見つめないで 第21話

 深い深い闇だ。

 千夏が涙を流しながら、私に何かを叫んでいる。千夏の周りは闇なのに、千夏の姿だけは異様にくっきりと明るく見える。

 叫んでいるのに声が聞こえないから、何を言っているのかわからなくて、私はただ黙っているしかない。すると千夏はますます声を荒げて叫ぶ。

 憎しみは全く感じられない。

 哀しみを千夏は私に訴えているようだ。

 きっと多分、周一郎さんの裏切りについて、聞いてもらいたがっている……。

 

「どういうつもりやの? いくらなんでも、春香さんに手を出すなんて……」

「うるさいですね。何度も言っているでしょう、あの子は忍のウィークポイントなんですよ。こっちに取り込めば、あいつを操りやすくなる」

「そんな甘い男やありやしまへんえ? 役員が揃って専務にしようとしてるのを、抑えるのがどれほど大変か……」

 ゆらゆらと波にたゆっている感覚から、急に覚醒した私は、寝室の隣の部屋で言い合っている声にはっとした。

「大体、千夏さんになんて言わはるつもりなの?」

「あの女はもう用なしです。つなぎをかけられた後はどうでもいい」

「いくらなんでもまだ結婚して数か月。世間様が何と言うか……。大体、千夏さんはとても評判のいい人やのに。許しませんよ!」

 ……どう聞いても正妻の声だよね、片方。うわー、訛りのきつい言い方が、ものすっごい選民意識が漂ってて嫌だわ。

 微妙に手先が痺れているけれど動く。服は脱がされた形跡はない。あれ以上はなにもされなかったみたいだ。

 よかった……。

 ゆっくりと腕を動かして腕時計を見ると、あれから三十分も経っていない。多分、あの後すぐに正妻が乗り込んで来たんだろう。好かない人間だけど、この際はグッジョブありがとうというべきかも。

 私がほっとしている間にも、二人は言い合っている。

「あの千夏さんの何が不満やの?」

「千夏は浮気しているんですよ」

 周一郎さんがとんでもない嘘をつく。ちょっと待ってよ!

「なんですって? それは本当なの?」

 正妻の声が尖った。

「ええ。今だって男と逢引の最中です」

「……だれです相手は?」

「それは……」

 演技なのか本当に言いよどんているのかわからないけれど、周一郎さんは言葉を詰まらせた。さっきの脅しが本当だったら、正妻が部屋へ入ってきたせいで、なんの指示も出せていないはずだ。

 大きな口を叩いてた割には、やっぱり正妻には頭が上がらないらしい。

 ドアがノックされる音がした。

「誰?」

 正妻の問いに誰かの声が微かにする。もう一人秘書みたいな人がいるようだ。ドアが少しだけ開く気配がして、しばらくして正妻はため息をついた。

「来てしまったのは仕方ないわね。入っていいわ」

 誰だろう。

 複数の人間の気配が入ってくる。

「困りますね周一郎。勝手にうちの春香を連れ出してくれては」

 なんと忍さんだ。うっそ、敵地に乗り込んできて大丈夫なの?

「春香ちゃんからすり寄って来たのさ」

「嘘は困りますね。春香は私の恋人だ。みちるから聞いてます。無理やり気味に車に乗せたって」

 周一郎さんの嘘を忍さんはすぐに否定した。

「そうよお。私、見ちゃったんだからぁ。春香、ものすごく嫌な顔してたもんねぇ」

 みちるの暢気な声を聴いた途端、身体から力が抜けた。

 なんというか……ものすごく安心した。

 ドアに目を向けていたらさっと開いて、本人が入ってきた。

「あらあ。こんなところで暢気に寝てるなんて、病気になっちゃったのかしらあ?」

 にやにやしながら入ってきたみちるは、私の枕元まで歩いてきて、顔を覗き込んできた。うーわー、ものすごく楽しそうな顔。

 返事したいのだけれど、舌がうまく動かなくて返事ができない。

「変なもの飲まされたみたいねぇ。駄目よぉ、周一郎兄ぃはドラッグマニアだから、脱法ハーブかもぉ」

 うそ! そんなの困る! お酒じゃないの?

