天使のキス ~Deux anges~ 第09話

 ベッドから起き上がった麻理子は、体が重く寒気を感じた。昨日、富良野から大雪山までやってきて、大雪山の中にあるホテルに宿泊したのだが、空調が異様な温かさで、気持ち悪くなり、体調を崩してしまったらしい。念のため、持ってきておいた栄養剤と風邪薬を飲んだ。これで少しは楽になるといいのだが……。

 待ち合わせのレストランへ行き、待っていた貴明に元気よく挨拶をした。

「なんか、変に元気だな? どうかした?」

「別に、いつも通りですよ」

 貴明は人の様子にとても敏感だ。ばれないように気をつけなればならない。

 外はホテル内とは打って変わって、六月だというのに冬のような冷気が漂っていた。薬はまったく効いていないようで、寒気はさらにひどくなり、熱も上がってきた気がする。さらに、車で山から平地へ降りる、気持ち悪さと言ったらなかった。寝るフリをして貴明をごまかし、平地へつくと土産屋のトイレへ駆け込んで、何度も吐いた。

 外で、貴明が心配して待っていた。

「遅かったな。車に酔ったのか? そんなに乱暴な運転はしなかったと思うんだが……」

 麻理子は、精一杯演技した。

「トイレの中が混んでたんですよ。さ、早くいきましょう」

 しかし、午前中はなんとかやり過ごせたものの、昼食が一口も食べられず、ジュース一杯しか飲まない麻理子を見て、さすがに貴明も気がついたようだ。

「ダイエットの必要はないだろう。何か食べないと。朝も食べてなかった」

 麻理子は無理して笑った。

「前夜に食べ過ぎたから、太りそうだと思って」

「一日や二日で太るわけないだろう」

 貴明が向かい側から立ち上がり、身をかがめ、もう一歩も動けない、麻理子の額に手のひらを当てた。

「……おい! 熱湯みたいに熱いぞ!」

 力なく麻理子は頭を振った。熱で、蒸気の様な息を吐き、かすむ目を懸命に開けようと頑張ったが、思い通りに瞼は開かない。

 駄目だ。仕事をしなければ。麻理子はなんとか笑顔を作った。

「平気……。それより……早く次の所へ行かなきゃ……」

「馬鹿。何を言っている! 全てキャンセルだ」

 力強い腕に抱き上げられた。運ばれる浮遊感が、例えようもなく気持ち悪い。

 この周辺に病院は無い。病院は、何十キロも先にある、今日の宿泊先の辺りまで行かなければない。 車に乗せられ、何故か、貴明のひざの上に頭を凭れかけさせられた。

「気持ち悪かったら、構わないから僕の膝に吐け。そして僕にしがみついてろ。なるべく急ぐから」

 その声も、麻理子は熱で朦朧として、ほとんど聞き取れていなかった。ただ、貴明の膝がとても温かで、やさしくて、気持ち悪いのが少しましになった。

 知床の宿泊予定のホテルに着いた頃、麻理子は高熱でこんこんと眠り、起きなかった。

 また、あの幸せな頃の夢を見た。

 父母との、家族の団欒の時間だ。学校であったことを話す麻理子を、二人は穏やかな笑顔で聞いてくれる。 

 消えてほしくなくて、夢が続いてほしくて、麻理子はこんなことを言った。

「お父様……お母様も……いらっしゃって、良かった……」

 すると、居て当たり前じゃないかと父が笑う。何を言っているんだと、からかうように。

「それなら、ずっと一緒に居てくれたらいいのに……私……ひとりぼっちなの……」

 ひとりぼっちじゃない。ずっと一緒に居るじゃないと、母がまたからかって、二人は笑った。夢だとわかっている麻理子は、それでも幸せな夢を見れるのがうれしくて、泣きながら笑った。

 ふわりと温かなものに包まれ、麻理子は幸せの夢の中を漂う。すぐに終わる夢だとわかっているから、より強くその温かさを感じていたい……。

 電子音が小さく響く音がする。麻理子は、懐かしい匂いを感じながら、目覚めた。熱は相変わらず続いていたものの、昨日よりは少しましだった。

 隣で貴明が寝ていて少し驚いたが、この前の様には声はあげない。サイドテーブルのパソコンの電源が入ったままで、そこからメールの着信音が響いたのだろう。はめたままになっていた腕時計は、午前十一時を回った頃を指している。今度は、貴明の携帯が着信し、鳴り続けるそれに貴明が目覚めた。

