天使のキス ~Deux anges~ 第08話

「麻理子じゃないか」

 搭乗口に向かっていた麻理子は、聞き覚えのある声に振り向いた。

「勇佑お兄様」

 仕事なのか、勇佑はきちんとスーツを着ていた。勇佑は麻理子の従兄で、勇佑の父は麻理子の父の弟に当たる……。相変わらずやさしげな容貌の勇佑は、変わらない笑顔で麻理子を優しく包み込むようだった。

「元気にしているかと心配していたところだった。そろそろアパートをたずねようと思っていたんだ」

「元気です。皆様におかわりはありませんか?」

「まったくない。それより……」

 勇佑の視線は、麻理子の隣に立つ貴明に移った。麻理子は貴明を紹介した。

「こちらは、私の上司に当たる方で、佐藤貴明様」

「初めまして、佐藤貴明です」

 鋭い視線を勇佑に投げ込みながら、貴明が軽く頭を下げた。

「佐藤って……、佐藤グループの代表取締役の……。これは失礼しました。私は麻理子の従兄で、嶋田勇佑といいます」

「従兄……」

 探るように貴明の目は動いた。勇佑はそんな貴明から再び麻理子へ視線を転じ、彼女の両手を優しく握った。

「麻理子、君さえよければいつでもお屋敷に戻れるんだよ。俺も父さんも待ってる」

「ありがとうございます。でも、私はもう帰ろうとは思わないんです。あの家には私の家族はいないから……」

「そう言わないで。一度で良いから帰っておいでよ。ね?」

「……はい」

 相変わらず勇佑は優しい。麻理子は、そんな従兄の心遣いが申し訳なかった。借金を肩代わりしてくれようとしたり、消費者金融へ渡った証書を取り返してくれたり、叔父親子には言い尽くせない恩義がある。人手に渡りかけていた屋敷を護ってくれているのはありがたいが、どうしても麻理子は屋敷へは帰りたくなかった。父母が居た空間に、彼らが永遠に帰ることはないと思い知らされるのが、どうしても辛い。

「もう時間だ」

 貴明が言い、搭乗を促すアナウンスが流れた。勇佑は引き止めたことをわびながら、ロビーの出口へ歩いていった。

 久しぶりの親族の再会は、麻理子に郷愁にも似た痛みを覚えさせた。そんな麻理子を、貴明がじっと見つめている。

 

 染み入るような青空と、優しい自然の色合いが目に飛び込んでくる。人一人見かけない、一車線の田舎道を、貴明の運転するレンタカーが走っていた。

 朝日がさわやかだ。

 旭川に着き一泊した後、早起きして、二人は初夏の富良野の風景を楽しんでいるのだった。

 休暇と言っても、貴明は新たなプロジェクトの視察の為に道東に来たらしく、ノートパソコンを時々開いて何やら打ち込んでいた。会社からのメールに目を通し、完全にオフにしている様子もない。仕事をしている時は、やはりあの会社での貴明の表情になり、冷たい茶色の目を光らせるため、近寄り難い雰囲気になっていた。

 たんなる旅行でなくて、麻理子は心の底から安心していた。血のつながらない異性と、長時間、仕事でもないのに一緒に居た経験がないので、いったい何を話せばいいのかわからなかったからだ。貴明の秘書的な仕事をしていればよく、お屋敷での仕事を屋外でしているようなものだとわかり、麻理子はそれなりに、この出張もどきの旅行を楽しんでいた。

 今もラベンダー園の喫茶店で、貴明は資料を開き、携帯端末で何か仕事の話をしている。麻理子は麻理子で、道東の喫茶店の独特の雰囲気の中で、こういうインテリアを屋敷の中に持ち込めないかなとか考えていた

 ラベンダーの甘い涼やかな香りを、アロマポットでたいている店内は、二人の時間を穏やかにしている。

「もう少し後の季節だと、ラベンダー満開で見晴らしが最高だったらしいよ」

 パソコンを閉じた貴明が、麻理子に話しかけてきた。

「そうですか……でも、これから咲こうとしているラベンダーの蕾みも綺麗ですよ。私、アパートで、プランターなんかで、育ててみようかなと、思っているところだったんです」

