天使のキス ~Deux anges~ 第06話

 白いレースのカーテン越しに、爽やかな朝陽が差し込んでくる、気持ちのいい朝だった。

 貴明に部屋へ連れ戻された麻理子は、まだ配膳されていない朝食の席に座らされた。

(どういうことなのよどういうことなのよ)

 悶々としている麻理子をよそに、貴明は機嫌よさげに手際よく、ワゴンから朝食を配膳していく。本来これは夜勤のメイドである麻理子の仕事であるのだが、混乱している麻理子はまったく気づいていない。

 また貴明も、一人であっという間に配膳を終わらせてしまった。

「さ、冷めないうちに食べよう」

 貴明は朝食を食べはじめた。

 麻理子はしばらくためらっていたが、しぶしぶ箸を取った。

 朝陽に照らされた貴明は、あの黄金の髪が光をうけて輝き、いつもにまして神々しい。他のメイドならうれしさのあまり卒倒するかもしれない。

(それにしても、本当にこれからどうなるの私)

 執事が口にした旅行の件が、ぐるぐると頭の中で渦巻いている。

 朝食はとても美味しい。

 美味しいが、気になってなかなか箸が進まない。

 一方、貴明は早くも食べ終わり、自分で急須にお茶を注いだ。

 そして、湯のみを手に取って一口啜り、麻理子を見てにっこり微笑んだ。

「言うの忘れてたけどさ、今日から一週間、僕の休暇につきあってね」

 麻理子は、食べていた物を喉に詰まらせそうになり、むせて咳き込んだ。

「あれ? 大丈夫?」

 貴明はきょとんとしている。

(やっぱり本当なの!)

 とんでもない話だ。麻理子は咳を抑えながら言った。

「な……なんで、私が社長の休暇につき合わないといけないんですか!」

「なんでって、決めたから」

 貴明は何言ってるのという顔をする。

「わ、わ、私はお断りします!」

「だーめ、もう決めたし」

「勝手です!」

 貴明は、にやにや笑ってテーブルの上で指を組み、顔をその上に載せた。

「もちろんタダでとは言わないよ。一日で20万の手当を付ける。一週間だったら140万、悪くないと思うけどね……」

 破格の待遇に麻理子は黙り込んだ。

 借金だらけの自分には、お金は喉から手が出る程欲しい代物だ。

 しかし……。

 ちらりと貴明を見た麻理子に、貴明はわかったように頷いた。

「何を気にしてるのかわかるよ。安心して。部屋はずっと別だから」

「……それなら」

 いいかも……と麻理子は思った。

 だが、思っただけだ。

 くすりと貴明は声を出さすに笑った。

「商談成立だね」

 麻理子は思い出した様に立ち上がった。

「あ、私、家の鍵をロッカーに入れたままですので、取ってきます。家に帰って荷物まとめないといけませんし」

「そう、じゃあ車で送るから、取ってきたら表玄関で待機してくれ」

「はい、では早速……。あ、でも食事」

「僕が片づけるよ。用意しておいで」

「では……」

 椅子から立ち上がって頭を下げ、麻理子は仕事を終えたメイドのように部屋を出た。

 そして、ロッカーには向かわず、裏門へ急ぐ。

 着替えている余裕などない。

 貴明に感づかれる前に、さっさと屋敷から出て家へ帰る算段だ。

 さすがに家までは追ってこないだろう。

(冗談じゃないわ! 絶対に絶対に旅行なんて行くものですか! 部屋が別でも信用できないわ)

 実は家の鍵はスカートののポケットに入っている。

 社長である貴明とと一緒に旅行なんて、絶対に困る。

 同僚が居たら代わりを頼みたい位だが、居ないのでどうしようもない。

 あれほど貴明様カッコいい、社長素敵とか言っているし、園子など貴明のベッドに乗り込むほど彼に気に入られたいのだから、喜んで代わってくれるだろうから、今目の前に現れてくれたら助かったのに……。

 裏口へ通じる廊下は普段使われないので、人影はない。

 麻理子はほとんど走っていた。

 裏門が見えるとホッとした。

(これで帰れるわ、ってあれ?)

