見つめないで 第11話
忍さんにもう何週間も会ってない。季節は梅雨に入り、じめじめとしたスッキリしない天候が続いていた。清掃する客室の換気も窓を全開に出来ないから、晴れの日のようには入れ替えられない。
最後の部屋の窓を閉めた。今日はこれで終わりだ。
「終ったみたいね。点検するわ」
背後から和田チーフの声がして、いつの間にいたのかと驚きながらも、何も言わずに私はうなずいた。
また見張られてたのか……。
数日前、突然、和田チーフにペアが変わった。とてもうれしかった。小寺みちるは違う階の担当にされ、朝のミーティングの時間ぐらいしか姿を見かけなくなった。和田チーフはさぼったりしないし、効率よく仕事を終らせていく。勉強になる事も多かった。何を言っても無駄だと思ったのは失礼だったと、しばらくは深く反省していた。
いくら図太い私でも、毎日毎日文句を言われ続け、あちらこちらからひそひそと嘲笑をくらい続けるのは疲れるし、心が殺がれて苦しかったから、本当に本当にうれしかった。
でも、そのうれしさも、今はきれいさっぱり消えている。
原因は、始終向けられる和田チーフの探る視線。
鏡を拭いている時、備品の指紋チェックの時、洗剤を容器に入れている時……。
和田チーフが私をペアにしたのは、私が盗みをしていないか監視するためだったのだ。射すような視線を、ルームメイク中に何度も感じるから間違いない。
まるで囚人と牢番だ。
和田チーフとペアになってから、物が紛失しなくなったのはありがたいけれど、そこで立った新しい噂は、さすがにチーフにばれると解雇だから、盗むのを躊躇してるんじゃない? という不名誉極まりないもので、さらに私の気を滅入らせた。
本当に勘弁して欲しい。そういうのは盗みの現場を押さえてから、言ってほしい。
自分で言うのもなんだけれど、私は基本、物に執着しない。これと言って無趣味だし、欲しいものは毎日の食事に欠かせない食材とか、生活必需品ばかりだから。私的には、ホテルのタオルとか石鹸とかは肌に合わないし、シーツも糊が利いているから好きになれない。ましてや花瓶やアロマボトルなど興味もない。冷蔵庫に用意されている飲み物も、ミネラルウォーターぐらいしか飲めそうもないし、インスタントコーヒーも、紅茶も、お茶も、好きな銘柄はない。そういった類のものは、忍さんの家にたんとあるし、あちらの方が余程品がいい。
和田チーフは、点検リストに印鑑を押した。
「ちゃんとできているわね。リネン室で明日の準備をして、時間が来たら帰ってもいいわ」
時計は、終業時刻の三十分前を指していた。
監視されようが、仲間に冷たくされようが、終業時刻どおりに仕事が終わり、まともな時間に退社できるのはとてもうれしい。エレベーターでリネン室へ行くと、数人の客室係が明日の準備をしていた。おしゃべりをしながら楽しそうだ。入ってきた私を見て会話を一瞬途切らせても、すぐに再開してうるさいくらいだ。お客様も和田チーフもいないから、たがが外れるんだろう。
従業員のエリアでしか流れない、終業のチャイムが鳴った。
更衣室で着替え、お疲れ様でしたと挨拶してもほとんどの人が返してくれない中、数人は遠慮気味に返してくれた。早野チーフが忠告してくれたように、全員が敵ではないようだ。
そうよね。人見知りだろうがなんだろうが、私は盗んだりしてないんだから、堂々としていりゃいい。社会人として挨拶はちゃんとして、仕事も真面目にやっていけばいい。
壁を作っちゃいけない。いわれのない濡れ衣を着せられても。
……わかっちゃいるけれど、本当にキツイな。
とぼとぼと廊下を歩いていたら、向こう側から忍さんが歩いてくるのが見え、慌ててそばの角を曲がって観葉植物の陰に隠れた。隠れる必要なんてないのに、何故か顔を合わせづらかった。
忍さんは一人ではなく。あの美人秘書の水沢さんと一緒だった。
二人は、私に気づくことなく通り過ぎていく。
久しぶりに見る忍さんは、完全に余所行きの忍さんだった。でも、心なしかやつれて見えた。ろくな食生活をしていないようだ。あれから何かあったのは間違いない。
私が原因だと言った早野チーフの声が、耳の奥に蘇った。あの時は違うと言ったけど、ひょっとすると私の盗難疑惑で頭を痛めているのかもしれないと、今は思っている。私をいじめるのが趣味でも、さすがに自分のホテルで盗難騒ぎを起こされたら、たまらないだろう。不思議な事にいい気味だという気持ちは、全く起こってこなかった。
あの夜の忍さんの目を見てから、どうも胸の奥が落ち着かない。
忍さんは私に気づかずに通り過ぎていく。
ほっとするのと同時に、なんだか寂しい自分が居る。信じられないけれど事実だ。
