見つめないで 第09話
夜、千夏が強く勧めるので、家に泊まることになった。
千夏にしてみたら積もる話があるのだろう。私は大学卒業と同時に家を出てしまい、ろくに話もしてなかったし。もっと一緒に居たいと言われると断りきれない。
でも、でもね。新婚家庭に恋人と泊まるってのは……、なんか微妙な生ぬるさがあるのよ。
あんたたちも私達もリア充で、うふふふってな感じ。
寝る部屋を一緒にされるのも、いらない心遣いだ。人様の家であれこれされたら、恥ずかしくて明日顔見れないよ! あの男ならやりかねないから!
おまけに恋人同士ってのはうそだし。忍さんにしてみたら、わたわたとする私を見るのがまた楽しいんだろうけどね。悪趣味な男だまったく。なーにが「あてられないか心配です」だ!
だから、お風呂上りに千夏にお酒に誘われた時、これ幸いとばかりに飛びついた。
料理の皿が並べられていたテーブルに、今度はおつまみをずらりとならべる。千夏はお酒もちゃんぽんするから、日本酒、ビール、焼酎を用意した。
私は明日も休みだからいいけど、千夏は出勤だ。相変わらず鉄の肝臓を持ってるなあ。
ビールをお互いのグラスに注いで、乾杯する。姉妹だけだとお互いに遠慮がない。おつまみを食べながら飲み、くつろいでソファの上でごろごろと転がっても、誰も文句は言わないから楽だ。
新婚旅行の思い出話を聞き、写真を見る。ツーショットばかりなのは、その辺の人を捕まえて取ってもらったからだという。バカップルでやばいな。でも上手くいってるみたいで安心だ。
「家でもこんな感じ?」
「どうかな。基本好きなことを、お互いやってるような気がするわ」
「新婚なのに、旦那様ほっといても大丈夫なの?」
「大丈夫よ。私が資格取得の勉強で忙しくしてても、周一郎も家で仕事してるもの」
のんびりと千夏はビールを飲んだ。私も飲む。
「オープンしたてだから、いろいろあるんだろうね。大体そんな時期に結婚式挙げるってのが、すごいというかなんというか」
「そうね。京都のお母様も、ぶつぶつ言ってらしたもの」
「どんな?」
「んー……。言っていいのかな。悪口なんだけど。忍さんの」
「成る程」
千夏の前で言うくらいだから、普段からすごいんだろうな……。
「愛人さんのご子息だから仕方ないとは思うけど、なんかね、強烈な嫉妬が思い切り前面に出てるから、鈍感な私でも引いちゃうわ」
「へー、千夏、自分の不感症に気づいてたんだ」
茶化したら、千夏は頬をふくらませた。美人だから可愛いだけなのがうらやましい。
「ともかく、周一郎が気の毒になるくらいよ。あの愚痴につきあってたら、病気になりそう」
「そんなに酷いの?」
しそ巻きチーズちくわを手に取りながら聞くと、同じものを食べながら千夏は頷いた。
「激烈よ」
ひゃー。千夏が言うぐらいだから相当だろうな。かわいそうな周一郎さん。
「同居じゃなくて良かったね」
「まったくよ。あれじゃ、愛人さんの家に入り浸りになって当たり前だわ。周一郎も別居にしてほっとしてると思う。家で仕事するのは、会社だとお母様がいらっしゃるからかも」
「……本当に大変なのね」
心配する私に、千夏はそんなことよりと目をきらりとさせた。
うわ、嫌な予感。
「ねえねえねえ。忍さんに熱愛されてるじゃない! やったわね!」
だーめだこりゃ。見事に騙されてる。どうして私との温度差に気づけないのかな、千夏は。
さすが不感症なだけあるわ……。
鈍感を通り越して不感症。処置無しの、わが姉。
深夜、空のビンや缶、お皿を片付けてお互いお休みを言い、私はお酒の匂いを夜のうちに落としてしまいたいたくて、もう一度お風呂へ入った。
とは言っても、私はあんまり飲んでないけど。
髪を乾かしてバスルームを出たら、照明を消したはずのリビングから明かりが漏れていた。
まだ片付け物があったのかな?
