見つめないで 第02話
つかまれた腕を振り払おうとすると、男はにやりと笑って顔を寄せてきた。
「あんたが周一郎が好きだって、皆にばれてもいいのなら離してやるけど?」
男は、驚いて身体を固くした私の腕を引っ張り、さっき降りてきたエレベーターへ歩いて行く。そこはさっきと変わらず、家族連れや、結婚式場の階へ向かう人たちがたむろしていた。
降りてきたエレベーターに乗っても、男は私の腕を離してくれず、おかげで恋人同士と勘違いされ、明らかに不釣り合いな私達を見比べて、ひそひそと話す女達が感じが悪くて居心地が悪い。
私とこの男は恋人じゃない!
大声で叫びたいけど、多分恥かくのは私一人だ。世の中、顔のいい人間は善人だと何故か思われているから。周一郎さんの事がなければ、もっと強気に出られるのに。
二階、三階、四階と、全部の階にエレベーターは止まり、その都度乗員は減っていった。
男が降りたのは五階で、さっき家族で過ごしたレストランがある階だ。そこにいくのかと思っていると、男は正反対の宿泊室の方へ歩いて行く。
「ちょっと、どこへ行くのよ!」
「レストランでばらされてもいいの? まだ招待客が残ってると思うけど?」
「でも……っ」
男は立ち止まって、鼻で笑った。
「何? 自意識過剰とか言われねえ? あんたに手を出すほど女に不自由はしてねえよ」
かっと顔が熱くなった。どうしてここまで言われなきゃいけないの!
腹が立つけど、どこで誰が聞いてるかわからない。秘密をばらされたら困るの一念で我慢した。
男は自分の部屋の前で足を止め、花模様が描かれているカードキーで解錠する。部屋は普通のツインルームで、男は私をソファに座らせて上着を脱ぎ、ハンガーにきちんと掛けた。意外と几帳面な性格らしい。
そしてミニ冷蔵庫から缶ビールをふたつ取り出して、一本を手渡してきた。
「飲め。素面じゃ気の毒だし」
飲まないと話さないつもりらしいので、仕方なく封を開け、一口飲んだ。この銘柄は愛飲家が多いけど、やたらとくどくてあまり好きじゃない。
「あんたにはもっと軽いのがいいんだろうが、この部屋は強い洋酒ばかりでな」
男はビールを半分ほど飲んだ後、私の向かいのソファに座り、テーブルの上にある名刺と金箔が押された座席表を差し出して、ようやく名乗った。
「俺の名前は岩崎忍。岩崎周一郎の兄だ」
血縁者とは思っていなかったから、内心かなり驚いた。
「……家族席に名前はないけど? 結納の時も……」
「俺は愛人の子供だから正妻が許さなかったのさ。あんたと面識がないのはそのせい」
正妻はやたらと気位が高くて嫌な感じだった。こちらを下に見ているのが態度にありありで、好印象には程遠い。家柄や周一郎さんをやたらと自慢し、私達程度が親戚になれるのをありがたく思えという高慢な態度が鼻について、そんな女を義母にする千夏の将来が不安になったぐらいだ。今日だって、式が終わったらさっさと帰ってしまっている。
でも周一郎さんと周一郎さんのお父さんがとても良い人で、千夏が周一郎さんと結婚したいと望んだから、両親は結婚を進めたのだ。それに義母は京都の本邸に住んでいる。結婚後も東京に住む千夏たちとは完全に別居だ。同居でなければ年に数回の我慢で済む。
「親父は俺の母と恋人同士だったんだが、それを親父に横恋慕した正妻が引き裂いて、無理やり結婚に漕ぎ着けた。正妻の父親は代議士で、ただの京都の老舗旅館の一人息子だった親父は逆らえなかったのさ。だが親父は結婚後も俺の母を溺愛して、本邸には一年に十日も帰ればいいぐらいでね。それを正妻はずっと恨んでて、夫婦仲は冷えきってる。それでも別れないのは世間体と、正妻が親父に心底惚れてるからだ」
たしかにこんな話は、レストランでは話せないなと思いながら、ビールをもう一口飲んだ。
「ま、そんなわけであれこれ嫌がらせを受けてる」
性格云々は別にして、愛人の子供が大きな顔をしていたら腹もたつし、嫌がらせの一つや二つもしたくなるだろう。
「あんたは気づいてなかったろうが、招待客の中にはあからさまなこの席次で、あれこれ言ってる奴が大勢居た。あんたのおかげでだいぶ気がそがれてたが」
男……、忍さんは私から席次表を取り上げ、ポイとテーブルの上へ放った。
「それで?」
「ああ、本題にはいろうか」
今気づいたかのように忍さんは言い、髪をサラリとかきあげた。
「あんた今、東京から離れたところの、埼玉の旅館で働いてるらしいな」
「ええ」
「そこを辞めて、都内のうちのホテルに来てもらおうか」
「は?」
「名刺を見てないのか? 俺はホテルの支配人をしている」
