見つめないで 第19話

「はい、千夏の好きなシナモンティー」

 私の手渡したマグカップを、千夏は泣きながら受け取り、ぐすぐすと泣きながら啜った。

 こんな暑い時期にこんな暑くなるもの、よく飲めるなと思わないでもないけど、千夏は昔からシナモンが好きだ。冷え性のせいなんだろうけど、アップルパイにもシナモンを大量に入れるから、もはやシナモンパイになっていたっけ……。

 忍さんは部屋に入ってきた千夏を見て、自分の部屋へ戻ろうとしたけど千夏が止めた。

 あーもー……この段階で何の相談かわかる。

 思ったよりあっけなかったな……。

「で、どうしたの?」

 早く終わらせたくて千夏を促すと、千夏は泣きながら、やっぱり周一郎さんが……と言った。

「お義兄さんが?」

 わかってるけど敢えて聞く。

「周一郎さん、愛人が二人も居るの……」

「二人ぃ!?」

 思わず忍さんと見事にはもってしまった……。一人じゃなくて二人か……。はあぁとため息をついて額に手を当ててたら、忍さんが爆弾を落とした。

「……失礼だけど、知ってるだけでも五人居るよ。皆都内に住んでる。銀座のママと若手女優とファッションデザイナーと自分のホテルの従業員とパティシエ」

 なななな……なによそれ!

「そんなに?」

 千夏が目を見開いて驚く。私も驚いたっつーの! しかもやけに詳しいのは……うん、お互いを探りあう家系だものね。お手の物か。

 忍さんはリビングに立ったまま、白い壁にもたれた。

「結婚前から繋がってるよ。ちょっと前までもう一人いたけど、別れた」

 それって絶対に和田さんよね……。

 千夏は驚きのあまり涙が引っ込んだようだ。シナモンティーのマグカップをテーブルに置き、私を見た。

「春香は知ってたの?」

「や、愛人はいるだろうなとは思ってたけど、五人もいるとは……」

 千夏は目を吊り上げた。

「そこじゃないでしょ! 何で教えてくれなかったの?」

 んー……まあ、そう来るわね。でもね。

「二人ともいい大人でしょ。二人の問題だと思ったのよ、違う?」

「そりゃ! ……そうだけど」

 千夏は見る見る萎んだ。可哀想だけどここは鬼にならなきゃね。もう恋人じゃなくて、妻なんだから。千夏に自覚させなきゃいけない。

 忍さんはやれやれと肩を竦め、部屋を出て行った。

「悪いけれど……、ほんの数週間前にお義兄さんの本性を知ったばかりなのよ、私も」

「数週間前って、家に来た頃?」

「もっとあとよ」

 私は千夏の向かい側に座り、冷たい麦茶を飲んだ。

「千夏の格が下がるから、二度と家に来るなって言われた」

「そんな事言われたの!? 何で言ってくれなかったの。それは言ってくれても……」

「それについては謝るわ……」

 だけどやっぱり、千夏が周一郎さんという人間を見破って、それからの話なのよね。あのラブラブ夫婦を見せつけられてたから、言いにくかったのもある。私が千夏に養われてる小さな子供だったら言うけど、自立してる大人なんだもの。じゃあ家で会わなければいいんですねとなる。……もっとも当時、私も職場でいろいろあったから、千夏どころではなかったのは確かだ。

「ま、愛人が何人居ても、千夏は格別の存在らしいから気にしなくてもいいんじゃないの? どーんと構えてれば」

「冗談じゃなければ殴るわよ」

 千夏は恐ろしい目で私を睨み、両腕を組んだ。泣くだけ泣いたからすっきりしたらしい。シナモンティーも効いたのかな?

 元気が出たのは良かった。

「そもそもどうやって知ったの?」

 聞くと、電話がかかってきたと千夏は悔しそうに唇をかんだ。

「ファッションデザイナーのえみるさんて人からよ。周一郎さんとは高校時代からの付き合いで、ずっと恋人同士で肉体関係もある。もうすぐ子供も生まれるけれど、奥様はご存知なの?……って」

「子供ぉ!?」

 それはびっくり仰天だ。

 驚いていたら、忍さんが戻ってきた。リビングから覗く、忍さんの部屋の机の上のパソコンが起動しているから、何か調べてたんだろう。

「そりゃはったりだろ。その女、周一郎が他の女に手を出すたびに、そうやって追い払ってたんだ」

「でも……」

「仕事と己の才能が一番可愛い女だ。子供なんて邪魔なだけだ。ぜったいにそれはない」

 忍さんは言い切った。

 千夏は、力なくソファの背にもたれた。忍さんはその千夏の向かい側に座った。

 いつもの元気一杯の千夏じゃないと、なんか調子狂うなあ。この間の新居訪問が最後の晩餐みたいに思えて辛い。

 ご飯を食べてなさそうだったから、私はキッチンへ入って、千夏のために余った夕ご飯を温めなおした。そうしている間に、千夏は忍さんから話を聞いているようだ。以前の私なら千夏に変なこと吹き込むなと怒鳴り込むところだけど、今では忍さんをわかっているので、安心して、ご飯に専念できた。