覗いてみると、周一郎さんが、グラスにミネラルウォーターを注いでいるところだった。
このまま通り過ぎようか、不自然かな? と迷っている間に周一郎さんが振り返った。細い縁の眼鏡が、優しい容貌の周一郎さんによく似合っている。ん? 眼鏡をしてるって事は……。
「仕事してらしたんですか?」
時計は、深夜一時二十分を指している。
「もう終った。春香ちゃんこそ、ずいぶん長い間飲んでたけど、大丈夫?」
「私はあんまり飲んでません。千夏はザルですから、付き合ってたら三日酔いになりますから」
「ああ、そうだった。千夏が酔いつぶれたところ、まだ見たことないよ」
おかしそうに周一郎さんは笑い、ミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫へしまった。
なんとなく気まずいから、部屋へ行こうとしたら、
「ちょっと話がしたいんだけど、いい?」
と、呼び止められた。
「は……い」
胸が高鳴った。喜びなのか焦りなのかはわからない。
思えば、周一郎さんと二人で話をするのは、本当に初めてだったりする。大抵千夏や家族が一緒だったから、なんだか緊張して首の後ろが痛い。
「そんなにかしこまらないで。よく考えたら、義理でも妹になったっていうのに、ろくに話もしてなかったから」
「そうですね……」
示されるまま、さっきまでお酒を飲んでいたソファに座った。
「ホテル翡翠はどう?」
いきなりそれか。正直に答えてもいいけど、報復が怖いから止めておこう。
「皆さん親切にしていただいてます」
「本当?」
心配そうな目に見つめられ、いささか良心が痛む。
「ええ」
「それなら良いけれど、辛くなったらいつでも言ってね。うちのホテルはいつだって大歓迎だから」
「ありがとうございます」
周一郎さんはいい人だと思うけれど、あの正妻がでかい顔で出入りしている場所だと思うと、絶対に行きたくない……。大体、役職にも付いていない人間が、ホテルの経営に口出しするってどうよ?
あのそっくりなレイアウトを思い出した。
聞きたいけれど聞けやしない。私はただの客室清掃係だし……。
周一郎さんと、忍さんのお父さんは、こういうのどう思ってるのかなあ。
嫌ってるのはわかる。家に寄り付かず、愛人とずっと同居だもんね。別れたいけれど別れられないってのが、かなり気の毒だ。愛人宅に入りびたりって、世間的に見て最悪なのに、いきさつを聞くと同情をかなり覚える。
愛に正解ってないもんなんだな。普段なら不倫などもってのほか! ってな私なのに、こればかりはイーブンだと思う。好き合ってる二人を引き裂いて割り込んだのだから、これくらいの仕打ちは覚悟して当たり前だからね。振り向かせられなかった自分の魅力不足の怒りを、愛人の息子にぶつけるってのはかなり醜い。
おまけにそれもこれも、周一郎さんや忍さんには罪のない話。親の不祥事の迷惑をこうむる彼らは、本当に大変だと思う。
なんて話せない……。明るい話題。無難な話題は……。
あった!
「新婚旅行、楽しかったみたいですね。千夏からいっぱい聞きましたよ」
何故か、周一郎さんの顔が翳った。
「楽しかったよ。久しぶりにゆっくり出来たし」
……笑顔が感想を裏切ってるような。なんとなく怒ってる?
話題提供失敗? おかしいなあ。千夏の話だと楽しそうだったんだけど。どうしよう。
不安げな私に気づいた周一郎さんは、はっとしたように目を瞬いた。
「ごめん。ちょっと会社でいろいろあってね。それより悪かったよ、明日も仕事なんだろう?」
「いえ、明日はお休みです。忍さんは知りませんが」
周一郎さんはグラスをテーブルに置き、両腕を組んでソファにもたれた。
「忍が休みをとるなんて、めずらしいからね」
忍さんはお兄さんなのに、呼び捨てなんだ。
にしてもめずらしいとは? 先日、私の引越しの時に休んでたようなんだけど。
「忍は、基本的に、休みを取らないらしいよ」
「そうなんですか?」
「知らないの?」
う、やばい。ちょっとボロが出そう。でも本当に知らないからなー。
「おつきあいして、まだ一ヶ月ぐらいしか経ってませんから」
と、なんとかごまかす私に、周一郎さんは僅かに眉をひそめた。
「……忍と一体どういうつきあいなの? なんか、春香ちゃん冷めてるよね?」
鋭い!