 貴明は、何かに気づいたように言った。

「君のベッド、やたらいい匂いがしたんだけど、なにかつけてるわけ?」

「何もしておりませんが」

 何も匂いなどつけていない。アパートでは近隣の迷惑にもなりかねないので、匂いのつきやすいものは極力持ち込んでいない。先日も、匂いのきつい柔軟剤が迷惑だと、上の階の住人同士がいさかいを起こしていた。

「おかしいな」

 そう呟いて、貴明は首を傾げた。

 観光客はまばらだったが、それでもこの季節から夏にかけては観光シーズンで、喫茶店は他の客が絶えず現れ、麻理子と貴明の二人だけになることはなかった。

「何もないところに来てどうするんだろうと思ってましたけど、皆さん、自然に戻りに来ているんですね」

「今、日本人は働きすぎて疲れきっている。だから癒しを求めてここへ来る……」

 貴明が、資料の一枚を抜いて、麻理子に見せた。似たような内容がその資料に書かれていた。

「それが新しいプロジェクトなんですか?」

「まあ……ね。手を付ける気がなかったんだけど、最近悪くないなと思ってね。あの大都会東京で、こんな空間を自分達の手で作り出せたら、素敵だと思わないか?」

「難しいですけど、できたら素敵ですね」

「そう言うと思った。君のインテリアセンスは最高だから、プロジェクトチームに入って欲しくてね。他の連中も同意見だったから、来てもらったんだよ」

 ただの我が儘と思いつきで、同行させられているのかと思っていたが、そうではなかったらしい。自分の仕事を、見ていてくれるのもうれしい。またほんの少し、麻理子は貴明を見直した。

「今、夏の模様替えの時期だから、新しいプロジェクトのメンバーに正式に選ばれても、困るだけだろうから言わなかったんだ。これを始めるのは早くても秋だ。君の助手になるような人材を今探している最中なんだが、なかなか見つからなくて困ってる。だから、見つかるまでの間は、君の意見が必要になった時だけの参加になる。ともかく、イメージを頭に叩き込んでおいて欲しい。頼むよ」

「はい」

 わくわくしながら返事をする麻理子に、貴明はうなずき、ハーブティーを飲んだ。

「これも悪くはないけど、君の入れた紅茶のほうがいいな」

「そう言えば、しゃ……貴明様は、紅茶以外は飲まれないんですか?」

「前はコーヒーばかりだった。でも今は、君がいれた紅茶が一番おいしいよ。誰かに習ったの?」

「習っておりません。ただ、好きなだけで……」

「ふうん」

 貴明の携帯が鳴り、貴明は話しながら店内を出て行った。

 入れ替わりに大人数の観光客が入ってきて、静かな店内が騒がしくなった。

 窓の外に意識を向けていた麻理子は、突然聞き覚えのある声に、背後から呼びかけられた。

「あら! 麻理子じゃない~! 奇遇ねえ。貴女も旅行に来てたの?」

 振り向くと、同僚達が立っていた。

(うそ! 社長と二人きりで視察だなんてばれたら、どうしよう)

「う、うん。なんかいきなり来たくなっちゃってね」

 貴明が帰ってこないように祈りながら、麻理子はなんとか平静を装った。

「麻理子ったら、休暇中まで仕事してるの? 恋人の一人でも作ったら? よりどりみどりなのにさ」

 テーブルにひろげられた、麻理子のインテリアのデザインノートを見て同僚がからかった。

「貴女達だって同僚同士でしょう?」

「だってさあ、社長ならともかく、他のチンケな連中なんてねえ……って思ったけど、ふふ。ちゃんと本社の男連中とツアー組んで来てるの。結構楽しいわよ。麻理子も合流する? 男が多くて余っちゃってるのよ」

「い……いえ、ご遠慮しとくわ」

 契約を結んでいるのに、放棄などとんでもない。同僚達は麻理子の周りに群がり、立ち去ってくれそうもなく、手に脂汗が出てきて、なんだかくらくらする。世界は広いのだから、日本の外を旅行すればいいのにと思いながら、麻理子は手早くテーブルに広げたノートやパンフレットを鞄にしまい、立ち上がった。

