見つめないで 第14話
翌日出社した私は、ロッカーの扉に貼られた、「辞めろ」の貼り紙を見てびっくりした。
なんだこれ……。周囲を見回したけれど、気まずそうに目をそらされるだけで、その後で、こそこそと私の事を言っているのであろう、小さな話し声がする。
ここまで直接的なのって、一体なんなの。あからさまな悪意に気が滅入った。
(ったく、誰なのよ。暗いし陰険だわ!)
ここの良い所は、ロッカーの鍵の所有が本人のみとなっている所で、よく漫画などにある、合鍵で開けられ内部にいたずらされたりする危険は無い。ただ、鍵を失くしたりすると弁償になるので、要注意だ。
「うわあ、辞めろって書いてあるじゃない。大変ねえ」
間延びした嫌な声は、当然、小寺みちるだ。人の不幸が楽しいようで、にこにこしている。この女がやったんだろうか。そうだとしたら、自分がやったんだと言いに来ているようなもので、とてもおつむが弱いとしか言いようがないけれど。
「総支配人に言ったらぁ?」
「何故チーフを飛び越えて、いきなり総支配人なんですか」
「だってえ、あんたって総支配人とできてるんでしょ?」
ざわっと、更衣室がざわめいた。特ダネだと言わんばかりだ。
隠していた秘密をいきなり暴かれて、驚くのと同時に、小寺みちるを睨んだ。小寺みちるは、相変わらず楽しそうに、意地悪くにこにこ笑ったままだ。
「言い返さないのはぁ、本当ってことよねぇ? へええ……だから、盗みを働いても懲戒免職にならないんだぁ。困るわねえ、チーフ?」
いつの間にか和田チーフがいて、私のロッカーの背中側のロッカーで、着替え終わったところだった。和田チーフはなんでもない事のように、長い髪を後ろでまとめた。
「口を慎みなさい。三杉さんが盗んだと決まってはいないわ」
「でもぉ。ほとんど決まってるしぃ」
かなり大きな音を立てて、和田チーフはロッカーを閉め、小寺みちるを睨んだ。
「いい加減にしなさい! 部長に言いつけますよ。早く皆、集合場所へ行きなさい!」
鞭がしなるような声にも、小寺みちるは動じない。はーいと返事をして更衣室を出て行った。周りの人たちは慌てて着替え、私も着替えた。
……はあ、何にも変わってないなあ。
清掃部の詰め所に行くと、ホワイトボードに今日のペアが貼りだされていた。今日も和田チーフとだ。また監視されるのか……憂鬱だなあ。
小寺みちるは、私を見ながら、他の同僚とひそひそ話をしている。よくもまあ、こうも人のことにかかりきりになれるもんだ。
各部屋の宿泊状況のメモに目を通しながら、私は一方で忍さんの事を考えた。
昨夜、忍さんのマンションに戻った後、私は遅すぎる夕食の準備をした。忍さんも摂っていない様だったので、二人分作るかと思いながら、すぐにできるパスタを作ることにした。ちょうど運よく、レトルトのソースがあったのでそれを使い、野菜をきざんでいるところに、自分の部屋に入っていた忍さんがキッチンに戻ってきた。
「なあ……ブス子」
「……なに?」
私は、鍋のお湯を見ながら、フライパンで野菜を炒め始めた。
「周一郎の女を追い出す手伝い、してくれない?」
唐突にそんな事を言い出すので、思わず木のしゃもじを止めてしまった。
忍さんが見咎めて、人差し指でフライパンを指してくれ、私は再び炒める作業に戻る。
「お義兄さん、千夏のほかに女がいるの?」
「いるに決まってるだろ。って言っても追い出したいのは愛人じゃなくって、俺の仕事を妨害する女だよ」
「妨害?」
ソースをフライパンに流し込みながら、忍さんを見た。忍さんはハッキリ頷く。私はいじめをする連中を思いだした。
「ホテルの備品がやたらと無くなる。客が持ち去っているとは思えない」
「私の担当した部屋だけね?」
「そう、お前の担当した部屋だけ、何故か備品が消える」
「私を疑ってるわけ?」
パスタを、沸騰したお湯に入れながら、私は笑った。
「そうだと俺も楽なんだが、清掃部の和田もほとほと参ってるみたいでね。お前が入ってから、こういう問題が増えたから困ると、直接俺に苦情だよ。管理部の部長だと生ぬるいと思ったらしい」
……なんだ、いきなり直訴ってありえるのね、ホテル翡翠では。管理職も大変だ。
「私を入れたのは忍さんだわ」
「……ああ、俺のせいだ」
あっさりと認めた忍さんに、面食らった。救出劇から、いちいち彼は素直すぎる。思わず抱いていた嫌悪感が消えてしまいそうになり、心の中で頭を横にぶんぶん振った。駄目駄目、こいつがどんな脅しをかけてきたのか忘れないようにしないと。
でもその思いも、彼の次の言葉で吹っ飛んでしまった。
「あんな脅しをかけたくなるくらい、ブス子が欲しかったんだ……」
「は?」
人の心を読めるのか、この男は。
あと、どこまで人を馬鹿にしているのこの兄弟は! と、怒鳴ってやろうかと思った私が見たのは、これ以上は無いってぐらいに顔を真っ赤にした忍さんだった。
何? この人一体何が起こってるの?
