天使のキス ~Deux anges~ 第03話

「麻理子、麻理子ったら!」

 園子の声で、麻理子は、壁に激突する一歩手前で止まった。高価な花瓶を持って移動していたので、園子が声をかけてくれなかったら、確実に壁にぶつかって花瓶を落としてしまっただろう。

「それ一品物だから、割ったら何百万も、弁償しないといけなくなるところよ」

「助かったわ……」

 階段を降りて、踊り場の所定の位置に花瓶を置き、麻理子は園子にお礼を言った。

「なんか、最近様子が変ね。何かあったの?」

「何かって……」

 社長にキスされましたとか言ったら、何を言われるかわかったものではない。麻理子は園子達メイド仲間が、どれほど貴明に入れあげているか知っているので、とても言えない。

「別に何もないわ」

「ふーん。ところで貴女、コンパの日、城山君を殴ったんだって? いくらなんでもひどすぎやしない?」

「いきなり抱きつかれたら、普通殴るわよ」

「彼、それなりに人気があるのよ。もったいない事をしたわね」

「人気……ねえ」

 あのしつこさが人気とは、世も末だ。

 おまけに不意打ちするような社長が、絶賛されているのも理解しがたい。二人とも、顔と仕事の能力は素晴らしい。世の中やはり、顔と能力と金なのだろうか。

「私は園子と違って、男に免疫がないからわからないわ。それより聞きたいことがあるのだけど」

「何よ」

「……社長とさ……、夜勤で、キスした事ある?」

 あれから悶々と繰り返している悩みを、やっと麻理子は口にした。麻理子は家が没落してから人見知りになり、こういう話を打ち明ける友人を持たない。結局、経験豊富そうな園子に聞くしかなかった。

 ひょっとして園子達が、貴明について大騒ぎするのは、彼がキスとかやりまくり、彼女達に期待させているからではないかと思ったのだ。貴明が、内緒だよとか甘く言えば、ほぼ百パーセント落とせるに違いない。

