見つめないで 第06話

 ホテル翡翠に来てから、二週間が過ぎた。

 仕事はもちろんスーパーハード。オープンしてまだ数ヶ月しか経ってないから、客足が全く落ちてないらしく、部屋は毎日すべて埋まっていて、新しい予約は半年先になっているんだそうだ。

 今日も九時半のミーティングの後、担当の階の部屋の窓をすべて開け、シーツをはがすことから始まる。大体十部屋ほどが割り当てられているのを、ペアを組んだ人と、休憩時間をはさんで、指定時刻の午後二時までに終了しなければならない。他に各階のトイレやフロアの掃除もあるし、庭の除草作業なんかも入っていて、勤務時間みっちり動き回っている。

 だいたいルームメイクなんてものはどこも似たようなものだから、特に戸惑ったりしない。ただ、今までとは違って、このホテルは扱っている備品がすべて高価で割れ物が多いから、取り扱いにかなり注意が必要だ。

 大変だけど、逆にやりがいもあって張り合いが出る。むしろ楽しい。

 

 問題は、組まされるパートナーについてだ。

「ちょっとお、バス洗う洗剤が足りないんだけど?」

 容器をぷらぷらさせながら、小寺みちるが文句を言って部屋へ入ってきた。

 同じ年の正社員なんだけど、恐ろしくやる気がない。

「今朝、一定量を入れましたが?」

 バスをスポンジで擦り続けながら、返事をする。忙しいんだっつーの!

「ないものはないの! 早く取ってきてよ」

 これだ。

 朝、清掃用具の準備をするのは新入りの私の仕事で、いずれも皆ちゃんと準備している。にもかかわらず、この女と組むと必ず足りなくなる。絶対に嫌がらせで、半分以上どこかに流してしまっているのだ。

 仕方ないので容器を受け取って、掃除している七階から従業員用のエレベーターで二階へ降り、客室係の詰め所で再び補充した。容器に洗剤を一定量入れて戻ると、こんどはゴミ箱のビニール袋がないと文句を言う。これも今朝チェック済みでなくなるわけがない。清掃する部屋の倍数を準備しておいたのだから。

 小寺みちるはため息をついた。わざとらしい。口角が上がってるのが丸分かりよ!

「あんたさあ、ちょっとは真面目に仕事したら?」

 それはお前だと思いながら、再び詰め所へ戻った。そんなことを繰り返しているせいで仕事が大幅に遅れ、昼に休憩を取るどころではなくなり、しかもこの女はその遅れを取り戻す気もなく休んでいる。なんでこんなサボリ人間が正社員でいられるのか、全くもって謎だ。

「後ぉ、あんた、鏡の拭き方汚いわよー。チェックしてるの?」

 見ると、まだ掃除前だ。

「……これから掃除するつもりなのですが」

「はあ? まだやってないの? 一部屋何十分かかってんのぉ? おっそーい」

「………………」

 私を怒らせようとしているのが、丸わかりだ。

 だけど、低レベルな喧嘩をしている暇はない。ベッドメイクも基本二人でするのが規則なのに、この女は別の部屋でサボってるから皆一人でやっている。約十部屋の客室清掃は、朝の十時に始まって、午後の二時にはすべて終了しなければならない。一人で一部屋二十分の計算で行くと、こんなところでこの女とドンパチしている時間はないのだ。

 無言でバスルームの掃除を再開すると、小寺みちるはしっかりしてよねーと嫌味を言って、部屋を出て行った。どこかでサボる気満々だ。

 しっかりしてほしいのはこちらだ!

 休憩なしでフルタイムを働き、恐ろしく疲れた上空腹を抱えて仕事を終え、ロッカーへ戻った。

 小さい水筒を買っといて良かった。持ち歩いて水分補給できるし。あの女とペアの時は飴とかも必須だな。三日に一回はあの女か。面倒だなあ。

 あー……疲れた。

 今日の夕ご飯は適当にしよう。作る気力がないわ……。

 タイムカードを切るついでに見ると、小寺みちるは定時にお帰りだ。挨拶ぐらいしたらどうなんだろ……。

 私にばかり仕事をさせて、残業もせずに帰るとはどういう了見なんだ。

 あの女が、新人いびりをしているのに違いない。そりゃー嫌になるわ。毒のある私ですらむかついて、殴り飛ばしたくなるもん。

 和田チーフは何も言ってこないし、当たり前のことなのかしら? 忍さんは知ってるのかな?

 着替えて廊下へ出たら、何故か私服に着替えた早野チーフが居た。

「やあ春香ちゃん。待ってたんだー」

 春香ちゃん? なんで名前呼ばれた上、ちゃん付け?

 でもそこに突っ込むと面倒くさいことが起こりそうなので、言いたくなるのを我慢した。他にも春香ちゃんがいるのかもしれない。無視して通り過ぎようとすると、早野チーフは追いかけてきた。

「無視しないでよ。待ってたのに」

 やっぱり無理か。

 立ち止まって早野チーフに振り向いた。

「約束はしておりませんが?」

「してないけど、待ってたの」

「申し訳ございませんが、今日はこのあと用事がありますので」

「またまたー。今日は、家へ直行って忍が言ってたよ?」

 忍さんが?