 鍵がかかっていて門が開かない。

 仕方ない、なんとか乗り越えられる高さだから昇ろうかと麻理子は思い、鞄を放り投げようしていると、後ろから誰かが声を掛けてきた。

「大変そうですね、お手伝いしましょうか?」

「あ、はい、すみませんお願いしますって……。え?」

 麻理子は振り向いてぎょっとした。

 背後に居たのは、部屋にいるはずの貴明だった。

 にっこり笑って腕を組んで立っているその笑顔から、底知れぬ威嚇と威圧感を受ける。

 間違いない。怒っている。

「……何してるの? こんな所で」

 そっちこそなんでこんな所いるんだと、麻理子は心の中で思った。

 取り合えずその場を凌ごうと、麻理子は普段の自分からは想像もつかない苦しい言い訳をする。

「いえ、あの、その……ここが表玄関かと」

 深い深いため息を貴明はついた。

「君、ここに三年も勤めてるだろ? こんな所が表玄関だったら、皆、うちの屋敷は倉庫なのかと思うだろうよ?」

(こうなったら最後の手よ)

 麻理子は、突然貴明の背後を指さして叫んだ。

「あ! あれなんですか?」

「?」

 貴明の注意を逸らして、麻理子は走って逃げた。短距離には自信がある。しかし、十メートルもいかないうちに、あっさり貴明に捕まってしまった。

「君はバカか? こんな初歩的なものにひっかかる人間がいるか」

「引っ掛かってたじゃないですか!」

「フリだ」

 貴明は、逃げない様に麻理子の腰に右腕を回し、首にぶら下げている携帯端末を左手で取り出した。

「私だ。すまないが、表玄関の車を第二裏口までまわしてくれ、裏門の鍵も一緒にな」

 麻理子は暴れた。

「離して下さい! なんで私が社長と旅行に行かなきゃいけないんですか~」

「そんな事だろうと思ってた。見張らせてて正解だな。鍵もちゃんと持っている」

 貴明の自由な方の手が、麻理子のスカートのポケットから鍵を取り出してしまう。びくともしない貴明の右腕を解こうとしている間に、貴明の車が裏門に回され、裏門の鍵が開けられた。開けたのは佐藤邸に勤務している全身黒づくめのボディーガードで、黒のサングラスのせいで彼らの素顔を未だに麻理子は知らない。

 車は明らかに特別仕様車の、白いメルセデスベンツだった。

「はい、乗ってね」

 貴明が助手席のドアを開ける。

 麻理子は貴明を恐る恐る見上げた。

「あの、やっぱり行かないとといけないんですか? 他の人たちでもいいんじゃ……」

 貴明がため息をついた。

(あ、行かなくていいのかも)

 そう麻理子が思ったのは一瞬で、次には貴明にいきなり抱き上げられ、助手席に押し込まれていた。

 ばたんとドアが閉まる。

「きゃああ! 誘拐!」

「君を誘拐しても身代金がとれないだろうが、借金などいらないぞ」

 運転席に座った貴明があきれながら言い、車を発進した。

 バックミラー越しに、ボディーガード数人が頭を下げているのが見えた……。

 普段歩いている道の景色が、あっという間に過ぎ去っていく。

 麻理子は横目で貴明を見た。サングラスをかけてしまったので目が見えなかったが、口元はなんとなく笑っている。

(私って、社長のお気に入りのおもちゃみたいに思われてるのかな)

 やっぱりとんでもない話だ。

 麻理子は内心でこっそりため息をついた。

 二人ともあまり話さないまま、麻理子のアパートに着き、麻理子は車を降りた。

 道路わきに停められた車は、いかにもな高級車なので目立って仕方がない。所有者も目立つ。

「では社長。しばらくお待ちください。すぐに支度を……」

「僕も行く。逃げようとするに決まってるからね」

 すっかり先を読まれている。

「逃げたりなんかしませんから」

「どうだかね。信用できない」

 ふんと鼻で笑って、貴明は車を止めてキーを掛ける。

「本当に困ります!」

「はいはい、行く行く!」

 強引な貴明に麻理子は泣きそうになった。

 麻理子の部屋はこのアパートの三階の左の角部屋だ。

 一階の右の角部屋の隣にある階段へ向かっている途中、ちょうど、一階の住人の若い女が出てきて、麻理子と貴明を見てぎょっと目を見開いた。

(ほらあ!)

 派手な格好をしているわけではないが、貴明は金髪の長髪の超美形で、とにかく目立って仕方がない。

 こうなったら、早く支度をするに限る。

 だが悪いことは重なるもので、三階へ着いた途端、アパートの大家が手前の部屋からちょうど出て来た。

(最悪だわ……)