「はあ!? 何言ってるのっ! きゃははっ」

 麻理子の質問に、園子は目を丸くしたあと、大笑いした。

 周りのメイド達が何々? と寄ってきた。麻理子は、意味がわからずきょとんとしていたが、皆が集まってきたので恥ずかしくなってきた。

 園子はひとしきり笑った後、言った。

「何を大真面目に悩んでるかと思ったら、何言ってんのよ、きゃははは……あの社長が? ありえないって!」

「何なのよ園子。麻理子は何て言ったの?」

「だって、だってさ……。社長と夜勤でキスしたかって? 馬鹿真面目に聞いてくるんだものっ」

「ええええ!?」

 他のメイド達も、園子同様に笑った。

「ほんっと麻理子ってば、ウブなんだから~」

「まさか、貴女、キスもした事無いわけ?」

 とんでもないことを聞いてしまったと、顔を赤くしている麻理子に、園子が意地悪い笑いを浮かべた。

「まさか、社長が好きになったの?」

「馬鹿! 違うわ! ……ただ……夜勤があたったりしたら……。そんなことも、ありえるのかなあって……」

 麻理子が消え入りそうな声で言うので、気の毒に思った他のメイドが言った。

「貴明様は、夜勤の誰もお呼びにならないわ。だから心配しなくていいの」

「そうよ」

 くやしそうに園子が口を歪めた。彼女は怒りに燃えていても、いや、むしろ怒りに燃えている時の方が綺麗だ。

「私、これでも落とせない男はいなかったのに! 貴明様ってば心は石なのかしら? とにかくあの社長が、夜勤のメイドにキスなんてありえないわね!」

 凄い剣幕で園子は言い、他のメイド達も頷く。麻理子は、じゃあ一体あのキスはなんだったのだろうと、ますます悩みを深くした。

 貴明は、女に手を出さない堅物なのか。そう思わせるのが上手な、軟派男なのか。

 園子達がうそをついているようには、とても見えない。しかし、園子が怖くて、貴明にキスされても黙っている、メイドがいるのかもしれなかった。

 貴明の新しいスーツが完成したので、それを手に持って麻理子は行きたくもない、貴明の部屋へ行き、扉をノックした。

 秘書の応答があったので部屋に入ると、貴明は専務の一人の前で、厳しい顔をしていた。あれは営業の専務だ。

「とにかくそれでは駄目だ。新しい案を早急に」

「はい」

 専務は頭を下げ、そそくさと出て行った。麻理子は頭を下げた。

 見ると、昼食の最中に仕事を持ち込まれたらしく、食事が机の隣のテーブルに食べかけのまま放置されていた。

 貴明は、書類数枚に何かを急いで書き、秘書に渡した。秘書はそれを手にして、頭を下げ、部屋を出て行った。

(……また、このパターンなの? どうして皆出て行くの?)

 二人きりになったうえに、なんだか近寄り難いので、麻理子は困った。

 その辺にスーツを置くわけにもいかず、暫く立ち尽くした。

 貴明は、テーブルについて昼食を再開し、猛烈ないきおいで食べ始めた。

 ろくに噛んでいないのがまるわかりで、これでは胃を壊してしまうのではと、心配するような飲み込みぶりだ。身内なら注意するが、上司なので麻理子は黙っていた。というより、声をかけるタイミングが見つからない。秘書はやっぱり戻ってきてくれない。

 いつも通りの、冷たい沈黙と無愛想さで、麻理子を息苦しくなってきた。

 貴明がお茶を飲み干したのを確認して、やっと麻理子は口を開いた。

「あの、社長。このスーツはどちらへ置けばよろしいのでしょうか?」

「うん?」

 いたのか? という表情で、貴明が顔を上げた。

「ああ……、試着しないとな。あっちの方へ持って行ってくれる? ソファに掛けておいて」

 あっちとは、行ったことのない寝室のほうで、にわかに麻理子は緊張した。ちなみに貴明の部屋は、東側が寝室兼プライベートルーム、隣にこの応接室、そして夜勤のメイドの詰め所となっている。

 さっさと置いて、仕事に戻ろう。麻理子はスーツを隣の部屋へ持っていった。

 想像以上に広く、しゃれた雰囲気の部屋だった。白の壁に対して、家具は焦げ茶色や黒で統一されている。飾られている絵画はよくわからない抽象画なのに、色彩が落ち着く色ばかりで、部屋の主のセンスが伺えた。本棚が一角にあり、さまざまな難しい本がずらりと並んでいた。

 部屋の主はともかく、こんな部屋に住んでみたいなと、麻理子は思った。

 スーツをソファにかけて、応接室へ戻ろうとする麻理子を押し戻すように、貴明が部屋へ入ってきた。

「それって、どんなネクタイが似合うと思う?」

「は……あ。どちらかというと明るい目の方がよろしいかと」

「そこのクローゼットにネクタイがあるから、選んできて」

「……はい」

 なんでそこまでしないといけないのだろうと、麻理子は内心で毒つきつつ、仕方なくクローゼットを開け、並んでいるネクタイから、数点似合いそうなものを取り出した。戻ると、新しいスーツを貴明が着たところだった。とてもよく似合っていた。

「いつもながらいいね。ありがとう」

「気に入っていただけて、うれしいです」

 めずらしく感想を言われて、麻理子は少し心の中で舞い上がった。前回までなら、無言で貴明が受け取り麻理子はそのまま退室というのが、当たり前になっていた。この間の悪口を気にしているのかもしれない。あれは言いすぎだったし、やはりよくなかっただろう。

