見つめないで 第10話

 それから一週間ほど経ったある日、和田チーフに更衣室で呼び止められた。

「三杉さん、貴女、仕事をしてないって言う人がいるんだけれど、どうなの?」

 ざわざわしていた更衣室が、一気に静まり返った。

 午後の仕事開始の時刻十分前だから、たくさんの人がいる。皆が聞き耳を立てていた。

 なんなのこれ。

「……誰が言ったのですか、それは?」

「質問しているのは、私のほうなんだけど?」

 和田チーフの淡々とした声と、私の声だけが更衣室に響く。

「おまけに残業が多いわね。就業時間をきちんと守ってルームメイクするべきよ」

「残業が多いのは、私に対しての仕事量が多すぎるからです」

 目の端に、面白そうに目を輝かせている、小寺みちるの姿が映った。まったく、なんだってこんなくだらない、新人いじめをするのやら……。

 和田さんは、私の反撃に鼻白んだものの、すぐにいつもの冷静さを取り戻した。

「言い訳はやめなさい。自分のさぼりを私のせいにする気なのですか?」

 さぼっているのはあちらだし、残業せざるを得ない状況に陥ったのは、間違いなくチーフのペアの組み方に問題がある。

 ここのところ、連日小寺みちるとペアにされる。

 私とペアを組むと、彼女が仕事していないのは誰の目にもあきらかだ。それを私のせいにするなんて、この人は一体何を考えているのやら。仕事は出来るほうだと思うけれど、人を使うのが下手な人だ。最悪なペアだとわかっているくせに、何故、変えようとしないんだろう。

 割り当てられた十部屋を、私は九時から十四時の間、一人でやっている。昼食休憩の六十分を十五分に削ってメイクしているのが現状だ。時間が全く足りない。

 シングルの部屋でも一人でルームメイクをしようとすると、どれだけ早い人でも三十分はかかる。窓の換気、ベッドメイク、ユニットバスと備え付けのトイレの洗浄と殺菌、ゴミ捨てとアメニティの取替え、備え付けの備品のチェック、机やドアの雑巾掛け、カーペットの掃除機かけ、そして一番最後のルームチェック……。おまけに、綺麗に過ごしてくださるお客様ばかりではない。中には、酒瓶や缶、おつまみのピーナッツがそこら一面にばら撒かれていたり、ユニットバスが天井から壁から、水浸しになっていたりする、そうなると余計に時間がかかる。

 慣れていない新人だと、ハードさもあり、一部屋四十分は必要だ。特にうちのホテルのように、備品やアメニティが異様に多ければなおさらだ。おまけに連泊も多い。お客様の私物の動かさないように、それでいて清掃するのはかなり神経を使う。何故か、割り当てられる部屋は、連泊の部屋ばかりなのだ。

「ペアを選り好みするのは、社会人としてなってないわ。恥を知りなさい」

 和田さんの目には、一切の感情がない。

 侮蔑も、励ましもない。

 この人には何を言っても無駄だ。現状を見る気もないし、変える気もないのだ。心が急激に冷えていった。期待してはいけないのだ……。

「すみませんでした」

 私が頭を下げると、和田さんは、皆の注目を綺麗にスルーして更衣室を出て行った。途端に更衣室にざわめきが甦る。あちこちから飛んでくる好奇の視線を無視して、ロッカーの鍵を閉め、更衣室を出ようとしたら、小寺みちるが背後で私に聞かせるように言った。

「ばっかねー。あのお堅いチーフに物申すなんて。余計に印象が悪くなるのに」

 そうですね。私の中で、貴女の印象はもっと悪くなったわ。

 ばたんとドアを閉め、そのまま仕事に戻った。

 悪いことというのは続くもので、今度は備品がなくなったり、アメニティがごっそりなくなる事件が起きるようになった。それがそろいもそろって私の担当した部屋で起こるものだから、ここまできたら立派ないじめだ。

 普通は宿泊客が疑われる。

 でも、今真っ先に疑われるのは、ルームメイクをしている私だった。小寺みちるが、私とペアを組むと、いつも備品や洗剤が足りないと告げ口したからだ。

 和田チーフは、自分だと埒があかないと思ったようで、営業部部長と交えて面談を行った。

 私はやっていないのだから、やっていないと言うしかない。

 面談は長時間行われ、それは当然従業員達の間に広まり、私は完全に孤立した。

 挨拶をしても無視されたり、陰口を叩かれたりするようになった。

 ……ものすごく気がめいる。針のむしろだ。

「やあ春香ちゃん、大変だねえ」

 制服姿の早野チーフにぽんと肩を叩かれた。ざわりと周囲がうるさくなるのは、ここが従業員の食堂で、お昼時の人混みの中だからだ。

「私と親しくすると、あらぬ濡れ衣を着せられるかもですよ」

「絶対ないと断言できるよ。俺、人徳あるし」

 早野チーフは、空いている私の真向かいに座った。

「どうせ私はありませんよ」

 ちょっと……何あれ? と、ひそひそと話す女子の声が、耳にかなりうざい。ただでさえ人見知りするのに、こんな状況になると拍車がかかった。もう誰とも、親しくなんてできそうもない。こうやって声を掛けてくれる人には普通に話せるけれど、自分から声をかけるのが昔から苦手だ。

