止めない。どうしてこの男はいつもこうなのだろう。車の席順にしたって本当なら社長の隣は室長の高野が座るべきなのに、貴明がフレディに隣に来いと言ったのだ。からかう為にこんな事をされると本当に困る。

「心配しなくても今夜は早く切り上げるよ。医者からもう二人とも大丈夫と太鼓判押されたし、思い切りやったらいい。石倉もそう思うだろ?」

「そうですね。あ、でも私は社長としたくないですよ」

 貴明が深く頷いた。

「同意見だ。僕もお前も奥さん以外とは嫌だよね。なあ石倉、お前そんな山男の風体で、どうやってあんな可愛い奥さん手に入れたの?」

「極悪人の社長が聖女を手に入れられたくらいですから、簡単ですよそんなの」

「……。お前はフレディと違ってからかい甲斐がない……」

「私もそう思います」

 そんな二人のやりとりで、フレディは本当に会社に戻ってきたんだなと変な所で実感が湧き、自分も傍目から見たら彼らと同類に見られているのだろうかと軽く自己嫌悪に陥った。フレディが痛むこめかみを左手の人差し指で押していると、貴明がふと思い出したようにポツリと言った。

「……お前達、別荘の事件にはもう触れるなよ」

 フレディはハッとして貴明を見た。石倉も高野もそれぞれの表情を浮かべて、バックミラー越しに貴明を見ている。しかし貴明はいつもと変らない穏やかな表情のまま、流れる外の風景を眺めている。

「真相は闇のまま。変に穿り返すと今度こそ我々が闇に葬られる。わかるな?」

 ぴんと車内の空気が張り詰めた……。

 季節柄なのか、ホテルのロビーにも会場にも紅梅が飾られていた。前回と同じように和やかな雰囲気の中で、皆将棋を指して談笑している。今回は高野が貴明の背後に座りいろいろとサポートしていた。

 フレディは補欠の様な役割に下がったのでする事がなく、ホテルのロビーで煙草をふかして油を売っていた。石倉は会場の出口の直ぐ横に待機している。そのような人間がロビーや会場の出口に溢れていた。

 じっとしているのが苦手なフレディは、石倉にホテルを見回ってくると告げ最上階へ上った。

 エレベーターを降りたフレディを、沢山並べられた盆梅達とむせ返るような芳香が出迎えてくれた。最上階は展示場になっていて、今は盆梅展が開催されているらしい。この種の梅はドイツにはない花で、嗅いだ事のない甘い芳香にフレディは酔いそうになった。

 平日のせいなのか人はまばらだ。

 会場のメインは昇竜梅と呼ばれる数メートルはあろうかと思われる白梅で、フレディはそれをなんともなしに眺めた。

「ミッドガルド君」

 隣に立った男に、フレディはついに来たかと僅かに緊張した。絶対に彼は自分の前に姿を現すはずだと思っていた。だから一人になったのだ。

 男は相変わらず優しい笑顔で、にこにこと笑いかけてきた。

「元気そうだね……よかった」

「貴方も厄介払いができて清々した正月を送れたようですね。田端社長」

 その声は至って普通で、周囲の客達には聞きとがめられない大きさだった。田端が前によくやっていた様にはげ頭をゆっくりと撫でた。

「……佐藤社長は実にいい部下を持ったようだ。ミッドガルド君、どうだね……うちへ来ないか?」

「ありがたいお話で恐縮です。しかし、今の私は役立たずな上に抜けているせいで皆にからかわれる有様ですから、まったく使い物にはなりませんよ」

「はは。愛に飢えた者が愛を手に入れると稀にそうなる。だがその愛が消えたら……」

 恐ろしい事を口にしようとする田端に心の中で怒りが吹き荒れ、フレディは罪もない白梅を睨み、横に流している両手を握り締めてきっぱりと言った。

「消した者を今度こそは許しません」

 田端は杖に両手を置いて昇竜梅をしみじみと眺めた。

「何か言いたい事があるようだね」

 しゃあしゃあとそんな事を口にする田端がフレディは許せない。この男は自らの手を汚さずに、あっさりと人殺しをやってのけた人間なのだから。

「貴方はあの別荘で新田を傀儡に男娼遊びをさせていた。しかもそれはただの男娼遊びじゃない……、貴方が会社を運営していく上で有利になる人物しか招かないものだった。最初はそれで良かったのに、あの新田は貴方が手をつけてはならないと言っていた麻薬に手を出してしまった」

 おそらくこれが本来の彼なのだろう……。田端の表情から笑顔が消え、社長の貴明にも勝る鋭い視線がフレディに突き刺さった。しかしフレディは田端には決して目を向けなかった。向けたら、自分を異様に愛したトビアスと、妙に人懐こかった純を思い出してこの男を殺してしまいそうだった。

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