天使のキス ~Deux anges~ 第07話
隣の部屋から戻ると、貴明は、また麻理子のベッドに勝手に横たわっていた。ベッドが小さいせいで、かなり足がはみ出しており、なんだか寝づらそうだ。
なんとなく、麻理子は、貴明を見下ろした。
女性より少し太い眉、長い睫に、形のいい高い鼻、これだけは男の持ちものだとわかる意志の強さを感じる唇。ストレートの長い金髪。西洋人とも東洋人ともつかない、整いすぎた顔。
まさしく、天使のような美しさだ。
そう言えば、亜美や園子が、貴明の写真が欲しいのに一枚もないと、ぼやいていた。そこいらの俳優より美しいのだから、そう思われても無理はなさそうだが、貴明は、TVや雑誌新聞の取材には、滅多に応じない方針のようで、自分の仕事ではないからと、断っているらしい。
(亜美……、あれから連絡取れないけど、どうしてるかな)
突然、目を開いた貴明と目が合った。その眼光の鋭さに驚き、麻理子は後ろに身を引いた。
「準備、できたの?」
「は、はい」
のそりと起き上がって、貴明は落ちかかる前髪をかきあげた。
「……化粧してる。初めて見た」
「作っている服についたらいけませんから。変でしょうか、やっぱり」
「変じゃないよ。ちょうどいいと思う」
貴明はにこりと笑い、スーツのポケットから小さな箱を取り出して、麻理子に差し出した。
「なんですか? これ」
「開けてみて」
中身は、ピンク色の小さなルビーがついた、銀色のピアスだった。
「あ、あの、ちょっとこういうものはいただけないんですが…」
「プレゼントじゃないよ。うちの規則。僕と一緒に外部で行動する人は、指輪かコレをつけることになってるの。男性は殆ど指輪。女性はピアス。終わったら返してもらう」
「GPSですか?」
「そう。僕もいつもしている」
貴明は、いつも左手の中指にはめている、幅広の銀の指輪を麻理子に見せた。貴明といると、いろいろと物騒な事件に巻き込まれやすいらしい。本当なら災難を呼び込む人間と一緒にいたくはないが、ここまで来たら、くつがえせようもない。
麻理子は自分のピアスを外そうとして、貴明に止められた。
「僕がする」
貴明の息がかかり、指が耳に触れると、またドキドキと麻理子の胸は文句を言い始めた。
顔が熱くなってくるのを感じて、貴明に意識している自分を気づかれないように、固く目を瞑る。
「できた」
指が離れ、そっと目を開けると、まだ貴明の顔が間近で、麻理子はびっくりした。ドキドキがより一層強くなり、聞こえてしまいそうだ。
「ふふ、真っ赤だよ」
「き、気のせいです。暑いし」
「今日は少し寒いけど?」
「私は違うんです!」
天使の美貌が、破壊力抜群に微笑む。
「そう? ま、それ、旅行中は必ずしていてね。決まりだから。忘れると減額だよ」
動悸で、頭がぼうっとする。
「嶋田さん?」
「は……い」
こくりと、麻理子はうなずいた。
「あ、もう一つ今回だけの規則。今、作った」
「何ですか?」
「お互いを下の名前で呼び合おう。うん、我ながらいいね!」
なんのことはない、貴明は、恋人ごっこがしたいだけなのだ。麻理子は呆れた。多分、普段、社長として拘束されているので、フラストレーションをなんとか払拭したいのだろう。
しかし、本人は麻理子の呆れ顔に、気づいていないようだ。その証拠に、
「ねえ、いいよね、麻理子?」
などと言う。普段なら許しそうもないのに、無邪気な笑顔で言われて、つい麻理子は了承してしまった。
「了解しました」
「じゃあ早速呼んでみてよ」
「い、今からですか」
「うん。練習しないとね」
何故、練習が必要なのかわからない。なのに逆らえそうもなく、麻理子は初めて、親類縁者以外の男の名前を口にした。
