見つめないで 第05話

 カーテンの隙間から、朝陽が顔に当たってまぶしい。

 目覚めると、隣には忍さんが居て、ずいぶん幸せそうに眠っている。

「わ!」 

 ごろりと反対側に寝転がり、落ちかけた。ベッドはシングルの大きさだ。

 ツインでもうひとつベッドがあるのに、なんで忍さんは、もうひとつを使わなかったのかしら。狭苦しいとは思わなかったのかな?

「…………」

 今の自分の姿にあきれ返って、深いため息が出る。

 好きでもない男と一緒にホテルに泊まるわ、抱かれるわ、何やってんだろ。周一郎さんを好きだとばれるより、こっちの方が余程軽蔑される行動だ。友達にも言えやしない。

 この男にとって、それこそがまさに楽しいいじめなのかも知れないけど。

 馬鹿らしい。

「六時過ぎか……」 

 サイドテーブルの時計を見て、裸のままベッドを抜け、バスルームでシャワーを浴びた。

 真新しいホテル、真新しい備品、これからのホテルを作り上げていく従業員達。周一郎さんの意思が生きているのなら、きっといいホテルになっていくだろう。

 それを忍さんは邪魔する気なのかな。私にメニューを覚えさせて、真似しろとでもいうのかしら。私はただの客室係としての採用のはずだから、ハッキリ言って意味がない。

 来週には千夏と周一郎さんは東京に帰ってくるから、新居へ忍さんと恋人同士としていかなきゃいけない。

 嫌だなあ。

 愛し合ってる演技なんて私には無理だ。千夏は騙されやすいから騙されてくれるだろうけど、周一郎さんは絶対に騙されないと思う。

 身体を洗い終わってシャワーのコックを閉めると、唐突に扉が開いた。

「きゃあっ!」 

 びっくりした。当然そこに居たのは忍さんだ。

「一緒に入ろうと思ってたのに」

 眠そうに目を瞬かせる忍さんは、ずいぶん幼く見えた。まあ、私への嫌がらせを実行する辺り、実際幼いんだろうけどね。

「私はごめんです」

「ふうん」

 にやりと笑ったその顔に嫌な予感を覚えたのは正しく、忍さんは私の目の前で、着ていたバスローブを脱いだ。あ、朝からなんてものを見せるのよーっ!

 出口はこの男がふさいで出られない。通り過ぎるには、後ろに下がってもらわないと不可能な狭さだった。

「……今、何時だと思ってるんです?」

「六時半あたりだな」

「私、このあと出勤なんですけど」

「午後一時だろ?」

「初日から重労働させる気ですか? 本当に勘弁してください」

「しょーがねーなー」

 忍さんが後ろに下がり、やれやれと思いながら通り過ぎようとすると、背後から抱きしめられた。

「……ちょっと!」

 ちくりと肩の辺りに吸い付かれる。やられた!

「それくらいいいだろ? うちの従業員、結構ないい男ぞろいだから、なびくなよ」

 解放され、慌ててカーテンを閉める私に、忍さんは愉快そうに笑った。

 なんて男だ!

 バスルームを出たところにある姿見を覗いたら、右肩と首の境目の辺りにくっきりと赤いものがついている。こんなものを他人に見られたら、だらしがない女と言われかねない。

 着替えのシャツは襟付きだったので、美味く誤魔化せたけど、昨日着ていたスーツなら丸見えになる場所だ。今日は一応、おとなしい色合いのスカーフを持っていったほうがいいだろう。翡翠の客室係の制服が、どんなのかわからない。多分。首元まで襟のあるある制服に、違いないだろうけど。

 

 十二時十五分を回った頃、ホテル翡翠の従業員玄関から出勤した。

 守衛のおじさんは人のいい感じのはげ頭の太った人で、大変だろうけど頑張ってと微笑みながら、通行許可カードを手渡してくれた。そのまま事務所に行くと、隣の会議室で待つようにと言われ、拭えない緊張感を抱えてそこで待った。

 しばらく経ってから、白を基本とした淡いライトグレーの袖の制服を着た、若い女性がノックの音と共に入ってきた。

「客室課チーフの和田琴音です。今日からしばらく貴女を指導します。よろしくお願いします」

「三杉春香です。よろしくお願いします」

 頭を下げあい、和田チーフは私を同じ営業部の面々に紹介するために連れ出した。正社員として入社したため、パートなどとは違い、あらゆる課へ挨拶に行かなければならないのだ。

 最初に挨拶したのは、宿泊課のチーフコンシェルジュ、早野純さんだった。昼の休憩を取っていた早野チーフは、挨拶に訪れると感じのいい笑みを浮かべ、こちらこそよろしくと頭を下げてくれた。まだ若く、三十四歳。英語はもちろん、フランス語、中国語ができる語学堪能な人らしい。レ・クレドールのバッジの本物を初めて見て、かなり驚いた。指輪をしてないから独身かな? 顔もいいしもてるんだろうなこの人。