 まったく! 余計なことを言う困った男だ。

 振り切るように歩き始めると、早野チーフは隣に並んだ。通り過ぎる従業員たちが、何事かとがん見するから大変困る。チーフコンシェルジュと新米客室係なんて、とても変な組み合わせだものね。なんとかして離れてもらわないと、へんな噂を流されかねない。

「今日は本当に困るんです」

「まあそう言わず。今日は忍は本社で会議だから、夜遅くなるって言ってた。ご飯は作らなくてもいいんじゃないの?」

 確かに昼にそういう内容のメールを受け取っている。だから今夜は簡単にしようと思ってるのに。

 目の前を、男の腕が通せんぼをした。したのは当然早野チーフだ。

「だーからさ、夕ご飯、一緒に食べよ?」

「お断りします」

「んー……。一緒してくれないと困るんだよね? 忍に頼まれた事だし。メール届いてない?」

 届いてないと言おうとしたら、ちょうどその時にメールが着信した。

 忍さんだ。

 ”悪いけど、早野チーフと夕飯を一緒にとってくれ。あとで感想を聞かせて欲しい”

「………………」

 なんじゃこりゃ。

「ほーらね。忍が言ってる」

 勝手に覗き込んで、早野チーフが言う。

 無言でシルバーのスマートフォンを片付け、最近くせになりつつあるため息をついた。ああもう、面倒くさい面倒くさい面倒くさいーっ!!!!!

「なんで、早野チーフと一緒でないと駄目なんですか?」

「一人だと不安だからじゃない? 忍って心配性だから」

「とても、そんな繊細さは見受けられませんけど」

 のほほんタイムを諦め、しかたなく早野チーフの隣を歩いた。全然釣り合わないから、すれ違う人たちは目を丸くしている。なんだって夕方に、こんな目立つ男と歩かなきゃいけないんだろう。夜勤への交代時間だから人が多いのよ……。

 わかってます総務のお姉さまたち。私と早野チーフは全然釣り合いませんよ。よくわかってますから、にらまないでください。

 あー、あれはフロント係のお姉さまだ。目つきが固いし怖い。敵認定されてたらどうしよう。

 ただでさえ小寺みちるで困ってるのに、これ以上面倒ごとは増やしたくない。

 早野チーフは、屋上へエレベーターのボタンを押した。やっぱりうちのレストランに行くのか。社員割引があるからって、こんな目立つ人とご飯は勘弁だわ……。おまけに今日の服装は、地味すぎるスーツだし、大丈夫かしら。早野チーフはそれなりの格好だけど。

「目立たない席だから、気にしなくていいよ」

「そういえば、従業員のエレベーターで行くって事は、従業員の休憩所がレストランのどこかにあるんですか?」

「いや、おえらいさんが来た時用の部屋があるんだ」

 なんだってそんなVIP専用部屋に、新入社員の私が行かなきゃいけないんだ。食堂部の人にもにらまれそうで困る。

「心配しなくても大丈夫。これはうちのホテルが新入社員全員にやってる事だ。二週間経った位に、これからも頑張ってという意味をこめて招待するのさ」

「そうなんですか?」

「うん。まあ……普通はその社員だけが招待されるんだけどね」

 ……駄目じゃん。やっぱり。

 エレベーターが屋上に着き、従業員の入り口からレストランへ入った。夕食の仕込みで皆忙しそうだ。私は皆に頭をさげて通り過ぎた。こんな中を歩くなんて申し訳なさ過ぎる。それでも笑顔しか返ってこなくてすごい。

 最後に、料理を作ってくれるシェフに引き合わされた。ひげをたくわえた、大男だった。

「三杉さん、ホテル翡翠へようこそ。今日は楽しんでいって欲しい。私は洋食料理長の滝澤哲だ」

「三杉春香です。ご馳走になります。よろしくお願いします」

 頭を下げたら、何故か思い切り頭をぐりぐりとされた。痛い痛い。なんだこの人っ!

「総支配人から聞いてたんだが、確かに可愛いな!」

「滝澤さん、止めといたほうがいい。忍が怒る」

「知るか。怒らせとけ」

 何だこの人たち、皆仲良いわけ? やっと頭を解放されて見上げると、滝澤さんはクマのような容貌を、にこにこ笑顔でいっぱいにした。

「忍が世話になってるそうだな。あいつは半人前だからよろしく頼むぞ」

 ……どう見ても滝澤さんがものすごく年上だから、仲がいいというより、子供のように見られてる?

 滝澤さんに席へ案内され、驚いた。

 なんかこれ……見覚えがある。というか、ここに来たことなかったっけ? 

 房の付いたカーテンに、柔らかなランプの光に……窓から見えるパノラマの美しい風景。

 礼を言いながら席に付き、メニューをめくって、それは確かなものになった。

 何もかも酷似している。

 周一郎さんのホテルのメニューと、この個室のレイアウトが。

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