「こ、恋人ですけど!」
「その割には、全然甘い雰囲気じゃなさそうだったよね?」
やばいやばいやばい。
じっと私を見つめる周一郎さん。逃げ出したい私。
まさしく蛇ににらまれた蛙状態。
こ、これ以上問いつめないでほしい。頼むから。
汗をだらだら流していたら、階段を下りる音がした。
「春香?」
振り向いたら忍さんが居た。遅いから下りてきたんだろう。
助かった! そう思って立ち上がった私に、忍さんはあの余所行きの笑顔でにっこり笑った。
「なかなか来ないと思ってたら、周一郎と話をしてたのか? 周一郎は家でも仕事をしているんだから、邪魔したらいけないよ?」
「そ、そうですよねっ! 私、もう寝ます! おやすみなさいっ」
挨拶をすると、周一郎さんは、はっとしたようにうなずいて、おやすみと挨拶をしてくれた。
腰に忍さんの手が回される。
危なかった。本当に危なかった……。
これでもう安全だと思いこんでいた私は、ほんの一瞬睨みあった二人に気づかなかった。
部屋へ入るなり、忍さんにキスされた。
何? 何なのっ?
いつもより長いそれに恐れをなして、抱きしめてくる腕から逃れようとしたけれど、かえって強く抱きしめられた。
「ん……っ」
押し倒されたベッドで、息も絶え絶えに見上げると、忍さんはぎらぎらとした目で私を見ていた。
「どうしたの……?」
ぎちぎちに握り締められた両手首が痛い。離して貰えないだろうか。
忍さんは、ふっと、なげやり気味に笑った。
「あいつに話しかけられて、さぞうれしいんだろうな、お前」
「……は? 何言って……るの?」
「残念だな。うれしいのに、心の底からお前は楽しめない。あいつはお前の姉の夫だ。人のものだ」
「…………」
そんなことわかってる。でもなぜ、それを今言うの?
私は周一郎さんと、普通に話をしていただけ。同じ家に千夏も居る、忍さんだって居る。やましいことなんて何一つない。ただの家族として話をしていたはずだ。
確かにうれしかったけれど、それ以上でもそれ以下でもない。私は、自分の気持ちを吐露するつもりはない。だって、二人には幸せになってほしいから……。
黙り込んだ私に、忍さんは今にも泣きそうな表情を一瞬だけ過ぎらせ、目を閉じて首を左右に振った。何かを振り払うかのように。
何も言えない。
私はただ、ただ、驚いていた。
いつも私を小馬鹿にしているこの男が、こんなに感情的になるのは初めて見た。今の表情は何? どうしてそんなに辛そうに、唇を噛み締めているの?
そして私の周一郎さんに対する気持ちが、なんだかおかしい。私は本当に周一郎さんが好きなんだろうか? どうも違う気がする。この忍さんの目が、どうしてかそれを教えてくれた。
好きだけれど……、違う。私の好きって何?
揺れる目が心の奥を見透かすようで、なんだか怖い。
間接照明のついた客室は妙に薄暗かった。忍さんはその仄かな照明を受けて、嫌に綺麗で儚げな笑みを浮かべ、小さく声を立てて笑った。
「……お前は、俺が好きか?」
「大嫌いに決まってるでしょう」
わかりきった事を何故聞くのか。
でも、胸の奥で何かが軋み、ひび割れた。小さな傷なのにとても痛い。これは一体何?
笑い声が少し大きくなった。
「そうだな、それがブス子たる所以だな。そうでないと……駄目だ」
意地悪ないつもの忍さんに戻ったのに、再び触れた唇は妙に優しくて甘い。
そして再び抱きしめられる。
部屋の照明が消された。
まさか、このまま他人の家で行為に及ぶのではと、恐れたのは杞憂で、忍さんはそのまま動かなくなった。やがて腕が緩んだ。眠ってしまったらしい。
私は、目が固くなって眠るどころではなく、暗い部屋でまんじりともせず過ごした。
目が慣れると見えてくる。カーテンからもれる月明かり越しに、壁紙の柄や、上の照明……ドア。
「……あ」
暗闇に細い光の線がある……。ドアが少し開いているんだ。
……見られてないよね? さっきの私達を。
人影はない。
だけど、妙に胸が騒いだ。