「た、た、たか……貴明様」
どもってしまう麻理子に、貴明は、ますますうれしそうに笑う。あの冷たくて息詰るような雰囲気は皆無で、目の前の男は、穏やかで明るくて楽しい。そう思った自分に、麻理子は驚きを隠せない。
毛嫌いする気持ちが、また、少し溶けた。
空港のロビーは、人でごったがえしていた。日本人ばかりではなく、外国人も沢山入り混じり、人種のるつぼと化している。
こんなにたくさんの人を見るのは、ずいぶん久しぶりで、なれない麻理子は、長いすに腰をかけてため息をついた。
貴明は、会社関係の知り合いに偶然出会って、少し離れた場所で話し込んでいる。観葉植物の陰からちらりと見える横顔は、すっかり社長の顔に戻っていた。相手も同じようなものだろう。
この旅行は、貴明が息抜きにと計画したもののようだ。成程、ずっとあんなふうにしていたら、息も詰まるはずだ。
誰でも、会社で働く顔という、仮面を持っているが、貴明の場合は行き過ぎた感が拭えない。そう思っているのは、貴明に対して苦手意識が強い麻理子だけかもしれないが……。
目の端に、人ごみの中にちらりと、見知った顔が見えた。
同僚の園子だ。
一人ではなく、若い外国人男性と一緒だった。お互いの腰に手を回している姿は、明らかに恋人同士だ。麻理子に気づかず、園子は国際線エリアのほうへ歩いていく。麻理子達のグループは、今日から全員長期休暇に入るので、海外に行っても不思議ではない。
なんだか解せない。園子は貴明に夢中なのではなかっただろうか。あの外国人が本命で、貴明はお遊びなのだろうか。園子は恋多き女らしく、佐藤邸へ入るまでの武勇伝を聞かされたことがある。潔癖でおくてな麻理子には、次から次へと恋人を変えるという、園子の嗜好が理解できなかった。
話を終えた貴明が、麻理子の隣に戻ってきた。
「ごめん待たせたね、ん? どうした?」
「いえ、別に」
なんとなく、貴明に言うのは憚られた。
しかし、貴明は国際線エリアの方角を見やりながら、ぽつりと言った。
「園子とかいうメイド、男と歩いてたな」
「あの混雑の中、よく見つけられましたね」
「一緒にいた男は、アメリカの会社の御曹司さ。親しくはしていないけど一度会った事がある。彼女は、金と地位がある男なら誰でもいいんだな」
確かに、彼女が過去に付き合った男達は、皆それなりの身分だった。
長い足を組み、貴明は失笑した。
「どちらにしても、とんでもない女だな。メイド長も見抜けなかったとみえる」
「園子の双子の姉とかでは?」
「彼女に姉妹はいない。間違いないよ。だから、あの家のメイド連中……いや、女はなかなか信用できない。僕に粉掛けておいて、他の男もキープするような人間と、真剣に向き合う気にはなれない」
「皆が皆そうだとは、とても思えません」
「そう。だから、麻理子は違うだろう?」
じっと見つめられ、麻理子ははっとした。
「君は、本当に信用できる」
貴明の目は真剣そのもので、何かの意味を多分に含んでいたが、それがなんなのか、麻理子にはわからない。
「そんな、困った顔をしないでくれ。困らせたいわけじゃない」
十分好き勝手をして、困らせているくせに、貴明は言う。
他の女だと、妙な期待をさせてしまうから、麻理子を旅行の相手に選んだのはわかる。しかし、息抜きがしたかったのなら、一人で行けばいい話だ。何故他人の同行の必要があるのか、わからない。
ため息とともに、貴明はうつむいた。
「本当に……僕は、お金と地位と顔しか価値のない人間なのかもね」
「いえ、それは」
「そうじゃないか。お金で縛らないと、誰かと旅行も行けない」
「…………」
自嘲するように貴明は笑い、麻理子はますます何も言えなくなった。