天使のキス ~Deux anges~ 第10話

 朝早く遊覧船に乗るため、貴明と麻理子は暗いうちに起き、身支度を整えた。麻理子はすっかり元気になっていて、これなら外気温が一桁と寒くても、コートを着ていれば大丈夫そうだった。

 待ち合わせのホテルのロビーで、麻理子はピアスを付け忘れていたことに気づき、貴明に断って、近くの化粧室へ入った。まだ六時にもならない時刻なのに、遊覧船に乗る予定の女性たちが数人いて、五つある席のうち四つが埋まっていた。彼女たちのおしゃべりがうるさい中、一番奥の席に座り、麻理子は化粧ポーチに入れておいた、ピアスを取り出した。

 ふと背後に誰かが立ったので、鏡越しに見ると、亜美だった。

「あら、亜美、おはよう」

「おはようございます、麻理子さん」

「今日は楽しみよ」

「そうですね……あの」

「何?」

 亜美は何やら言いにくそうにしている。麻理子が促すと、ため息をつきながら言った。

「プレイボーイの兄が、麻理子さんを気に入ったって言ってました。気をつけてくださいね」

 軽そうな男という印象は、正しかったらしい。麻理子は笑った。

「そんなに気に病むことじゃないでしょ。おかしな亜美」

「何言ってるんですか。へんなことされたらどうするんです?」

「まさか。あんなにもてそうな人が、私に手なんか出すわけないでしょ」

「麻理子さんは天然なんだから! お屋敷で沢山声かけられてたでしょっ。兄だってそうなりますよ。もう!」

「はいはい。気をつけますとも」

 しかしそれは、亜美が本当に言いたかったことではないらしい。よりまじめな顔に戻った亜美は、鏡の向こうからじっと麻理子を覗き込んだ。

「あの、麻理子さんと社長は、お部屋ずっといっしょなんですか?」

 まだ亜美は、貴明が好きなんだなと麻理子は思いながら、ピアスをはめて、亜美に振り返った。

「今日からまた別よ。私が病気だったから、昨日とおとといは一緒だったけど……」

「社長はどこでお休みだったんです?」

「どこって、ベッドに決まってるじゃない。ソファとか床なんてあり得ないでしょ」

「あの部屋、ひとつしかベッドはありませんでしたけど」

「そうよ。だけど看病なら仕方ないわ」

「あの、麻理子さんはすごいお嬢様育ちだから、ご存じないかもしれないけど、普通は恋人同士じゃないと、いくら風邪ひいてたからって、同じベッドで寝たりしませんよ? 社長は麻理子さんが好きなんじゃないですか?」

「まさか! ありえないわそんなの。視察でご一緒してるだけよ。お遊びも入ってるけど。それに、もしもあの日の夜勤の相手が亜美だったら、亜美を連れていらしてると思うわ。第一、社長って堅物をふるまってるけど、実はとんでもない女たらしよ。絶対に夜勤の皆に手を出してるに違いないわ」

「なんでそんなふうに思うんですか? 社長は本当に身持ちが固い方ですよ?」

 怪しむ様な目で、麻理子は亜美を見た。

「あのね、私がいくらこの手の話に鈍感だからって、隠さなくてもいいのよ? 皆何もなかったって言ってるけど、絶対に嘘でしょ? きっと園子が怖いから、皆隠してるのよ。あの方はかなりの女好きよ、ものすごく手馴れてるもの。何回もキスしてくるし、男性経験の無い私を楽しんでるみたい、悪趣味よねまったく」

 亜美は、大きな目をぱちくりとしている。今頃わかったのかという顔だ。年下に子ども扱いされているような気分になり、なんだか悔しい。しかし、もやもやしていたものがスッキリした。

 そうなのだ。貴明はとんでもないプレイボーイなのだ。だから、あんなことが平気でできるし、女に優しいのだ。麻理子の事などなんとも思ってやしない。

 そして、自分は貴明が好きになってきている。

 スッキリできたと思ったのに、それを悟ってしまって、麻理子は物悲しくなってきた。嫌いだったのだからかまわないと思うのに、どうしたってその気持ちは消えてくれない。

 弁解するように、亜美が慌てて言った。

「あ、あの、麻理子さんは誤解なさってます。本当に、社長は女遊びなんかされない方ですよ? 誰も相手されてなくて、残念がっているんですから。絶対に麻理子さんが好きなんですよ」