「調子はどう?」

「昨日よりは、ましです」

 貴明は起き上がり、携帯を手に取った。外国からなのか、英語を話しながら、麻理子の口に体温計を突っ込んだ。

(申し訳ない事しちゃったな。社長の足引っ張って、私ったら……)

 携帯を切った貴明は、パソコンのメールの返信を始めた。起きたばかりなので、長い髪はざんばらで寝癖がついていて、なんとなく麻理子は声を出さずに笑ってしまった。完璧な部分ばかり見ていたから、その差異がおかしい。

 体温計の電子音が鳴った。

 振り向いた貴明に、体温計を取り上げられた。ふうと貴明はため息をついた。

「三十八度五分……まだかなり高いね。昨日の医師の診察によると、ただの風邪だって言ってたけど」

「すみません、私」

「構わないから寝ていなさい」

 貴明は、洗面器に氷水を張り、タオルを浸した。そしてそれをしぼり麻理子の額にのせてくれた。

「疲れが風邪になって出たんだろう。気づいてやれなくてごめん。六月でも北海道の朝と夕方は冷えるからね。昨日、屋敷に電話して君のサイズのコートをこちらに送らせたから、今日には届くだろう」

 熱を自覚した途端、気持ち悪さと吐き気が蘇り、それが辛くて麻理子は目を閉じた。

「風邪が治るまでゆっくり休むんだ。わかったね?」

 こくりとうなずいたものの、後ろめたさは消えなかった。吐き気がましになると、再び麻理子は貴明に声をかけた。

「あの、社長」

「貴明!」

「貴明様」

「何?」

「ご自分の部屋にお戻りください……。風邪をうつしたくないんです。それと私は行けませんけど……視察にいらしてください、時間がもったいないです……私なら大丈夫ですから」

 貴明は、ふっと微笑んで、毛布をたくしこんでくれ、麻理子の頭を優しく撫でた。

「僕の事なら心配いらないよ。何も考えないで、さあおやすみ」

 優しい貴明に胸が熱くなる。どうも自分は、優しくされることに免疫がないと、麻理子は思いながら眠りの園へ引きずり込まれていった。

 

 次に気がついたら夕方で、部屋には明かりがついていた。貴明はベッドの隣の椅子に座って、本を読んでおり、起き上がろうとした麻理子に気づいた。

「まだ起きたら駄目だよ。本調子じゃないんだ」

「貴明様……ずっとそこに……?」

「昼に少し下に降りた。得意先が旅行に来てたから、挨拶にね。夕食は食べられそうか?」

「軽いものなら」

 身体は朝よりも格段に楽になっていた。頭もすっきりしている。

 貴明は麻理子の額に手を当てて、熱は下がったなと微笑んだ。

「たまたまホテルの客に、東京の医者がいたから来てもらう事になってる。来たら、驚くよ」

 何故医者で驚くのかわからない。それよりものどが渇いた。麻理子が水差しをとろうとすると、駄目駄目と貴明に止められた。

「まだ起き上がらないで、水は僕が飲ませてあげるから」

 そう言って、水差しの水を口に含み、口移しで飲ませようとしてくる。これは恥ずかしすぎるしあり得ない。

「あの……あの、いいです、起き上がれますから!」

 貴明は水をいったん飲み、真剣な目で言った。

「君は病人だろう? 僕は看病してるの。昨夜だって何度も飲ませたんだよ。言う事聞きなさい!」

 もう一度水を含むと、貴明は有無を言わさずに口移しで水を麻理子に飲ませた。乾いた喉に水はとても心地よかったが、胸のドキドキがひどくて、また熱が上がった様な気がした。昨夜もこうやって口移しで飲ませてもらったとは、知らなかった。  