あんな脅迫男、放っておかれたほうがいいに決まってるのに……。
「あんた、何隠れてるのよ?」
さっきの和田チーフみたいに突然背後から声を掛けられ、今度はさすがに悲鳴をあげた。
「怪しいわねー。何を盗む気?」
「何も盗んでませんし!」
「ふーん」
小寺みちるは、すぐそこの総務から出てきたようだ。やだやだ、さっさと帰ろうとばかりにエレベーターに向かったら、何故か小寺みちるもあとをついてくる。
エレベーターが降りてきた。最悪な事に誰も乗っていない。
扉が閉まる。降りる先は私と同じ一階だった……。
黙っていた小寺みちるは、エレベーターが動き出すのと同時にしゃべり始めた。
「チーフにペアが代わってから、残業なしになったんだー。良かったわねえ」
さっそく嫌味か、この女。
「おかげさまで」
人見知りはするけれど、私は普通にやり取りはする。積極的ではないだけだ。
それにしてもこの女、何てかっこうしてるの。胸元まで大きく開いたフリルのブラウスに、ひらひらのミニスカート。化粧も派手になってるし、やたらと大きなピアスがぶらぶらしてるし、着け爪がキャバ嬢みたい。それでも、小寺みちるは美人だ。こういうど派手な格好がよく似合う。そしてどう動いたら自分が魅力的に見えるか、すべて計算づくで行動している。そんな女が何故、こんな間の抜けた話口調なのか、全く持って謎だ。
話しかけるなと無言で発してるのに、小寺みちるには通用しない。
「あんたってよくわかんないわね。私には言い返すくせに、和田チーフとか他の連中には、嫌味言われても黙ってるんだから。何? 私を見下してるの?」
見下してるわよ。でも、和田チーフと忍さんはどうだろう? どちらかというと諦めに近いものがある。これも見下してる事になるんだろうか?
僅かに首をかしげて考え込む私に、小寺みちるは、人を小ばかにした笑い声を立てた。
「普通なら、そんなことないとか猛反発するところよ! おっかしー女っ。純が気に入るわけだわ」
エレベーターが一階に着いた。当然ながら、小寺みちるも一緒に降りてくる。
「純、最近つきあってくれないのよねー。あんたのせいで」
「……純って誰ですか?」
「チーフコンシェルジュの早野純よ。知らないの?」
そうだった。早野チーフはそんな名前だった。
「早野チーフとご一緒したのは、このホテルの屋上で食事をした日だけですが」
「……ふーん。やっぱりね」
何がやっぱりなんだろう……? また悪巧みを考えているのかな、懲りない女だ。
また笑った小寺みちるは、腰まで下ろした髪をこれ見よがしに背中に流し、挑発するように顎を僅かに上げた。
「あんたみたいな女、何が良いのかしらね?」
少なくとも仕事はしてますから。
でもそれを口にはしなかった。早野チーフは敵だけれど、言っている事は正しいと思うから。
わざわざ悪感情で言い返す必要はない。
私を一睨みし、小寺みちるは、先に守衛さんに媚びるような声を掛けて、従業員玄関を出て行った。
「いやー。あの子は本当にかわいいねえ」
守衛のおじさんがうれしそうに言う。鼻の下を伸ばすという表現がぴったりだ。
……やっぱり男は、綺麗な女が好きなんだろうな。小寺みちるといい、千夏といい。
小寺みちると千夏とは、種類が違うけれど。
千夏は綺麗だし愛想も抜群だ。嫌いになるのが難しいぐらいのお人よしで、自分の美貌や経歴を鼻にかけたりなんかしない。だから、大企業の本社の花形受付嬢なんてやってるし、周一郎さんという御曹司とも結婚できた。
性格が悪くて平凡な私なんかとは、生きる世界が違うんだなあ……。
「そうですね」
なんだかやりきれない気持ちを抱えて、退社時刻を記録簿に記入していると、おじさんは私をまじまじと見つめた。
「なんかあったのかい? 最近元気がないね三杉さん」
「何もありませんよ」
「そうかい? 入社してきた時より、感じが変わったよ」
そりゃ、あれだけ小寺みちるとかにいびられたら、物騒な雰囲気も併せ持つようになると思う。悲しいけれどね。
「恋の悩みには、わしには答えられんからなぁ」
「……は!?」
恋という単語が、恋とおおよそ無縁そうなおじさんの口から発せられ、思わず素の自分が出てしまった。おじさんはやっぱりそうかと、なにやら一人合点しうなずいた。
「いやー、セクハラと思われちゃ困るんだが、三杉さん、思いっきり恋わずらいの顔してる。そういうのにふらふら寄ってくる男が居るから、気をつけないといけないよ?」
何を言い出すんだこのおじさん! 私が悩んでるのは、職場の誤解だ! 小寺みちるだ! 貴方が今惚れ惚れと褒めてた女の所業だよっ!