「そうだね春香ちゃん、とっても素直だからね」

「余所行きの顔を使うと、余計に揉め事に巻き込まれかねませんし、私に演技力は皆無ですから」

 空になった弁当箱を手提げ袋にしまい、水筒の麦茶を飲んだ。

 早野チーフはいつも食事時間をずらしているから、何も食べずに自販機で買ったコーヒーを飲んでいる。休憩なのだろう。

「うちは、結構客の選別はしているほうだからね。盗難はあるはずないって皆思ってるのさ」

「そうですか」

 それで新入りの私が疑われるわけだ。

 早野チーフは煙草を吸おうとしたけど、仕事中だと思い出して諦め、コーヒーのカップをテーブルにおろした。煙草があったらコーヒーを片手に、もう片方に煙草か……。

 部屋の隅の私達のテーブルは、隔離されたように他の人たちとのテーブルと距離がある。だから、ざわめきでうるさい従業員食堂で、私達に注目する人たちは居ても、会話は聞き取られないから安心して話せた。

 早野チーフを、何故か信用できると私は思っている。

 ちゃらそうだけれど、仕事ぶりは一流そうだし、なぜかその変な物言いが私を安心させた。キスされた恨みは残るけれど。それは気をつけたらいい話だ。

「岩崎周一郎に会ったんだって?」

 なんで知っているのかと聞こうとして、すぐに誰が話したのかわかった。忍さんだ。

「ええ」

「どうだった?」

 どうだったってなんなんだ。姉と義兄の新居訪問に、何の事件性があるというのだろう。

「別に普通でした。うまくやってるみたいです」

「そりゃよかった……。だけど、どうもそれ以来忍の様子が変なんだ。違わない?」

 違わない。

 知らずに水筒のコップを両手で握り締め、お茶に映る自分の顔を見つめた。

 あの夜、忍さんは変だった。

 自分が好きかどうかを聞くなんて、嫌われる行為をしておきながら、何を言っているんだろうかと呆れた。

 嫌いだと言ったら、納得したくせに妙に傷ついていた。

 人を強引に自分の思い通りにして、恋人役させて抱いたり同棲させたりしているくせに、何故あんなわかりきった質問を忍さんはしたのだろう。

「あの人、一体何考えてるんでしょうかね」

「やっぱり変なんだ。あいつ、義兄宅訪問以来、時々上の空になってるから、何かあったんじゃないかと睨んでるんだけどね」

「……別に何も。普通でしたよ」

「本当に?」

 これにはうなずくしかない。

「普通だったのに、何かおかしいわけか。普通だったのに、ねえ?」

 覗きこむ早野チーフの目が鋭すぎる。

「早野チーフとあの人は親友なんですから、直接お聞きになればよろしいのでは?」

「親友だからこそ聞けないのもあるんだよ。ふふ。あいつ、完全に恋煩いだし」

「恋煩い? ……誰に?」

 意外すぎて、コップから真向かいの早野チーフに視線を変えたら、おかしそうにふきだした。

「春香ちゃんしかいないじゃないか。恋人だろ?」

 恋人なんかじゃない。だからありえない。

「ホテルのことじゃないんですか?」

「違うね。あいつは仕事ではあんな顔にならない。あんな、切なくて消え入りそうな顔は、ね」

「家では普通ですよ」

 ふうと早野チーフはため息をついた。

「なんですぐばれる嘘つくのかな。あいつはあれ以来家に帰らず、ここの宿直室で連泊だろ?」

 知ってたのか。

 じっと見つめられて、さっと目を横に逸らした。

 気まずい。

「ま、それはさておき、春香ちゃんの問題は解せないね。どうも事を大事にしたがっている奴がいる」

「小寺さんでしょ」

 断言したら、早野チーフは肩をすくめた。

「詳しい事情は知らないけれど、事があきらかになるまで決め付けちゃあいけないよ。敵を増やすのは得策じゃない」

 最初から敵だとわかってるのに、あきらかもなにもない。彼女がさぼってるのは誰の目にもあきらかだ。

 それなのに早野チーフは、私にこう言い含めた。

「小寺さんは優秀だよ? だから春香ちゃんの指導担当なんだから」

 ……驚きすぎて声も出ない。あの女のどこが優秀なんだ。

 同時に、怒りがぐわっとおなかの底から湧いてきた。

 なんて事だろう。この人も敵だ。

 信用できると思ってた私は馬鹿だ。早野チーフは見事にあの女に騙されている。ひょっとして……。  

「小寺さんと、個人的なおつきあいでもおありなのですか?」

 早野チーフはにやりと笑った。

「何度でもあるよ。彼女、結構かわいいからね」

 か・わ・い・い?

 ぶちんと何かが私の中で切れた。

 結局この人も、私を疑っているんじゃないの!

 ふと気になって周囲を見回した。すると、さっと目を逸らす人が多い事、多い事……。

「やあね、早野チーフに色目使ってる……」

 などと言う声が、微かに聞こえた。

 色目? 冗談じゃない。

 そちらを見たら、フロントのお姉さまたちだ。声のトーンを落として、ひそひそと何かを話して私を見、馬鹿にするように笑った。私ごときが、チーフコンシェルジュの早野さんと釣り合うなんて、おこがましいと言っているかのようだ。

「ま、春香ちゃんにも落ち度はある。皆が皆、噂を信じてるわけじゃない。己の殻に閉じこもるのも程ほどにね」

 真顔に戻った早野チーフはそう言い、空になった紙コップを持って席を立った。

 入り口にあるゴミ箱に、紙コップに捨てる姿を見送り、私は疲れきってうなだれた。

 確かに私は人見知りが酷い。

 でも、どうやって、誤解の壁を突き崩したら良いのかわからない。 

 ………………。

 はっとした。

 馬鹿ね私。今ならホテルを辞めて、同棲を打ち切るチャンスじゃない。

 するともう一人の私が言った。

 こんな風に誤解されたままなんてとんでもない。身の潔白を示してから辞めるべきよ。

 負けずにもう一人の私が、私を嘲笑う。

 あんた、本当は忍さんが好きなんでしょ? 離れたくないんでしょ……────。と。

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