 大家は、噂好きのおしゃべりな中年女性なのだ。

 短い挨拶の後、早速突っ込んできた。 

「ところで麻理子ちゃん、こちらの方どなた?」

「ど、どなたって……会社の人です、ただの上司です、はい」

「ただの上司の方が、貴女のお部屋にいらっしゃるの?」

 大家の鋭い突っ込みに、麻理子は声が詰まってしまう。

「いえ、あの、えっと……」

 言いよどんでいると、貴明が麻理子の前にしゃしゃり出てきた。

「いつも彼女がお世話になっていますね。佐藤貴明と言います。どうぞよろしく」

 超美形の貴明の営業スマイルに、おばさんは少し気圧されたもののすぐに鋭く突っ込んできた。

「佐藤さんって、麻理子ちゃんのお勤めしている会社の一番お偉い方じゃないの。一体本当はどういうご関係?」

「今、口説いている最中なんですよ。でも彼女なかなか難攻不落で」

 貴明がとんでもないことを言い出したので、麻理子は無我夢中で貴明を押し退けた。

「ただの、た・だ・の! 上司ですので!」

 大声で否定して貴明の左腕を引っ張る。これ以上変な妄想をされたくはない。

「別に隠さなくてもいいのにねえ……。麻理子ちゃんも年頃なんだし。それにしてもいい男ねえ~」

 と、背後で大家が呟く声が聞こえ、麻理子は顔から火が出る思いだ。

 大変なことになってしまった。あのおしゃべりな大家の口にかかったら、明日から貴明が恋人になってしまう。

 部屋の前で振り返り、麻理子は小声で抗議した。

「社長! 変な事言わないでくださいよ!」

「いいじゃないか、言いたい奴には言わせておけば。人の噂も七十五日。こそこそしてたらそれこそ変な妄想されるのがオチだよ」  

「従兄弟のお兄さんとか、義理の兄とか言ってくださいよ」

「……余計に怪しまれるよ……それ」

 麻理子はうまくごまかすとか、そういう話術は苦手なのだ。

 それにしてもほとほと疲れた。 

「社長、もう一度申し上げます。私、もう逃げませんから、車でお待ち願えますか?」

「こっちも、もう一度言うけれど、絶対信用できないね」

「…………」

 事実なので、麻理子は何も言えずに部屋の鍵を開けた。

「ここで待っててくださいよ。上がってこないでくださいよ!」

 麻理子が沓を脱ぎながら注意している間に、貴明はさっさと沓を脱いで上がり込んできた。

「ふーん。綺麗にしてるねえ」

「ちょっと! 社長! 勝手に上がって来ないでくださいって言ってるんです! 男性なんて入れた事ないんですから」

 貴明が不満顔で振り向いた。

「僕の部屋、君はかなりの数入ってるだろう? 不公平じゃないか」

「私は仕事です!」

「僕も仕事だよ」

 埒が明かない。

 どこまで強引でずうずうしいんだと麻理子は腹を立てながら、旅行鞄を取り出して荷物を詰め始めた。

 こうなったらさっさと支度をして、部屋から追い出そう。

「本がいっぱいだ。女性の部屋というより、学者の部屋だね」

 部屋をしばらく見渡してから、貴明が言う。

「日々勉強してないと、遅れちゃいます。インテリアも、ファッションも」

「そう。どの分野も同じだね。マーケティングもそうだよ。専門家チームがもう一ついる状況になってきたよ、はあ……」

 勝手に貴明が麻理子のベッドに寝転がり、大きく伸びをした。

 麻理子は飛び上がった。

「勝手に寝ないでくださいよ! 降りてください!」

「君だって僕のベッドで寝たじゃないか。あ、いい匂いがする…」

「社長が勝手に寝させたんでしょーが! もう! 降りてください!」

 麻理子は貴明の腕を引っ張ったが、重くて動かせない。反対に貴明に引っ張り込まれてしまう。

 大きな男の身体が麻理子に覆いかぶさった。

「重たい! どいてくださいっ。体重何キロですか!」

「体重なら多分、七十キロかなあ」

「重すぎ! ダイエットしてくださいよ。肥満は病気の元ですよ」

「僕、太ってないよ。君だってわかってるだろ? いつも採寸してるんだから」

「あ、そっかB92、W70、H85でしたっけね」

「そうそう」

 言いながら、貴明は麻理子を抱きしめてきた。

 そのまま手をスライドさせてくるので、麻理子は顔を赤くして暴れた。

「どこ触るんですか! セクハラですよ!」

「君のサイズは多分……Cカップの75、W58、H85といったところかなあ……」

 見事に当たっていて、麻理子は感心した。

「凄い! よくわかりますね、見直しました……って、え……」

 そこまで言って麻理子は、はっとした。

 ベッドの上に自分は寝転がってて……貴明が上に乗ってて……。

 顔が紅潮して、心臓が強く鼓動する。

 貴明がくすくす笑った。

「どうやら本当に君って仕事人間なんだね。反応するのが遅すぎ。女としてどうなの?」

「余計なお世話です。社長はどうなんですか」

「僕? ここ数年ご無沙汰だな。なにしろ仕事が忙しすぎて。でも何人か女性と寝た事あるよ。彼女達に言わせると僕と寝ると最高なんだって、今試してみる?」

 貴明の薄茶色の瞳にいつもと違う色が混じる。

 危険な色だ。ぞくぞくするような色気が、異様に甘い鎖となって麻理子を縛り、動きを封じてしまう。

 麻理子はキスも貴明に奪われるまでしたことがなかったため、当然セックスも未経験だ。なぜだか佐藤邸に勤める様になってからモテだして、男に押し倒されたり、抱きつかれたりされたことは何度と無くある。だが、全てひとりで切り抜けてきた。