「どけ!」

 みちるを押しのけた忍さんが、私の額に手を当て、口を開かせてあちこち確認する。そして脈を取って安心したように目を和ませた。

「酒じゃないが、麻酔の薄めたような奴だろう」

「ふうん。周一郎兄ぃは医者に友達いるもんねぇ」

 みちるがそう言いながら、部屋へ入ってきた周一郎さんに振り向く。

 忍さんが涼しい顔で私を抱き上げた。

「目の付け所は悪くないが、場所が最悪ですね。春香が欲しかったんなら、最初っから春香を選べばよかったんじゃないですか? 仲人のつなぎなんてどっちも同じでしょう?」

「……黙れ」

 目で人を殺せそうな鋭さで、周一郎さんは忍さんを睨みつけた。みちるがよせばいいのにわざと怖がって、やだこわーいなどと茶化す。正妻の目も同じぐらい怖い。

 それなのに、忍さんは相変わらずのビジネススマイルだ。

「心配は無用です。他言はしません」

「わかるもんですか。あんな下賤な女の息子やもの」

 乱暴に言い放つ正妻に、忍さんは苦笑した。

「下賤なりの配慮ですよ。では」

 もっと手厳しく言うのかと思ったら、忍さんの口調は嫌に優しい。意外だ。

「忍兄さん」

「なんですか?」

 もう周一郎さんはいつもの穏やかさを取り戻していた。この人も大したものだ。

「本当にその女が大事なんですね?」

「……大事になどしていませんよ。貴方の目も曇りましたか?」

「少なくとも私は、千夏が誘拐されたとしても、自ら敵地へ乗り込んだりしませんよ」

 私は忍さんを見上げたけれど、忍さんの表情に変化はなかった。

 みちるがめずらしく、ため息をついた。

 廊下に人影はなく、誰にも見られずに地下駐車場に降り、忍さんの車の助手席に乗せられた。自ら運転して来てくれたらしい。

 駐車場を出てすぐに、けたたましいクラクションを鳴らすバス、行きかう車、バイク、そして人の混雑の中に吸い込まれた。もうちょっと郊外に建ててもよかったんじゃないかな。

 千夏はどうなったんだろう。

 正妻が来たから大丈夫だとは思うけれど。

 舌は大分動くようになってきた。まったく、お酒だと思ってたのに、よく考えたらお酒飲んだらザルの私が、コーヒーに垂らされた程度で、こんなふうに腰砕けになっちゃうわけがない。

 忍さん以上にとんでもない男だ、周一郎という男は。

 しばらく無言で運転していた忍さんが口を開いた。

「みちるが教えてくれなかったら、大変なことになってたぞ、ブス子」

 好きで乗ったんじゃないっての。千夏が心配だからだよ。そう言いたいけれど、舌がまだまともに動かないので諦めた。

「みちる。お前もその場で止めろよ」

「だってぇ。周一郎兄ぃが何企んでるか、わかった方がいいでしょぉ?」

「そんなもん、俺を追い落とすこと以外にあるのかよ」

「なあんにもわかってないのねぇ?」

 みちるが呆れたように笑った。

 ちょっとちょっと、みちる。変なこと言わないでよ。この悪魔を刺激しないで頂戴。バックミラー越しに後ろのみちるに目で訴えた。みちるは目をぱちくりさせ、ニンマリと口元を歪める。

「鈍感よねえ、忍兄ぃも、春香も。そっくり」

「あん? 俺は美形だ」

 自分で美形とか言うな!

「顔の形は違うわよぉ。恋愛スキルの話。まあ、面白そうだからしばらくは見てるだけにするわ。正妻に知れたから、周一郎兄ぃも今日みたいな真似は慎むと思うしぃ」

 二人の時は正妻なんて平気だって言ってたけれど、実際はあのざまだったものね。

「そう願いたい。なんだよあいつ。好みでもない女を、俺の女ってだけで抱こうとしやがって」

「周一郎兄ぃの彼女たちって、皆美人だもんねぇ」

 みちるが納得して同意する。

 どうせ私は美人じゃないわよ!

 マンションへ帰りつく頃にはようやく痺れが取れてきて、私は忍さんに毒づいた。

「忍さんと周一郎さんのいざこざに、私を巻き込まないでくださいよ」

「そんなの無理に決まってるだろうが。千夏さんがあいつと結婚した時点で、なんらかの巻き込まれは覚悟しておいて欲しかったな」

 ちょうどその時、マンションの駐車場に車は止まった。

 千夏の無事を確認したいのに、マンションの他の住人が少し離れた場所に車を止めて出てきたので、できない。

 再び忍さんに横抱きにされて、エレベーターに乗る。乗り合わせてきたマンションの住人の若い女性二人が、挨拶がてら、興味津々に私たちを見てくる。二人は多分モデルか女優だろう。服装も顔立ちも一般人とは思えない華やかさだ。

