見つめないで 第20話

 翌日、仕事を終えた私は、夕ご飯の食材を買うためにスーパーに向かっていた。すると、車のクラクションを背後から鳴らされた。

 見覚えのある車だ。そして乗っている人間にもたっぷり見覚えがある、それも悪い印象で。

「……お義兄さん」

 パワーウィンドウが開けられる。

「久しぶりだね春香ちゃん。話したいことがあるから、乗ってよ」

 誘拐した悪事を忘れてるのか、この男は。

 私は無視して歩き始めた。

 

 でもそれも数歩だった。

「千夏がどうなってもいいのなら、無視でもいいけれど?」

「は?」

 どういうことよ。

 振り向いたら、車の中で周一郎さんは面白そうに笑みを浮かべている。あの本性を現す前なら、絶対に浮かべなかった、人を馬鹿にしきった腹が立つ笑みだ。

「千夏に何をしたんです?」

「知りたければ乗るんだね」

「それは嫌です」

 何をされるかわかったもんじゃないのに、なんで譲歩しなければいけないのよ。どこまで上から目線なんだろこの男。

 けたたましいクラクションの音が響いた。

 表通りから少し入っただけの、狭いこの路地は、近道に利用する車が多くて表通りより混んでいる。二台の車が通りすぎる時ぶつかりそうなぐらいの狭さなのに、私を呼び止めるために周一郎さんが車を止めているから、後から来た車のドライバーが怒っているのだろう。

「ほら早く乗ってよ」

「しりませんよ。勝手にドライバーと喧嘩でもなさっては?」

 私には関係のない話だ。

 しかし、周一郎さんは動じない。

「へええ、千夏が遊ばれたってどうでもいいんだ?」

「……なんですかそれ」

 聞き捨てならないせりふだ。

「そのままだよ。春香ちゃんの行動が千夏を救うし、地獄に突き落とすトリガーを引くかもしれない」

 変わらない笑顔の周一郎さんを睨みつける。

 何を企んでるの、この男。

 

 無意識に私は、忍さんから持たされているシルバーのスマートフォンを、バッグの上から抱えた。

 車のドアを乱暴に開ける音がして、クラクションを鳴らしていたドライバーが降りてきた。若い男で顔を真っ赤にして、何故か私に怒鳴った。

「さっさと乗れよこのクソ女! つかえてんだよ!」

 怒鳴り声に呼応するように、その男の車の背後に止まっている車からクラクションが鳴らされた。

 周一郎さんが、

「さ、早く乗って」

 と言い、助手席のドアが開けられる。

 私はため息を一つ零し、しぶしぶ助手席に乗った。同時にサイドミラーに小寺みちるが映るのを確認した。車は表通りに出ると、すいすいと快適に走り出した。

「……どこに向かってるんです」

「前のマンションは忍に知られてしまったからね。すぐに解約したよ。駄目じゃないか春香ちゃん、勝手に出て行ったりしたらさ」

「監禁なんて嫌ですから」

「千夏は監禁されたいそうだけど」

「夫婦喧嘩は二人だけでやっててください。私たちを巻き込まないで」

 くっと周一郎さんは笑った。

「君たちがいらない入れ知恵をしてくれたおかげで、巻き込まざるを得なくなったんだよ。母さんは激怒するし、愛人どもはやかましいし」

「自分の身から出た錆でしょう」

「そうかもね」

 私の嫌味は通じなかったようだ。

 車は覚えのある道筋を走っている。私は一度来た道は覚えられるので、その道にまさかと思った。

 大胆過ぎやしないだろうか。

 車が走っていく先にあったのは、一度忍さんに連れてこられたことのある、周一郎さんのホテルだった。

「どういうつもりですか」

 ツインの一室に連れ込まれた私は、周一郎さんを睨んだ。周一郎さんが何かを言いかけた時、秘書のお姉さん風といった方がノックの音とともに入室してきて、テーブルにコーヒーを二つ置き、頭を下げて静かに出て行った。