「総支配人から話は聞いてます。楽しみにしてますよ」

 意味深に言われ、一体何の話を聞いているのか無性に気になった。でも、和田チーフの視線が怖くてとても聞けない。 

「早野チーフ、今彼女は仕事中ですので」

「挨拶に来てくれたから、親交を深めようと思っただけですが?」

「早野チーフの場合、いささか度が過ぎておりますので、では行きましょう」

 和田さんに促され、休憩室を出ようとした私は、すれ違いざま早野さんに耳打ちされた。

「忍と俺は親友なんだ。同棲してるんだって? そのうち行くからね」

 思わず足を止めて振り返ってしまった私に、早野チーフは人好きのする笑顔を浮かべ、ひらひらと手を振る。

 聞きたい事は山ほどあるけど、今は無理だ。

 なんか、初っ端からやばそうな人に出会ったなあ。うーむ。

 営業部へ続く廊下で、和田チーフが言った。

「早野チーフは優秀な人だけど、女遊びがひどいの。気をつけなさい」

「は……あ。でも、私みたいなのを誘うわけないと思いますが」

「そうありたいものね。ま、彼からの連絡は皆私を通すから、心配ないわ」

 仕事場ではそうだろうけど、家に押しかけられたら心配だらけだ。

 家へ帰ったら忍さんに聞かなくちゃ。

 営業部は休憩前の人が多く、沢山の人が居た。その中で奥の席に座っている、営業部の部長の飯坂葵さんに挨拶をした。

 飯坂さんは今年四十五歳になる方で、長い間別のホテルでチーフコンシェルジュとして勤務していたのを、忍さんが引き抜いてきた人らしい。黒縁眼鏡越しに覗く双眸は鋭いけれど、温かなものがあり、とても安心した。

「ここはできたばかりで、従業員も不慣れな者が多い。助け合って、いいホテルにしていきましょう」

「よろしくお願いします」

 頭を下げ、他の面々にも挨拶をしていった。

 感じのいい人も居れば悪い人も居た。でも大体はいい人たちだった。

 営業部から出ると、歩きながら和田チーフが説明してくれた。

「私達客室係は、営業部の中の客室課に属するわ。さっきの早野チーフは、宿泊課で同じ営業部。普段は営業部の人間と仕事をすることになるけれど、他に宴会部、食堂部、ウェディング部、マーケティング部があるの」

「事務所は……」

「管理部の事ね。総務課、経理課、人事課、仕入課があるけれど、こちらも普段はあまり一緒にならないわ。挨拶には行くけれど」

「そうですか」

「なんにしても、ルームメイクについては皆、チーフの私を通して頂戴。いきなり他の課の面々と顔を合わせるのは緊張するでしょうから」

「よろしくお願いします」

 和田チーフは細身の眼鏡が怖い印象だったけれど、特に冷たいわけでもないらしいから安心した。仕事には厳しい人は嫌いじゃないから、別に構わない。

 宴会部、食堂部、ウェディング部、マーケティング部、管理部の社員と、一通り挨拶を済ませると、嫌な時間がやってきた。

 総支配人室だ。  

 なんで、改めて挨拶しなきゃいけないのかな!

 いやいや、わかってるんだけど。わかってはいるけれど茶番の印象が拭えない。

 忍さんはいかにも初対面を装って立ち上がり、とびきりの余所いきの笑顔で私を激励した。次に挨拶してくれたのは秘書の女性で、水沢智恵理さんというものすごい美女だった。

「副支配人への挨拶は済んでいますか?」

「いえ、本日はお休みとの事で、明日にと思っております」

 やたらと丁寧な言葉遣いの忍さんに、和田チーフはまた真面目に返す。表ではこいつはこんなふうなんだ。水沢さんも騙されてるのかしら……。

「おかしいですね、今日は出勤だったはずですが」

 水沢さんが、スケジュール帳を開いて首を傾げた。 

 和田さんが言った。

「後日で構わないと思います。では私達はこれで……」

 関係ないとばかりに言う和田さんに、なんだか違和感を感じて、忍さんを見ると、わずかにしぶい表情を浮かべていた。水沢さんは気づかわしげだ。

 仲が悪いのかな……?

 でもこの外面のよさなら、何とか誤魔化してそうだけど。

 さっきの早野さん同様聞けるはずもなく、和田チーフに続いて、総支配人室を後にした。

 さて次は、問題の客室係達への挨拶だ。どんな人間が待っているのやらと思う一方で、ともかくやるしかないと覚悟を決めて、一人でうなずいた。

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