 しかし、そんな彼女たちより、忍さんもみちるも美形で華やいだ雰囲気を持っている。映えないのは私一人。疲れるなあ。

 マンションの部屋に入ると、みちるが勝手にキッチンへ入っていった。リビングに入った忍さんは私をソファに座らせて、着替えるために自分の部屋へ行ってしまう。

「もう大丈夫みたいねぇ。これ飲みなさいよ」

 キッチンに行っていたみちるが、オレンジジュースのグラスをくれた。……けどなんかこれ、そそぎかたが乱暴だったのか、グラスの底からぽたぽた落ちてくるんだけど。まったくどうしようもないお嬢様だわ。

 普段着に着替えた忍さんが部屋に戻って来て、私の横にどっかと座った。

「俺にもビールくれよ」

「もう。忍兄ぃは人使い荒ーい」

 文句を言いながらも、みちるは自分用の缶ビールを手渡す。忍さんはそれを一気に飲んだ。予想していたのか、みちるがもう一本手渡し、忍さんは気が利くじゃんと言いながら二本目を開けると、それは少しだけ飲んでテーブルの上へ置いた。

 みちるは、私たちの向かい側に座って、ミネラルウォーターをボトルで飲んでいる。

 ……あんた達、それ、皆私のだって忘れてない?

 なんで私のものは自分のもの、自分のものは自分のものなんだろ。

 それにしても千夏は大丈夫だろうか。

「千夏さんは大丈夫だ。心配すんな」

 まるで私の心が聞こえたかのように、忍さんが唐突に言った。 

「なんでわかるのよ」

「みちるに行かせた。普通に商談をしてたみたいだ」

「だって千夏は商談なんて……」

 忍さんは、わかってねえなと言って、前髪を掻き揚げた。

「千夏さんは、うちに嫁へ来たんだ。そういう教育を毎日受けてんだよ。最近では正妻にもみっちり仕込まれ中」

「……そう、なんだ」

 結婚に猛反対していたイメージだったから、ホテルでの正妻の千夏を庇う言葉は意外だったのよね。

「正妻はなんだかんだ言って、千夏さんにいろいろ期待している。うちの父親も母さんもだ。周一郎がお前の方が良かったとか言ったって、この三人が認めるもんか。誰がどう見たって千夏さんの方がいい」

「だと、良いけど……」

 貶されたと怒るところかもしれない。でも怒る気分にはなれなかった。千夏の賢さが、千夏の地位を守ってくれるんならそれに越したことはない。

 忍さんの携帯端末が着信し、忍さんが部屋を出ていくと、みちるが顔を寄せてきた。

「どーすんの? 周一郎兄ぃ、結構しつこいよ?」

「前に言ってたあんたのあれは、戯言だと思ってるわ。今もね。あの男が私が好きだなんてのは考えられないわね」

「まあ、純粋な少年のような想いじゃあないのは、認めるわ。歪んだ大人の、見るのも嫌などろどろした心の闇の奥底知れない、気持ち悪い愛だもの」

「千夏の気持ちが無けりゃ離婚を薦めるけれど……、千夏は手のかかる男が好きだからね」

「できる女は情けない男が好きなのよねぇ」

「へえ、早野チーフって情けないんだ?」

 当てこすりを言ったのに、ふふふとみちるは満足そうに笑った。

「仕事はできるわよぉ? 私生活が駄目過ぎるのよあの人。私と同棲するまでは、汚部屋に住んでたもん」

 きりっとした仕事中のチーフからは、想像もできない。

「へ、へえ」

「そんでえ、大体男と女はぁ、似た者同士がひっつくのよぉ。忍兄ぃは腹黒狸、あんたも腹黒狸、お似合いじゃないぃー?」

「何言ってんのよ! 私は腹黒なんかじゃないわよ!」

 あんな男と一緒にすんな!

 でもみちるは、本当に気づいてないんだあと、けらけら笑う。からかうつもりで言ったんじゃなくって、本気で言ってるみたい。嘘でしょ? 私は腹黒でも狸でもないわよ。

 電話を終えた忍さんが戻ってきた。

「ブス子。腹すいてるんならデリバリー取るぞ? 今日はお前も俺も料理は無理だわ」

 食欲なんてまったくない。けれど、心配するだろうしなあ……。

「私は帰る。じゃあねぇ?」

 てっきりずうずうしく自分の分を注文するかと思っていたのに、みちるは手を振りながらあっさりと部屋を出ていく。忍さんは私が好きな弁当屋のスペシャルデラックスを一つと、自分は焼きそば弁当を電話で注文した。

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