「千夏について聞きたいんだろう?」

「それもそうですけれど、どうしてこんなところに連れてくるんです?」

 それに周一郎さんは答えなかった。

「君、結構ホテルの目利きができるんだってね? みちるから聞いたよ」

「……小寺さんから?」

 唐突に何言ってるんだこの男。そんでみちる、何を言ってるのよ。

「目利きなんてできるわけないでしょう。私はただの客室清掃係ですよ?」

「私もそう思うけれど、あのみちるが嫌に感心して言うんでね」

「いつの話ですか?」

「和田が辞めさせられる前かな」

 和田と聞いて背中がぞくりとした。和田チーフはこの男と繋がっていた。

「和田……さんは」

 周一郎さんは無言で、私にソファを示した。聞きたかったので大人しくソファに座ると、周一郎さんは向かい側に座り、コーヒーをブラックのまま静かに飲んだ。

 私はコーヒーに、置かれていたミルクと砂糖を一匙入れた。何か眠り薬でも入っていたら嫌だなと思ったけど、もうここは敵のテリトリーだから、考えるだけ無駄というものだ。私などこの人にとってゴミみたいなものだし、そんな変な真似など面倒くさくてしてこないだろう。

 一口飲む。とてもおいしい。目の前に居るのが千夏とかだったら、もっと美味しかったのだろうけれど。

 周一郎さんはコーヒーを飲み干し、くすりと笑った。一瞬、千夏と一緒になる前のあの優しい周一郎さんに戻ったかのような錯覚を覚え、どきりとした。

「和田は実家の新潟に帰ったよ。もうあの女に用はないからね」

「そう……ですか」

 なんというか、あんまりにも呆気ない感じだ。もっとごねているのかと思ってたのに。

「価値のない駒は持っていても仕方ないからね。付きまとわれても困るから、見合い相手を斡旋しておいたよ」

「そんな言い方……」

「同じことは千夏にも言える。もうあの女には価値はない」

 ぶちりと堪忍袋の緒が切れた。

「は!?」

 私が睨んでも周一郎さんは涼しい顔だ。

「忍から聞いているんじゃないのか? 私は仲人との繋がりが欲しかったから、結婚しただけだ。愛なんて最初からない。だから、愛人の一人をけしかけて、千夏から離婚を持ち込むようにしたんだが……、困ったことに絶対に別れないと言って、反対に愛人をやり込めてしまった」

「当然でしょ! 妻なんて簡単に引かないわよ」

「それは実の母を見てりゃわかるさ」

 周一郎さんはしれっと言い、上着を脱いで自分の座っているソファの背もたれにかけた。ネクタイも解いて、シャツのボタンを二つほど外す。

 ……なんなの?

 嫌な予感がする。

 なんだかんだ言って、忍さんと周一郎さんは兄弟だ。似ているのよ、この、男を嫌に醸し出す雰囲気が。

「私の前で寛ぐなんて、何を考えているんですか?」

「わかっていて、そんな風に言う。わかってるんだろう? 私は春香ちゃんを抱きたいのさ」

 冗談でも嫌すぎる!

「前に私みたいなのに手を出すほど落ちぶれちゃいないって、言ってませんでしたか? 千夏を愛していると言ったのは、嘘ですか?」

 動揺するな、落ち着けと自分に必死に言い聞かせる。呑まれちゃ負けだ。

「あの時は愛してやろうと思ってたんだけど……、和田から聞く春香ちゃんが、なかなかいいセンを行ってると気づいてね。ホテルの目利きが良くて、あの義妹のいびりに負けずにやり返すあたり、なかなか凄い」

「やり返してなんかいませんよ」

 言いながら、視線は周一郎さんに当てたまま、目の端にドアを映す。五メートルほどある。運動神経はそこまで自信ないけれど、私の残っているコーヒーはまだ熱いから、これをぶっかけたらなんとか逃げられそうだ。

 でもその前に千夏のことだ。

「私は千夏と違うんです。人みしりしますし。だから、千夏は十二分に周一郎さんに相応しいと思いますけれど」

 本当はこんな根性悪の節操なしとは別れてほしいけれど、千夏が別れないと言ってるんだから仕方ない。

 くっと周一郎さんは笑った。

「その千夏の運命を、今春香ちゃんが握ってるんだって、気づかない?」

 周一郎さんがいきなり立ち上がったので、私も立ち上がった。でもこちらへ襲い掛かっては来ず、部屋の隅にあるテレビに向かって歩き、リモコンでテレビをつけた。

 映し出されたのは、どこのだれか知らないけど、結構な美男子と千夏だ。

「……なんですかこれ」

「このホテルのどこかの部屋? かな。とある有力なバイブを持ってるお坊ちゃんを、千夏に接待させてる。この男から、私の示した仕事を承諾させたら愛人とは別れてやるってね」

 こんこんと、周一郎さんはテレビの上部をリモコンで小突いた。

 どういうことよ?