忍さんは私の視線に気づき、コホコホとごまかすつもりか小さな咳をした。
「なんだよ。そんな目で見るな!」
「……そうは言われても。私なんか欲しがってどうするんですか? 頭おかしいんじゃないですか?」
フライパンの火を止め、パスタを菜ばしでかき回した。
「別に思ってもいない事を言わなくても、情報提供くらいしてあげます。怪しい人なら何人も居ますよ。筆頭は、私をいじめる事に生きがいを感じてる、小寺さんでしょうか」
「ふーん」
やはり演技かなんかだったのか、忍さんの顔色はすぐに元に戻りつつあった。私は心の奥底で、それにホッとして続けた。
「でも、あそこまで目立つのも、怪しいからわかりませんけど。本当なら目立たないようにしません?」
「そうだな」
パスタが茹で上がり、そのままお湯を切るとオリーブオイルで絡め、お皿に取り分けた。そしてソースを上からかけた。深夜だからこれと果物で十分だろう。
それから、とても遅い夕食を二人で摂った。
確実に昨夜、私の中で、周一郎さんと忍さんに対する何かが壊れた……。一方は悲しい崩壊で、一方は再生の為の崩壊だったと思う。
「じゃあ三杉さんは、1050号室からやっていってくれる? 私は1070号室からやって行くから」
「わかりました」
掃除用具を載せたワゴンを動かしていると、角から出てきた小寺みちるにぶつかった。明らかに向こうからぶつかってきたくせに、彼女は文句を言った。
「痛いわね。ちゃんと前向きなさいよ。トロくさー」
適当に謝っておかないとうるさいので、私は小さく頭を下げてワゴンの取っ手を取った。そして個人に割り当てられているカードキーの紐を首から下げ、和田チーフと一緒に、今日の清掃場所の12階へ、業務用エレベーターで向かった。小寺みちる達は13階なので、今日は仕事中に顔を会わせる事はない。
昼前に部屋の全てを清掃し終えた。いつもこうだとうれしいんだけどなと思いながら、ドアを開けた私は、ドアの外に来ていた和田チーフにぶつかってしまった。
「きゃ……」
「……びっくりしたわ。いきなり飛び出して来ないで」
和田チーフも、清掃を終えたようだった。今、チェックをする前段階なのだろう。
「メイクはすべて終了しました。お昼に行こうと思うんですが」
「悪いけど、トイレットペーパーがひとつ足りなかったの。取ってきてくれるかしら? 1063号室よ。唐突に副支配人に呼ばれたから、行かなきゃいけないのよ」
「わかりました」
「それが終わったら、お昼に行っていいわ」
私は倉庫に行ってトイレットペーパーを数個抱え、そのうちの一個を1063号室のトイレに補充した。ここはセミスイートで、バスとトイレが別になっている。連泊のお客さんらしく、荷物がそこかしこに置かれたままになっていた。
「うわ、ロレックスの時計なんか置きっぱなし。お金持ちなのかな」
鏡台に置かれていたそれをちらりと見て、残りのトイレットペーパーを抱えなおし、部屋から出てドアの鍵がかかるのを確認した。そしてトイレットペーパーを掃除器具のワゴンに載せて、清掃部の詰め所に戻った。