「違います。私は仕事の事で……」
「仕事ぉ? ああ、今まで何人も三杉さんのポジションの子が辞めていったけど、皆揃いも揃って死にそうな顔してたね。いろいろ慰めたんだけどねえ。ホテルの清掃なんて誰でも出来るとか、簡単だとか勘違いしてきてたんだろうね。一週間ともたなかったなあ」
「私と変わらないじゃないですか」
おじさんはくすくす笑った。
「三杉さんは頑張ってるだろう? それにちょっとやそっとじゃめげてないのがわかるし、第一、その物憂げな表情は、仕事が辛いって感じじゃない」
「物憂げ……ですか?」
「おじさんが若かったら、つきあってと声掛けてたと思う。なーんてなははは! 女房に叱られちまうな!」
そうだと言って、おじさんは自分の後ろにあるたくさんの引き出しの中から、いろんな飴が入っている袋を取り出し、私の前に差し出した。
「甘いもんでも食べて休んだら良いよ。なあに、今の状態が一生続くわけじゃないんだからね」
その目は、もう茶化してはいなかった。
「やっぱり……知って」
「色々あるんだ。だから仕事なんだよ」
おじさんはうなずく。
「…………」
私の噂は物騒なものだ。おじさんはこのホテルの従業員玄関の守衛だし、食事もあの従業員食堂を使ってるんだから、耳に入らないはずがない。人の話には人一倍敏感だろう。
イチゴの飴を一粒取り、口に含んだ。甘いばかりで、イチゴ特有のすっぱさは微塵もない。甘ったるさばかりが滲み、それがおじさんの優しさと重なって、泣きたい気持ちに駆られた。
俯いて動けなくなった私を、おじさんはお父さんがしてくれるように、優しく頭を撫でてくれた。赤の他人にこんなことさせるのは初めてだ。
「三杉さんはこんなにいい子なんだから、見てくれる人はいるよ。声に出さなくて見てるだけなんて敵だと思うかもしれない。だけど、それを恨んじゃいけない。時が来たらすべて明らかになるし、いい方向へ向かうさ」
「本当でしょうか?」
「それだけ真面目に仕事をこなして、私情を挟まない人間を、総支配人が放すわけないだろう? うちの総支配人は、一人ひとりをよく見てる人だからな。優しいし人徳もあるし仕事も出来る」
忍さんに騙されてる人が、ここにも一人居る。
嫌に上品な忍さんの化けっぷりを思い出し、自然に笑みが浮かんだ。
いつもなら、従業員がひっきりなしに出入りするこの場なのに、何故か人っ子一人通らない。表玄関のある駅前通に繋がっている、玄関前の小道から、その喧騒が聞こえてくる程度だった。
「恋わずらいに見えるのも本当だよ。気をつけてな」
「違いますよ」
「年寄りの目は誤魔化せんよ。若いのはいいねえ……」
だめだこりゃ。でも、落ち込んでいた気分はいささか浮上した。一人でも信じてくれる人がいると、とても励まされる。
「……お先に失礼します」
「気をつけて帰るんだよ」
おじさんの励ましに見送られて、私はホテルを出た。
また明日もみんなの視線が痛いけれど、頑張るか。うん。
いつの間にか晴れていて、雲だらけの夕焼けの赤さが、妙に目に沁みる。
しばらく見ていただろうか。
駅へ向おうとしたら、背後から車のクラクションが鳴らされた。
道路の右脇に、見覚えがある銀色のセダンが止まっていた。
パワーウィンドウが開き、周一郎さんが笑顔を覗かせた。
「春香ちゃん」
「お義兄さん!」
「待ってたんだよ。乗って」