 千夏は頭はいいし、社交もそつなくこなすけれど、営業なんかやったことない。なんてことやらせるんだ。

「このお坊ちゃん。千夏がお気に入りでね」

 それだけですべてがわかってしまった。

 なんて、卑怯な手を使う男だ。

 顔色を悪くしているであろう私に、余裕たっぷりな、血色のいい笑顔の周一郎さん。主導権を握っているのは向こうだ。

 ああやっぱり、車に乗るんじゃなかった。

「さっきの秘書に、私が電話一つで合図をしたら……ってな話」

「妻を売る気?」

「売りたくはないけれど、彼女が望んだことだし? 失敗したらどうなるかぐらい、言わなくてもわかってると思うよ」

 絶対にわかってないわよ千夏は! 陰謀とか、そういうのてんで駄目な、仕事以外ではお花畑な女なんだから!

 くっそー……。

 この男の弱点を突かないと、恐ろしい時間が来てしまう。

 そうだ、母親よ!

「お義兄さんのお母さまが、世間体からいってそんなの許すでしょうか?」

 はははと、周一郎さんは笑った。

「そう来たか。そうだね、ぎゃんぎゃん騒ぐだろうねあの人は。世間体とかプライドとか上流階級とかとても大切にしている人だから、息子が嫁を他の男に貸し出すなんて、認めないだろうね」

「当たり前よ」

「でも」

 周一郎さんは、リモコンのボタンを押して、テレビの電源を落とした。

 ぎらついた眼が、私を捉える。

「構わないさ。私は手に入れると決めたら、誰が何と言おうと手に入れてきた。母など関係ないさ」

「そのお母さんの言いなりになってるくせに」

 震えるな私の声。

 怖いっつーの。なんか切れてるよ、お義兄さん。

 誰か来て。

 周一郎さんは、後ずさる私を追い詰めにかかってきた。私はとっさにコーヒーを周一郎さんに引っかけ、そのままドアに飛びつく。

 でもそれより早く、周一郎さんに背後から羽交い絞めにされてしまった。

「はな……」

「千夏がどうなってもいいの?」

 その言葉が私の身体から、逃げようという意識を奪ってしまう。

 でも口は奪われていない。

「千夏は私がこんな目に遭うの、許さないわ!」

「そう、だから、君がこんな目に遭わないように、自分を差し出したとしたら?」

 ぎょっとして私は首だけで背後を振り向こうとし、それを察した周一郎さんにくるりと後ろに向かされた。

「そんなこと……」

「あるんだよ」

 信じられない。

 なんて嫌な男だろう。忍さんより質が悪い。

「姉も妹も抱く気?」

 私が言うと、周一郎さんはしらないの? と以外そうな顔をした。

「私たちは白い結婚なんだよ」

「な……」

 初耳だそんなの! 千夏、そこは相談してよ私に。

「千夏の事情さ。今治療中だが、性行為に苦痛が伴うんだそうだ。だから、私は彼女を結婚相手に選んだ。おとなしくて、口うるさくない、セックスしなくてもいい、見てくれと経歴がいい相手が欲しかったんだ。だが、それは失敗だった」

 周一郎さんの顔が近づいてきて、口付けられた。

「んん!」

 嫌だと抗っても敵うわけがない。

 

 忍さんの馬鹿! 助けに来てよ!

 周一郎さんのキスは巧みだった。やけに甘くて熱くて、お腹の底がじんじんしてくる。

 うそ、そんなのおかしい。

 唇を離した周一郎さんは、効いてきた? と笑った。

「何……入れたのよ」

 呼吸がなんだか苦しい。力が入らない。立っていられなくて、へなへなと私はそこに座り込んだ。やけに熱い。

 両手首を握る周一郎さんの手よりも、私の身体は熱くなっていた。

「度数が高いアルコールをすこし、ね」

「……忍さんより、卑怯だわ」

「なんとでも」

「千夏が許さないわ」

「それが狙いさ」

 抱きあげられて再び口付けられ、もう何がなんだかわからなくなってきた。駄目、駄目! こんなのおかしい。おかしいのに熱くてたまらない。絶対になんか変な薬を入れられてる。

 自分に手を出されるわけがないと思い込んだ、少し前の自分を罵りたくなった。

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