 貴明が戻ってくる前に、この場を離れたほうが良さそうだ。

「あれ? もう行っちゃうの? 麻理子」

「ええ、またね」

 しかし、間が悪い事に、貴明がテーブルに戻ってきてしまった。一瞬焦ったが、貴明には何の変化もない。

「まあ社長。社長もいらしてたんですか! 奇遇ですね!」

「どうしてここにいらっしゃるんです?」

「うれしい! 休暇中まで社長にお会いできるなんて」

 かしましい同僚達に、貴明はあの冷たい社長の仮面をつけたまま、返した。

「視察だよ。君達は休暇か? 今はまだ、シーズンが始まったばかりだからつまらないだろう」

 麻理子と対しているときの、あの愛想のかけらもない。それでも同僚達は、貴明を囲んできゃあきゃあとうれしそうだ。

「いいえ、社長とお会いできたんだから、とっても楽しいですよ」

「さっきそこで、会社の男連中と会ったよ。君達を捜していたぞ」

 椅子に座り、貴明は同僚達を外へと促す。誰ももう麻理子を見ていなかった。いまがチャンスだ。麻理子はこそこそ支払いを済ませ、店の外に出た。レンタカーの中で待っていればいいだろう。そう思って駐車場にある、レンタカーのドアを開けようとしていると、また会いたくもない人間の声に呼び止められた。

「嶋田さんじゃないか! 君に会えるなんて思ってなかったよ」 

 会社の男連中だ。そういえば同僚達は、彼らと旅行へ来たのだと言っていた。さらに面倒なことになった。

「……貴方達のツアーの相手は、皆、店の中よ。早く行ってあげたら?」

 貴明と同じようなつれない態度で、麻理子はそっけなく言った。しかし、麻理子に憧れている彼らは、そう簡単に麻理子を離さない。一人が麻理子の顔を覗き込んだ。

「そう言わないでさ。あ、嶋田さんメイクしてる。ほんっと綺麗だね。いつもそうしてたらいいのに

「……どうも」

「もう、つれないなあ。そこがいいんだけどさ。一人で来ているなら、一緒に旅行しようよ」

 馴れ馴れしく一人が、麻理子の肩に手を回してくる。嫌悪感が走った。

「ご遠慮しとくわ。皆に悪いし」

「悪くないよ、全然。嶋田さんがいたほうが絶対楽しいよ!」

 しつこい誘いに麻理子は困った。さすがに七人の男達に囲まれると、うまくかわせない。腕を掴まれ、びっくりした麻理子は小さな悲鳴を上げた。

「触らないで! 嫌だって言ってるの!」

 男達は聞いていなかった。無理矢理、自分達の車へ引きずるように歩いていく。

 その時、麻理子の腕を掴んでいた男が、ぎゃっと叫んだ。見ると、貴明によって後ろ手にひねられていた。

「何するんだ! 痛いだろ!」

「その汚い手を離せ」

 男達は、突然現れた貴明に仰天した。彼らは一様に社長の貴明に恐れを抱いているので、皆、氷のように固まってしまう。

 貴明は冷ややかな目で、彼らを一瞥すると、麻理子の肩に腕を回していた、男の腕をはずした。

 店内から麻理子の同僚達が出てきた。貴明が、彼女達を肩越しに親指で指し、わざとかのように微笑んで見せたため、一同は縮み上がった。

「お前達の相手はあっちだろ? さっさと行け」

 貴明の一挙一動は、彼らの心臓を、いつも簡単に握りつぶす程の力がある……。

「さ、麻理子、行こうか」

「え!?」

 貴明は、麻理子の背中に手を回して歩き出した。

 名前で呼ばれた上、エスコートまでされ、誰が見ても二人は恋人同士だ。麻理子は焦ったが、貴明はずんずんと歩いていくので、ついていくしかなかった。背後を見る勇気もない。