「すみません、本当にご迷惑かけてしまって」

「またあやまる。病気の時は仕方ないだろう」

 部屋をノックする音がした。どうやらその医師が来たらしい。

 医師の顔よりも先に、その隣に居た女性に、麻理子は目を奪われた。

「麻理子さん、こんにちは」

「まあ、亜美じゃないの。なぜここにいるの?」

 貴明が言ったのは、亜美のことだったらしい。本当にこれは驚きだ。あれからどうやっても連絡がつかなかった彼女に、今こうして地元ではない土地で出会えたのだから。

「ちょっと傷心旅行。兄とですけどね」

 確かに、医師……亜美の兄は、目元だけがよく似ていた。貴明とは違う、やや線の細い容貌に、知性を強く感じさせる、硬質な印象を麻理子は受けた。和紀は麻理子に手を差し出した。

「亜美がお世話になりました。亜美の兄で木野和紀といいます。東京では外科医をしています。科が違いますが、まあ、診療できますから、ご安心ください」

「起き上がれなくて失礼します。嶋田麻理子と申します。亜美さんとは親しくさせていただきました。亜美、元気そうで良かったわ」

 二人が握手すると、亜美は少し顔を傾けて笑った。

「ま……。気にしてても仕方ありませんから……」

「では、亜美と佐藤社長は、診察するので出て行ってください」

 そう言って、和紀は診療鞄を開けた。

 二人が出て行くと、和紀は問診し、聴診器を当てたり、お腹を触診したりしていたが、やがて言った。

「心労による風邪……かな。もう熱がほとんど下がってますから、明日には元気になりますよ」

「よかったわ」

 明日からは、再び視察に戻れると思うと、麻理子はホッとした。もともと体力には自信がある。

 和紀は器具を鞄にしまいながら、麻理子に振り返った。

「麻理子さんは、佐藤社長とおつきあいされているんですか?」

 俗な質問に、麻理子はがっかりした。いきなりこれだ。

「違います」

「でも彼は、ずいぶん貴女にご執心のようですが」

「どうかしら。視察におつきあいしているだけです」

 和紀は、柔和な笑みを向けてきた。女好きのする顔だ。これで幾多の女性をたらしこんでいるのだろう。医師としての腕は良さそうだが、性格的には好きになれそうもないと麻理子は思った。しかし、和紀は麻理子に好印象を持ったようだ。

「貴女は、亜美の言っていた通りの方ですね、慎み深くて、美しい。貴女みたいな方は初めてですよ」

 声もなく麻理子は微笑んだ。和紀は言った。

「亜美は、佐藤社長にぞっこんでした。園子とかいうメイドに、ひどい事をされて辞めることになってしまいました。腹が立って仕方ないですよ。まったく」

「園子に? 亜美は私に何も言ってくれなかった……」

「貴女に害が及んだらと、思ったらしいですよ」

「そんな事、気にしなくても良かったのに」

 ドアがノックされた。外から貴明が叩いているようだ。和紀は、鞄を肩にかけて、立ち上がった。

「さてさて、社長が心配なさっているみたいだから、これまでにしましょう。では、また」

「ありがとうございました」

 にこりと笑う顔は、さすがに亜美に似ている。

 麻理子は一人っ子だったので、亜美がうらやましくなった。和紀の姿が、ドアの外へ消えるのと同時に、貴明が入ってきた。

「ずいぶん長い事話してたけど、何話してたの?」

 言いたくなくて、麻理子はとっさにはぐらかした。

「風邪だそうです。でも、明日には出かけても良いそうです」

「そう、それは良かった。それで……」

「ずいぶん大人びたお兄様ですけど、おいくつなんでしょう?」

「年? ああ僕と同じだって」

 麻理子は、貴明と亜美を頭の中で並べた。自分よりはるかに、釣り合っているように思える。そんな事を考える自分に、麻理子は驚いた。

(まあいや! 私には関係ないわ。社長が誰とおつき合いされようと……) 

