天使のキス ~Deux anges~ 第02話

 コンパの会場は、ひどくうるさくて騒がしい。

 結局麻理子は園子の誘いを断りきれず、職場である佐藤邸から離れた、とあるレストランの隅っこで一人、お酒を飲んでいた。

 男も結婚もする気はない。だから、言い寄ってくる男をすべて軽くいなし、飲んで飲んで飲みまくったら、頃合いを見て家に帰ろうと思っていた。男の人数の方が少ないので、麻理子が一人で飲んでいてもあぶれる男はいないから、場はそうは悪くならないだろう。何しろ、園子が頑張って盛り上げている……。

 はずだったのだが、ずっと隣に陣取っている、建設部の城山がやたらと話しかけてきて、ひどくうっとうしい。

 麻理子は、適当に受け答えて、一人の男を考えまいと努力していた。

 なのに、何故だか、飲めば飲む程あの貴明の顔が浮かんでくる。

 初めて面接で屋敷に行って、貴明と会った日。

 きらきらの朝陽がいっぱいに、あの大きな部屋に美しい陽射しを投げかけていた。

 髪の長い男が窓際で後ろ向きに立っていて、その男が振り向いた瞬間、さらに光が辺りに満ち満ちた。

 天使の様に美しい顔。しかし、それにそぐわない、鷹のように鋭い茶色の眼差し。貴明の身体全体が放つすさまじい威圧感に圧倒され、正直、怖いと麻理子は思った。

 それが伝わったのか、ほんの一瞬、貴明は目を和ませて優しい顔になったのに、直ぐに消してしまい、もとの顔に戻ってしまったのだった。

(一瞬抱きしめられた様な、気がしたんだけどな)

 カップを落としそうになった、今日の昼下がりを、麻理子は何回も思い出してしまう。

(気のせいか。私、嫌われてるし。私も嫌いだって散々言ってるし) 

 貴明に対する気の迷いを、振り払う為に飲んでるのに、何故だかますます脳内でクローズアップされて麻理子はイライラしていた。亜美のことも心配で、何度も電話をして、メールも送っているのになしのつぶてだ。

「ねえ、嶋田さんは好きな男居るの?」

 城山のしつこく聞いてくる声に、麻理子は我に返った。

 気づくと、もうお開きなのか、皆身支度している。

「いませんし、これからも恋人はいりません。他をあたって下さい」

 麻理子は自分の上着を着て、椅子から立ちあがった。あんなに飲んだのにふらつきもしない自分に、少し自己嫌悪が走る。可愛くない女だと自分でも思う。

「送るよ」

 外に出た麻理子を、さらに城山が追ってくる。麻理子は立ち止まって城山に向き直った。

「結構です。一人でも帰れます。まだ電車もありますし」

「まーそう言わないでさー」

 本当にしつこい。麻理子はぎっと城山を睨みつけた。しかし、その麻理子の表情が、城山の嗜虐芯をあおったらしく、抱きついてきた。

 びっくりした麻理子は助けを呼ぼうと見渡したが、皆先に行ってしまって、誰もいない。

「っや! 嫌!」

「いいだろ?……俺さ、ずっと嶋田さんが好きだったんだ…」

 そっちが好きでも私は嫌いだと、麻理子は懸命にもがいた。相手は酔っぱらいだ。力のコントロールができていない。渾身の力でふりほどき、城山の頬を思い切り殴って全速力で逃げた。城山が追って来ない所まで走ると、立ち止まって呼吸を整えた。

 こんなことが麻理子には日常茶飯事だった。何故だかよくわからないが、佐藤邸へ勤めだしてから異様にモテだした。それ以前はそうそう男は声をかけてこなかったのに、一体どういう変化なのかわからない。

 長い髪が女らしいからかもと思い、ショートカットにしても変化が無い。それどころか余計にひどくなった。正直かなり困っている。

「いい加減にして欲しいわ……」

 これだから男は嫌いなのだ。麻理子の父は、おそらくは、こんなふうにガツガツしていなかった。穏やかな紳士で、少々ファザコンの気配があった麻理子は、無意識に男性の中に父親を探してしまう。

 残念ながら、そんな男性は周囲にはなかなかいない。

 結婚したいわけでもないので困らないが、たびたびこれでは参ってしまう。

「でも、ここよりお給料がいいところはないから……、仕方ないわ」

 気を取り直して駅へ向かっている途中、大きな外車が隣に止まった。

 後部座席の窓が開き、中から男性が顔を出した。

「……乗りなさい。家まで送ろう」

 なんと、貴明だった。

 頭から追いやりたい相手と、一緒にいたくはない。第一、社長と同車するなど、気が重すぎる。

「いえ、電車もありますし、ここからだと車でも四十分かかりますので……」

「構わない、帰り道だ」

 断っているのに、貴明は強引だった。運転手が出てきてドアを開けたので、麻理子はしぶしぶ貴明の隣に座った。

 カーナビに地図が浮き上がり、麻理子のアパートまでの進路が映し出される。車はゆっくりと走り出した。 

 貴明は相変わらず一言も話さず、車内灯をつけて書類を見ている。その沈黙がやはり耐え難くて、これだから乗りたくなかったのにと麻理子は後悔した。この息苦しさに、あと四十分も耐えなければいけない……。