 だが貴明は異様な程隙がない。ぴたりと麻理子を押さえつけてのしかかっている。こんな男は初めてだった。貴明に飲み込まれそうになりながらも、麻理子は理性を総動員させる。

「何をおっしゃってるのでしょうか? 屋敷に沢山社長目当てのメイドや従業員がいるんですから、夜勤にお呼びになったらいかがしょう? 凄い美人、もっとスタイルいい人がいますよ。亜美なんて若いし美人でスタイルも抜群でしたよ、辞めちゃったけど、今すぐ電話するんで代わりに旅行にいってもらいましょうか。亜美は、もの凄く社長が好きでしたから、喜んで来てくれると思います」

 みるみる貴明の目から危険なものが消えた。

「……そんな事しなくていい」

 興味なさそうに貴明は呟き、麻理子を離してくれた。

 助かったと麻理子は思い、ドキドキする胸に知らないふりをしてベッドから降り、再び荷物を詰め始めた。

「ところで、どこに行くんですか?」

「……北海道の道東だよ」

「車で北海道まで行くつもりじゃないですよね?」

「飛行機で羽田から旭川までいくよ。今日の午後三時発。それ以外の時間はファーストクラスが空いてなくて……」

「とても時間ありますが? まだ朝の十一時です」

「食事してたらあっという間だよ。ここの近くに行きつけのレストランがあるから、そこへ行こう」

 それを聞いた麻理子は、不思議なことにこんなことを口にしてしまった。

「昼食なら私が作りますよ。冷蔵庫の中のもの、一週間も置いておいたら腐っちゃいますし」

 貴明は訝し気な顔をする。

「君料理できるの? イメージじゃないんだけど……」

「失礼ですね! その辺の人よりはできますよ!」

 言ってしまってから、麻理子は自分の言ったことを後悔した。

 早く部屋から出てしまおうと思っていたのに、これでは出られなくなってしまうではないか。だが、食材がもったいないのは間違いない。節約家の麻理子は、食材を無駄にするのは絶対に嫌なのだ。

(人のうわさも七十五日だし)

 貴明の言葉を思い返し、麻理子はだからいいのだと強く自分に言い聞かせた。

 荷物の準備ができると、麻理子は昼食作りにとりかかった。

 貴明が見物しに傍にやってくる。

「へえ……手際いいね。箱入りのお嬢様育ちって聞いていたから、できないって思ってた」

「結婚して、平凡な主婦になるのが夢でしたからね。家事全般はできますよ」

「男ふりまくってるのに、そんな夢があったの?」

「……昔の事ですよ」

「………」

 数十分で料理を作り終え、盛りつけ、テーブルの上に並べると、貴明はきちんと手を合わせて食べ始めた。

「うわ、めちゃくちゃ美味しい!」

 そう言うなり、貴明はもの凄いスピードで食べ始めた。

 まだ朝食からそんなに時間が経っていないのに、恐ろしい早さだ。

「社長。もっとよく噛んで召し上がってください。早食いは健康に悪いです」

 麻理子の注意に、貴明は茶碗を下ろした。

「ああ失礼。癖でね」

「社長はもっと優雅なイメージがあったんですけど」

「外では品よくしてるよ」

「なんで今は品が悪いんですか?」

 貴明は、それには答えないで、再び食べ始めた。だんだん早くなっていく。すぐに元のスピードになった。美味しくてたまらないのだと、見ていてわかる。

(なんだか子供みたい)

 麻理子は微笑んだ。今までは、こんな貴明は想像できなかった。

 食べ終えて、麻理子が入れたお茶を飲みながら貴明が言った。

「君、いい奥さんになれるよ。料理は美味いし、お茶入れるのは上手だし」

「私は誰とも結婚しませんから」

 麻理子は首を横に振った。

「そう……」

 貴明が黙り込み、部屋が静まり返ってしまったので、麻理子は音を求めてテレビをつけ、食事を再開した。

 流れてくるのは海外のサッカー中継だ。

(そうよ。私は結婚なんてしない。……できない)

 華々しい道を歩いてきて、そのままその道を歩いていく貴明にはわからない感覚だろう。

 所詮は道が違うふたりなのだ。

 麻理子はそう思うのだった。

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