 貴明が車のドアをわざわざ開けてくれ、躊躇いながら麻理子はシートに座る。エンジンがかかり、レンタカーは駐車場を後にした。

 社員達は呆然と見送っていが、車が視界から消えた途端、全員我にかえった。

「聞いてないぞ、おい、社長って嶋田さんとつきあってるのかよ?」

 同僚が、思い出した様に言った。

「そう言えば、この間の夜勤、麻理子だったわよ」

「社長も、嶋田さんには、つい手を出しちゃったのかなあ? しかも旅行なんて、完全にできてるよな?」

「でも、麻理子って社長嫌ってなかったっけ?」

「だけど、きっと……たぶん……やっちゃったんだよ。それで……仲良くなったんじゃ」

 同僚の一人が叫んだ。

「うそお! やだっ! 信じたくない!」

「俺達だって信じたくねえよ! だけど、社長が相手じゃあかないっこないよな。面はいいし、喧嘩は強いし、仕事はできるし……金持ちだし」

 麻理子の予想通り、同僚達は、新しいカップルができたと思い込んでいた……。

 

 貴明が、車を走らせながらため息をついた。

「ああ、うるさかった。あのメイド達のかしましさには閉口するよ。静かな雰囲気が台無しだ。おまけに男どもときたら油断も隙もない。休暇が終わったらとっちめてやる!」

 麻理子は、いろいろ思い悩んでも仕方ないとばかりに、言った。

「あの、社長、休暇が明けたら、私には口聞かないでくださいね?」

「貴明って呼べっていっただろ? なんでそんな事を言いだすの?」

「だって、絶対に皆誤解してるもの!」

「誤解? 何が?」

 麻理子は顔が紅潮してきた。

「ももも……もちろん、私とた、貴明様がつきあってるっていうことですよ!」

 いきなり貴明は、ブレーキをかけた。

 怒ったのかと麻理子は貴明をちらりと見たが、そうではなかった。貴明の目は前を見ているだけだ。「前、見て」

「?」

 初めて見る、美しい風景が麻理子の目に飛び込んできた。

 麻理子は夢中で車を降りて、そこへ走った。貴明も後ろを歩いてくる。その一帯だけが色鮮やかな青紫だった。空の青と、流れる白い雲と、緑豊かな大地と青紫のラベンダーが調和して絶景だった。

「素敵! ここだけ早咲きなんでしょうか? いい香りがする……綺麗ですね!」

 胸一杯にラベンダーの芳香を吸い込んで、ずっと苦手に思っていた貴明に、麻理子は無邪気な笑顔を向けた。

 麻理子は気づいていない。

 子供のようにはしゃぐ自分の、けぶるような清らかな美しさを目にして、冷静さを保とうと努力している貴明に。

 たががわずかに外れた。

 麻理子は、唐突に貴明に抱き寄せられた。

「ホントに綺麗だし、いい香りがするね……たまらない」

「あ……の」

 恥ずかしく思い、離してほしくて見上げると、貴明は眩しそうに、優しい目で麻理子を見下ろしていた。

 この優しい目には見覚えがある。

 初めて屋敷で会った時だ。あの時、一瞬だけ貴明は、その優しい目で自分を見た。

 麻理子は妙に胸が切なく疼き、貴明の胸から離れようとして、かえって強く抱き寄せられた。

 ラベンダーの甘い芳香が漂う中、貴明が囁く。

「今、分かった。ベッドのいい匂いの正体。麻理子の匂いだったんだ」

 貴明は抱き寄せただけで、何もしてこなかったので、麻理子は安心した。

「私が寝起きしてるんですから、当たり前です」

「あの匂いで、毎日目覚められたら、幸せだろうな」

 おかしなことを言うと、麻理子は思った。

 貴明に抱き寄せられるのは、どきどきとはするものの、嫌な気分ではなかった。さっき、男連中に触れられた時は、あんなに嫌だったというのに。

 それが何故なのか、わからない。

 嫌っていた部分が消えていくから、比例して平気になっていくのかもしれない。

 風は肌寒かったが、貴明とくっついているので、麻理子はとても温かだった。

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