 十分程過ぎた頃、貴明は書類をケースに片付けて、腕を組み、目を閉じて眠ってしまった。奇妙な事だが麻理子はホッとした。初老の運転手も同様らしく、気さくに話しかけてきた。

「社長は働き過ぎなんですよ、朝早くから夜遅くまで毎日毎日……。休日なんてほんの少しなんですよ。普通、こういう大企業の社長は、方針だけ決めてあとは部下に任して、のんびりしているものなんですけどね」

「大変ですね」

「そう思います。早くご結婚されたら、いいなと思っておりますが……うわっ!」

 大型トラックが無理に入り込んできて、それを避けたために車体が大きく揺れ、寝ている貴明が麻理子の膝にそのまま倒れ込んできた。それでも貴明は起きない。

 麻理子はこの貴明の対処に困った。なにしろ男を膝枕した経験など無い……。

 結局、せっかく眠っているのを起こすのもどうかと思い、そのままやり過ごす事にした。

(なんで私、こんな事してるんだろ?)

 早く起きてほしい。運転手が気を利かして、いろいろ話しかけてくれるが、膝の上から伝わってくる、貴明の温もりが気になって仕方がない。昼間、一瞬抱きしめられた事をまた思い出し、心臓がうるさいほどドキドキする。運転手に、気づかれない様にするのが大変だった。

 やがて車は、やっと、麻理子のアパートの前に着いた。貴明はやはり起きない。どうやって起こしたら良いのだろうと麻理子が困っていると、運転手が大きめの声で起こした。

「社長、嶋田さんがお困りです!」

 貴明はそれで目覚め、麻理子の膝から起き上がり、ひとりごちた。

「ん……あ、着いたのか、気持ちよすぎて寝てしまったんだな……」

(気持ちよすぎて?)

 麻理子は、その貴明の言葉がひっかかった。

(まさか、この人)

 貴明は、うっとうしそうに、髪をかきあげた。その横顔が妙に気になり、麻理子はまた胸に甘い痛みを覚える。

 睨むように見つめる麻理子を見返し、貴明は悪戯っぽくにやりと口元を曲げた。

「ありがと、久しぶりに良く眠れた。ご褒美あげなきゃね」

(やっぱりわざとだ! わざと膝に倒れ込んできたんだこの人!)

 麻理子は、怒りと同時に、顔がかあっと赤くなるのを感じた。

「何もしておりませんので、結構です」

「まあ、そう言わずに。ね?」

 あの冷たいポーカーフェイスや、無口で不機嫌そうな、重苦しい沈黙の雰囲気はどこへ行ったのだろう?

 目の前に居る貴明は、別人の様にニコニコ微笑んでいる。どう対処したらいいのか、男性と付き合うスキルが著しく低い麻理子にはわからない。

 社長みずからが、ドアを開けて車を降り、麻理子の側のドアを開けた。

「どうぞ」

 おそれおおいご褒美だなと、麻理子は再び当惑しながら、車を降りて頭を下げた。

「あ、あの、どうも送っていただきまして、ありがとうございました」

「どういたしまして」

 再び貴明を見上げると、やはり普段とは別人の様に微笑んでいる。

 社長は実は双子で、目の前に居るのは、もう一人の弟か兄なのではと、疑ってしまうくらいの変貌ぶりである。

「じゃ、ご褒美あげるね」

 もう貰ったのにと思った瞬間、麻理子は貴明に、電光石火の早業で唇を奪われていた。

 ほんの一瞬だけだったが、押し当てられたそれは、やけに熱かった。

 呆然としている間に、唇を、ゆっくり人差し指でなぞられた。次に貴明は、その人差し指を自分の唇に押し当てた。嫌にセクシャルたっぷりな動作に、麻理子はもうついていけない。

 唇を押し当てたまま、はっきりと右目を瞑って、貴明は魅惑的に微笑んだ。

「膝枕のお礼。じゃ……おやすみ」

 貴明を再び乗せて、車は走り去っていった。

 しんとあたりは静まり返る。

 麻理子は、へなへなとその場に座り込んだ。

(い……い……今の、何? 私……。社長、私に―キスした―――! )

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