 トレイにご飯を載せてリビングへ戻ると、忍さんはあらかた説明し終わったところだった。

「ってなわけで、あいつが千夏さんと結婚したのは、仲人したおばさんの家との繋がりのためだよ。何しろ地主様だ。ホテル業を広げたい周一郎には、逃したくない金づるだったんだろうさ」

「……そう、ですか」

 千夏は辛そうだ。

 でもな、と忍さんは言った。

「あいつなりに、千夏さんを愛してるのだけは確かだ。それは間違いない」

「ちょっと、忍さん!」

 何を言うのよ。あんな男をかばう気か!

 千夏はきょとんとしている。

「つまりだ。愛人をすべて断ち切らせるかどうか、千夏さん次第ってわけ」

「……私、次第?」

「そう。あんたもこのまま負けて終了でいいの? そんなのつまらないじゃないか」

 おいおい、けしかけてどうするんだと思ったけど、千夏の瞳に力が戻り始めているから、言いたいのを我慢した。

 千夏は、膝の上の両拳を握った。

「私、別れたくない」

「それで?」

「戦う!」

 忍さんはにこりと笑った。

「じゃあ心配ない。胸張って家へ帰ればいい。あんたは春香と違って頭が抜群にいいんだから、愛人どもを一網打尽にするのだってお手の物だろ?」

「わからないけど、とりあえず周一郎に言うわ。しらばっくれるか怒るかわからないけど、ともかく態度しだいでおばさんにも言う」

 それはまた……と思ったけど、私はやっぱり我慢した。

 忍さんは目を和ませた。すこしは私にもそういう目をしろ!

「どうしても大変だったら、いつでもここに来て、春香に愚痴ったらいいさ。そうだろ?」

 突然水を向けないで。びっくりするから。

「え? あ? いいの?」

「いいさ。お前の姉なんだし。お前はブス子だけどな」

 ……いい奴だと思ったの取り消しだ。

 千夏が大笑いした。

 

 泊まっていけばとすすめたのに、千夏はすぐにでも家へ帰ると言った。

「大丈夫なの?」

 エレベーターの前で私が心配すると、千夏はきりっとした笑顔を見せた。

「私、誰かに戦えって言ってほしかったの。そうじゃないと、そのまま相手につぶされてしまいそうだった。私……、ずっと溺愛されてると思ってたから。また失敗したって目の前が真っ暗になったの。春香は知ってるでしょ? 私の男運の悪さ」

「千夏……」

「いっつも春香に慰めてもらってる。ごめんね」

「何言ってるの? 私達姉妹じゃない」

「うん。お父さんとお母さんにはとても言えなくて……。春香しか頭に浮かばなかった」

 泣き笑い寸前の顔で、千夏は笑う。私は微笑み返しながら、胸をほんわりと温かくした。

 そうだね。千夏と違ってできの悪い私だけど、千夏は私を妹として頼りにしてくれるし、いつも優しかった。勉強だっていつも教えてくれてた。

 だからこそ、ジェラシーに燃えちゃうわけなんだけどね。

 私がボタンを押すと、とっくの昔に着いていたエレベーターの扉が開いた。

「勝ってね、千夏」

「ふふ、春香らしい。負けないでねって言わないのよね」

「当たり前よ。負けないために戦うなんて弱弱しいもん」

「そうね。私もそう思うわ」

 千夏はエレベーターに乗り。じゃあねと手を振る。もう来た時のあの弱弱しさはない。

 時間にしてわずかに二時間……、恐ろしい立ち直りの早さだ。

 すごいな……、だからあんな大企業の受付嬢ができるんだ。

 私も見習わなきゃ。

 部屋へ戻って玄関で鍵を閉めていると、忍さんがやっぱりあの人は凄いわと感心したように言った。

「単純なのよ」

 身内を褒められて照れくさくて、私はそっけなく言った。すると、違うと忍さんは言う。

「アホ。単純なだけなら、未だに、デモデモダッテとごねてるよ。お前の姉は違うわ。周一郎のやつ、どうするかな?」

「さあ……」

 リビングへ戻ろうとして横を通り過ぎたら、忍さんに背後から抱きしめられた。

「何? 暑苦しいんだけど?」

「ちょっとこのまま。最近お前とやってなかったし」

「あのね……」

 そう言いながらも私はおとなしく抱かれるまま、その腕の甘さにうっとりとした。

 駄目ね私。大分この男に毒されている。

 千夏と同じで男運が悪いんだなあ。

 でもそれがうれしいんだから、処置なしだ。

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