「ええ確かに書いてますね、株式会社ホテル翡翠 総支配人 岩崎忍って。でも何言ってるのかさっぱりよ?」
話がまったく飲み込めていないのに、忍さんは勝手に進めていく。
「住まいも俺のマンションに来てもらう。三LDKの部屋のうち、一部屋開いてるから余裕だ。食費諸々出してやるから……」
「ちょっと待ってください。何を勝手に決めてるんですか! 私はまだ行くだなんて一言も」
「頭悪いなあんた。もう断る権利はあんたにはないの」
「権利がない?」
意地の悪い笑みを、忍さんは私に近づけた。
「周一郎のことばらされたくないんだろう?」
思わず唇を噛んだ。口止め料ということらしい。随分高く売りつけられたものだ。
忍さんは、両手を組んで膝の上に載せた。
「あんた知らないだろうが、今勤めてるところは周一郎の持ち物の旅館の一つなんだよ。あんたに関する情報は筒抜けってわけ」
「うそ!」
「あんたみたいな普通の掃除人には関係ないし、知る必要もないから、知らなくて当たり前だがな」
「…………」
周一郎さんから離れたくて選んだ場所だったのに。恐ろしい偶然があるものだ。勤め始めてまだ二か月ほどしか経ってないけれど、周一郎さんの影も形も見なかったから、今こうして言われないと気づかなかった。
でも。そんな都合よく知り合いの場所へ、行ってしまうものだろうか……。
それが目に出たようで、忍さんは、ああと言って付け加えた。
「嘘じゃないぞ。あんた相手に嘘なんてついたところで、何の得にもならないし、またつく必要もない」
ため息が出た。その通りだ。
「……で? なんで貴方のところに引っ越す必要があるんです?」
「あんたが周一郎に惚れてるからさ」
意味がわからなくて、忍さんをじっと見つめ返した。
「俺はあいつが大嫌いだ。大嫌いなあいつが好きだという女が、心変わりするさまを見たくてね」
「随分な自信と、結構な趣味ね」
「ふん。お前の馬鹿面を見てると、しばらくは楽しめそうだしな……、なああんた? まだ断れるとか思ってるだろ?」
心中を当てられて、どきりとした。
「あいつはお優しい反面、ものすごい完璧主義でね。家族にも恋人にもそれを求める」
「……で?」
「横恋慕するような妹がいる妻を、優しくても許すと思うか? あいつは自分の母親を苦しめる、俺の母親を憎んでいる。」
「……っ」
毒のナイフをぐさりと突き立てられ、青い血が滲んでいく。忍さんが塗った毒の意味を知り、千夏や家族も巻き込む事態だけは、避けなればと苦々しく思った。
「私みたいな平均以下を雇って、貴方になんの得があるの?」
「いじめがいがある女が好きでね」
「最低……」
これだから無駄に顔が良くて、社会的地位がある人間は嫌いなんだ。人を支配する知恵にだけは長けてるから、陥れるのがとても上手だ。
つばを吐き捨てたい。忍さんは立ち上がり、黙りこんだ私の隣りに座った。
「どこまであんたが周一郎を好きでいられるかっていう、面白いゲームの開始だ」
「貴方しか楽しくないわ」
「そうつんけんすんなよ。ブスな顔が余計にひどくなってる」
「触らないでっ!」
おお怖いと忍さんはおどけ、人を小馬鹿にしきったその態度にいらいらした。
「同居でするのは、家事だけでしょうね?」
は! と忍さんは笑った。
「恋人同士の同居だ。それだけじゃないに決まってるだろ?」
キラリと光った目に危険なものを感じ、逃げようとして腰をうかしたけど、そこまでだった。忍さんが猫のように素早く私を捉え、ソファに押し倒す。
「初めてじゃないんだろ? そこまで怯える必要もないだろうが」
「……どうしてそんなに私に詳しいのよ」
「さっき、周一郎はなんでも完璧を求めるって、言ったのを忘れたのか? あんたら一家はおろか、親戚に至るまで調べつくしてる」
「仲が悪いくせに、そういうのは共有するのね。それに貴方、私みたいなのに手を出さないって言ってなかった?」
「嘘に決まってるだろ」
噛みつくようなキスをされた。
瞬間、大学時代に付き合って別れた恋人が、苦い思い出とともに脳裏に蘇る。告白されて、真剣に悩んで付き合うことに決めて、身体まで捧げたのに、すぐに捨てられた。後で聞くと、私が処女かどうかかけていたらしい。おかげで人間不信に拍車がかかった。私に言い寄るのはこんな男ばっかりだ。
忍さんの指が、私の頬をゆっくり撫でた。
「口の割には震えてるな。大丈夫。すぐ慣れるさ」
抱き起こされ、部屋の一角へ歩かされる。
それからは何をされても、私は逆らわなかった。それが口止めの条件だ……。
周一郎さん以外の男は、私にとって皆同じだった。