「皆が好き……、の間違いでしょう。確かにお優しいけど、それは皆同じだわ」

 もう退職したのだから、園子に遠慮する必要などないのに、何を亜美は必死になっているのだろう。

 その時、麻理子の携帯端末が着信した。従兄の勇祐だった。亜美に目配せすると、亜美は釈然としない顔で出て行った。同時に、他の席の数人も、わいわい言いながら出て行ったので、麻理子一人になった化粧室は、嫌に静まり返った。

「もしもし、お兄様」

『麻理子、おはよう。今はどこに居るんだ?』

「知床」

『北海道か。ずいぶん足を伸ばしたんだね。寒くない?』

「それが風邪をひいて、ダウンしたの。もう大丈夫よ」

『気をつけないといけないよ。麻理子はそんなに強くないんだから』

 勇佑の心配病がまた始まったと思いながらも、麻理子はその心遣いがうれしい。知らずに笑顔になった。

「ところで何のお電話ですか?」

『ああ……うん。君の上司の……その、佐藤社長についてなんだが』

「社長?」

 何故、勇佑の口から、貴明の名前が出てくるのか、麻理子は不思議だった。

『彼にはあんまり深入りしないほうがいい。気になってあれから調べたんだけど、彼、犯罪すれすれのことを結構やってる』

「すれすれ?」

『一番やばいのが、彼の高校時代に、暴力団の男二人を間接的に殺してること』

 殺しという言葉に、麻理子の背筋に冷たいものがすうっと降りた。

「……間接的にって、どういうことなの?」

『殺人依頼をしたんだ。その二人はいまだに行方不明だ。殺されたんだろうな』

「…………」

 恐ろしさに、胸まで痛くなってきた。

「……でも、どうしてお兄様はそんなことをご存知なの? それは有名な話なの?」

『いいや。でも調べたら出てきたんだ。あの社長は怪しい。君を利用して何かを企んでいるのかもしれない。うまいこと言って接近してると思うけど、絶対に心を許すんじゃない。俺は今仕事で手が離せないから、代わりの人にそっちへ行ってもらってる』

「それってもしかして……、木野って人じゃ」

『そう。同級生なんだ。彼がまもってくれる。いいか? とにかく注意するんだ』

「……わかりました」

『毎日、いつでもいいから、電話してきてくれ。心配でたまらないから』

「はい」

 何度も念を押され、麻理子は携帯を切り、鞄にしまった。その手は震えていた。

 貴明が近づいてきたのは、ただ単に、新しいプロジェクトの為だけではなかった……。

 この三年間、全く手を出してこなかった男が、豹変して、いきなり急接近してきたのだ。信じたくはないけども、確かにそう思うほうが自然だ。

 麻理子は、自分のインテリアのセンスには、確かに自信はある。しかし、それがプロ並みかというとそうでもない。自分自身がよくわかっている。

 貴明に、下心があるのは間違いはない。だが、それは何なのだろうか。

 視察はあと四日もある。そして、貴明はきっとまた接近してくる。麻理子のことを好きでもないくせに、甘い言葉で麻理子をだますために。

 今までの貴明が優しかった分、だまされた気持ちが強く、麻理子は心底がっかりして悲しくなった。

「嘘だと思いたい」

 でも、勇佑はいつだって麻理子の味方で、やさしい従兄だった。うそを言うはずはない。

 だけど自分は、貴明がそんな悪人だと思いたくはない。

「……お兄様が、勘違いなさっているのかもしれないわ」

 麻理子はそう結論付けながらも、疑惑の芽が胸の中を巣くっていくのを、止められなかった。 

 

 六月に入ったというのに真冬のように寒く、麻理子はデッキで身体を震わせた。貴明が先日、東京から取り寄せてくれたコートがなかったら、また風邪がぶり返していただろう。寒い思いをしてまでデッキに出ているのは、朝陽を見るためだった。

「寒くない?」

 貴明がそう言って、麻理子の肩を抱こうとしてきたのを、麻理子は横にかわした。露骨だなと思いつつも、どうしたらいいのかわからなかった。

「さ、寒くはないです。コートをありがとうございます」

「…………」

 貴明は、無言で抱こうとした手を下げた。

「とても、うれしいです。本当にありがとうございます」

「……それならいいけど」

 しばらくして朝陽が出てきた。それまで暗い灰色だった海が、暁色に染まり、そして青になっていくのを、麻理子は不思議な思いで見つめた。

 オホーツク海の色は不思議な色だ。青は青なのだが、北の海のイメージにありがちな、厳しいばかりではなく何とも言えない優しさがあった。冬の終わりを告げる流氷がやってきて、氷が海一面を埋め尽くす光景はさぞ絶景だろう。