 麻理子がネクタイをソファに掛け、頭を下げて、そのまま部屋を出て行こうとすると、貴明の声に呼び止められた。

 振り向くと、あの夜の様に貴明は微笑んでいる。

 何故だか、嫌な予感がした。

「……なんですか?」

「ネクタイは君が結んでよ」

「は?」

「社長命令、さ、早く」

 せき立てられて、麻理子は仕方なくネクタイを一本取り、おそるおそる貴明に近寄った。

 大丈夫大丈夫。この人はこの前、多分疲れてたんだ。だから今日はなにもしないって! と、自分に言い聞かせた。

 ネクタイは、父親のを何回か結んだことがある。

(背、想像以上に高いわね)

 小柄な麻理子に対して、なんだか貴明は聳え立っているように思える。確か身長は181センチだった。屈んでくれるのはいいが、顔が異様に接近するので、また胸がドキドキ言い出した。

「なんか緊張してる?」

 貴明が麻理子の耳もとで囁き、息がかかって麻理子は飛び上がった。

 早く離れようと、ネクタイを懸命に結び、さっと離れた。

「……そんなに急いで結ばなくても、……なんか、苦しい」

 ぶつぶつ言いながら、貴明はネクタイを緩めている。

 接近してくるそっちが悪いのだと、麻理子は思いながら、ドキドキうるさい胸を抑えた。

「自意識過剰で、なよなよしてて、ホモじゃないかと疑ってる男だから、絞め殺したいとでも思ってるの?」

 やっぱり、貴明は気にしていたのだ。麻理子は慌てた。

「あの、あの、すみません。私、よく知りもせず……」

「そう、よく知りもしないで、あんなことを言えたものだねえ。ふふ」

 じっと見られると、なんだか逃げられない錯覚に陥る。

「言っておくけど、僕は普通に女が好きだし、男に恋愛感情なんて持たないよ」

「そ、そうですよね。あんなに女性に人気がおありですし」

「そう。好きでもない女ばかり寄ってきて、うるさいし、はっきり言って迷惑してる。どうしたらいいと思う?」

 座りたくもないのに、視線に制されて、麻理子は操られるかのごとく、何人がけなのかわからない、横にやたらと長いソファに座った。隣に貴明が座り、麻理子の背もたれの方へ腕を回した。

(近すぎる……)

 なんなのだこれは。麻理子は当惑した。

 貴明は香水をしない主義なのか、石鹸のにおいがする。それほど近い。

 早く逃げ出したい一心で、麻理子は必死に言葉を振り絞った。

「それは、早く、ご結婚されたらよろしいのではないかと……」

「その相手に、ずいぶん嫌われてるみたいなんだ。どうしたらいいと思う?」

 何でそんな相談を、昼間から受けなければならないのか、麻理子には皆目見当もつかない。

「しゃ……、社長をそんなに嫌うのは、……あの、ちょっと、どこかおかしいのではないかと」

「おかしいって、どこが?」

「審美眼とか、好みとか」

「ふうん。じゃあ、そういう相手が好きな僕も、どこかおかしいのかもね」

 顔が物凄く近い。身体がやけに緊張し、膝の上に握り締めている手も汗が滲んできた。

 これ以上近づかれると困ると思っていると、通じたのか、貴明はやっと離れてくれた。しかし、背もたれの腕はそのままだ。

「社長なんかやってるとね、気持ちを打ち明けようものなら、セクハラと言われかねないんだ。一方で結婚しろ結婚はまだかと言われる。身動きできないのに、どうやって相手に気持ちを伝えたらいいんだろうね?」

「……大変ですね」

「そう、大変だ。挙句、好きでもない女を押し付けられたりする」

「…………」

 そんなふうに考えたことはなく、やはりあれは言いすぎだったと、麻理子は後悔した。キスされたのは立派にセクハラだというのに、完全に抜け落ちてしまっているのが、麻理子の単純さと言うか、恋愛に関してまるで鈍感なのが伺える。