 熱でどうにかなってしまっているらしい。いったい、今、自分は何を考えたのだろう。

 貴明はそんな麻理子を見つめていたが、静かにベッドの端に腰をかけた。

「まさか麻理子、あの医者に一目惚れか?」

 見当違いな問いに、麻理子は笑った。亜美には悪いが、好きではないタイプだ。

「違いますよ。ただ、兄弟がいるっていいなと思って……」

「従兄がいなかったっけ?」

「勇佑お兄様ですか? でもやっぱり遠いです。兄だったらと思ったこともありますけれど」

「僕はいらないな。余計な面倒ごとが増えそうだから」

「貴明様はそうでしょうね。でも、私は欲しかったんです。なんだか、最近寂しいと思うことが増えました」

 何故こんな話を、嫌っていた上司にするのか、麻理子はわからない。

 わからないことだらけだ。自分の心が、理性の範囲を超えて好き勝手しているような、そんな感じだ。

 麻理子は、人に弱みを見せるのは好きではない。父母が死んでからは、特にその傾向がひどくなった。心に踏み入らせないように、常に凛として、己だけを支えに今までやってきた。寂しいなどと思ったりしなかった。それなのに、どうしてこうも寂しいのだろう。

 ふと、貴明の顔が近づいてきて、唇が触れそうになった。麻理子はびっくりして、思わず片手で貴明の口を押さえ、もう片方で自分の口を塞いだ。

 くす……と、笑う気配がして、貴明に手のひらを舐められた。温かな感触に手を離してしまい、貴明にベッドへ押し付けられ、動けなくなった。

「……悪い子だね。誘惑しておいて逃げる気?」

「寂しいって言っただけです。誘惑なんて……」

「だから、寂しいのを、なんとかしてあげようとしてるのに」

 顔が近づいてくるので、懸命に麻理子は横へ顔を傾けてかわした。

「いいんです、いいんです」

「ふふ……」

 この間からずっと、貴明を、とても意識してしまう。

 三年間見ていた佐藤貴明という男は、佐藤グループの代表取締役社長としての貴明だった。何があろうと眉一つあげなさそうな沈着冷静さ、先を見通す的確な状況判断力、部下をまとめあげる統率力。常に理性にコントロールされた、貴明しか知らなかった。

 熱い目をした貴明は麻理子の心を鷲掴み、その笑顔がたまらない魅力で、麻理子の心をかき乱してしまう。屋敷の男連中がこんな目をしてせまってきたら、即座に逃げていたのに、この貴明からは逃げられない。逃げる、受け入れる、どちらの判断をしたらいいのかわからない。

「ひどいねえ、看病したんだから、ご褒美にキス位いいだろう」

「こういうの、セクハラって言うんですよ?」

「相手が嫌がっている場合はね、君は嫌がってない」

 嫌がっていないという言葉に、麻理子は貴明の方を向いてしまった。その隙に、貴明に唇を押し付けられた。

 たちまち、めくるめく甘いものに包まれる。

 全ての思考が停止して、ただひたすらその感覚に身を委ねたくなる。それが麻理子は恐い。完全に飲み込まれてしまったら、自分はどうなるのだろう。

 しばらくして、貴明は唇を離した。相変わらず綺麗な茶色の瞳で、真っすぐ麻理子を見つめている。それがまぶしくて、麻理子は視線を横に流した。

 頬を優しく撫でられた。

「嫌なら、はっきり言ってくれていいよ」

「嫌です」

「どうして嫌なの?」

「だって、恥ずかしいです」

「僕が嫌い?」

「嫌いではないです」

「じゃあ好き?」

 また貴明の顔が近づいてきて、落ち着かない。こうも近いと何も言えなくなってしまう。

「まあいいか、ところで明日。亜美君とあの医者と四人で行動する事にしたけど、麻理子はいいかな?」

「素敵ですね」

 亜美はまだ、貴明を想っているのだろうかと、頭の中でちらりと麻理子は考えた。

(どうこう言える身分ではないわね、私はただのメイドだもの)

「何考えてるの? やっぱりあの医者がタイプなの?」

「ち……違いますよ!」

 即座に否定する麻理子に、貴明は声を出して笑った。本当に会社にいるときとは大違いで、その新鮮さに、胸が性懲りもなく、ときめいてしまう。

「さ、夕食を頼もうか。軽いものなら食べられるんだろう?」

「はい」

 電話をする、貴明の背中はとても慕わしいものだった。その後姿は父に似ていたが、似ているだけだ。

(私は、社長をお兄様のように思っているのかしら)

 そう思ったが、やはりそれも違った。

 考えているうちに食事が来て、お腹がとても空いていた麻理子は、考えるのを止めた

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