 さっと、貴明が立ち上がったので、麻理子も立ち上がった。

「仕事中、引き止めてすまなかった。もういいよ。また後でね」

「……失礼します」

 後とは何だろう。何か、釈然としないものを胸に抱え、麻理子は退室した。

 メイドの詰め所に戻った麻理子を、黒縁眼鏡を掛けた、メイド長が待っていた。

 この女性は年齢不詳で、若くも見えれば、老女にも見える不思議な女性だ。とても仕事に厳しく、メイド達から恐れられているが、その反面面倒見がいいので、麻理子のように家族がいないタイプには慕われていた。

 誰もいない詰め所で、メイド長は言った。

「嶋田さん、今日の夜勤を命じます」

「……あの? 私は今までしたことないのですが?」

 メイド長は無機質な瞳で、黒縁眼鏡の中から麻理子を覗いた。

「そうだったかしら? でもこれは決まったことだから……」

 さっき貴明が言った、『後でね』の意味がようやくわかった。とっさに拒絶の言葉が出た。

「嫌です!」

「……嫌?」

「私でなくても、やりたい人は沢山います。メイド長は、私がどういう境遇かご存知な筈です。社長は…」

「借金を押し付けて、貴方の両親を不幸にした人間の、息子でしたね」

 感情の無い声で、メイド長はその後を続けた。

「……ええ……」

「つまりは全くの私情です。こちらはきちんと貴女に見合った仕事を与え、給金を支給しています。貴女にできない、無理難題を申し付けたことが一度だってありましたか?」

「……ありません」

「社長は、無体な真似をされる方ではありません。何かあったら、私が責任を取りましょう。引き受けますね?」

 この人はいい人だが、感情が無いと麻理子は思う。

「でも……」

「これ以上の、言い訳は聞きません。貴明様を良く知りもせずに、一方的な理由で夜勤を断るのは、失礼と言うものでしょう。問題があったなら、とっくにメイドのグループは解散しています。誰か危ない真似をされたと言いましたか? ないでしょう?」

「はい」

「引き受けますね?」

 麻理子は黙り込んだが、承諾するしか無かった。

 

「園子、今日の夜勤、麻理子なんだって!」

 麻理子がいない部屋で、メイド達が騒いでいる。

 園子は、鼻で笑った。

「来るべき時が来たってわけ? どのみちあの社長が、あの麻理子に手を出すなんてありえないわよ。私たちでも相手されないんだから」

 自分の美貌が一番だと、彼女は自負している。

「でもさあ、なんでいきなり……あの子三年も呼び出しなかったんでしょ?」

「変わり種が欲しかったんじゃない? メイド長も」

 嘲る様に園子は笑う。

「それにしても、城山君も駄目ねえ。あれだけチャンスをあげたのに、麻理子に殴られるなんて情けないわ」

 先日のコンパは、実は、麻理子と城山をひっつけるために、園子が仕組んだのだった。

「城山君、もう他の子に目がいってるみたいよ。受付の、新卒で入ったばかりの池上さん……」

 他のメイドが言うと、笑いの渦が沸き起こった。

「そりゃあ、行き遅れの二十七歳のおばさんより、二十二歳の若い美人がいいでしょう」

 大きな口を叩く園子は、二十二歳と若い。メイド達の中では、麻理子が最年長だった。

「でも麻理子……、メイド長のお気に入りだから、油断ならないわねえ……。しかも何故か、やたらもててるし、今日の夜勤が、貴明様のお声掛かりだったら、たまらないわね」

「なんで麻理子が、メイド長のお気に入りだって、知ってるのよ園子?」

「先日のあの紅茶、メイド長からもらったのよ。あの子誰からもらったのかって、メイド長の時だけ絶対に言わないのよ、ばればれなのにさ。その辺が抜けてるのよね……お嬢様だったからかしら?」

「今は、借金まみれの平民以下の生活だけどね」

「言えてる~」

 そう言って、意地悪く笑いあうメイド達を、通りかかった貴明が見ていたのを彼女達はしらない。貴明はため息をついて、その場を通り過ぎていった。

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