 気まずい雰囲気を、打ち消すように、麻理子は貴明を見上げた。

「私、ちゃんとこの恵みの海のイメージ、大切に心にしまっておきますね。連れてきてくださって感謝してます」

「うん……そうだね」 

 貴明は、朝陽に照り映える海を見たままうなずいた。朝陽に浮かび上がるその姿は、まさしく天使のようで、周りがちらちらと貴明を見ている。こんなところでも、貴明の美しさは際立っていた。

 突然、見知らぬ女が貴明に声をかけてきた。

「あの、もしかして、お二人だけで旅行されているんですか?」

 ずいぶんときれいな女二人組だ。麻理子と視線がかちあうと、声をかけていない女のほうが、優越感を目ににじませて、笑った。麻理子はカチンと来たが、黙っていた。今はプライベートではなくて仕事中なのだ。

「旅行ではなくて、仕事だが」

「あら残念。にぎやかなほうがいいから、どうかなと思ったんですけど」

「他をどうぞ」

 貴明に冷たくあしらわれ、女達は鼻白み、立ち去っていった。貴明は麻理子に振り返った。

「ここは寒いから、船内へ入ろう」

「そうですね」

 船内はデッキとは打って変わって、暖房が効きすぎて暑いくらいだった。畳敷きの客室の片隅で、和紀と亜美がお茶をのんきにすすっている。皆デッキに出ているせいか、居るのは二人だけだった。麻理子は二人の前に座ったが、貴明は窓際に静かにもたれた。

 和紀がにこにこしながら、見ていましたよと貴明に言った。

「今の女は何ですか?」

「僕も知らない」

 貴明は、和紀の問いにうっとうしそうに答え、向こうを見てくると言って、向かい側の洋室のほうへ行った。亜美がお茶を取ってくると言って離れた隙に、和紀は人のよさそうな笑みを浮かべて、麻理子に言った。

「勇佑からお聞きになりましたか?」

「ええ」

「ま、そういうわけです。お目付け役をかねておりますので、ご安心ください」

「貴方も、安心できるような人では、ない気がしますけど?」

「そりゃあ、いい女を見たら声をかけたくもなります。それくらい目こぼし願いたいですね」

 この男のほうが、よっぽど危ない気がする。勇佑は、人選を完全に誤っている。麻理子は余計な物思いの種が増えた気がして、亜美が持ってきてくれたお茶に、口をつける気も起きなかった。

「亜美、悪いけど、社長にもお茶をお願いできるかしら?」

「え? でも麻理子さん……」

 亜美には悪いが、今は和紀から詳しい事情を聞かなければならない。身体の様子についてお兄さんと話したいからと嘘をつき、亜美を追い払った。なんだかんだ言って、亜美は貴明が好きなので、喜んでいたのが救いだ。

 胡坐の足を組み替えた和紀に、麻理子は膝を進めた。

「貴方は、どこまで社長についてご存知なんです?」

「勇佑から聞いたことぐらいしか知りません。その、高校生の時の事件と、今まで彼が付き合った女とか」

「女性関係は、関係ないんじゃないかしら」

 麻理子が呆れながら言うと、和紀は首を横に振った。

「勇佑にとって、貴女は大事な従妹ですからね。それぐらい当然でしょう。彼が今まで関係を持ったのはわかっているだけで、二人だけですが、まあ……そのうちの一人とド派手にやってますよ」

「ド派手?」

「ド派手もド派手。義理とはいえ、父親と一人の女性を取り合ってたんですよ。結局女性は父君のほうと結ばれたんで、失恋ってことですけど、かなりの執念深さで恐ろしいことになってたようです」

「よくわからないんだけど、それって内縁の妻ってこと? 会長は離婚されてませんが」

「そういうことです。父君がお亡くなりになるのと同時に、その女性は佐藤邸を去ってますから。子供が居たようですが、今はどこでどうしているんだか……。おそらく佐藤社長は、まだその女性をあきらめてないと思います。それぐらいの執念深さをお持ちのようだから」

「……もうお一人は?」

 なんとなく気になって、麻理子は和紀に聞いた。

「こっちはお見合いで知り合って、少しだけつきあって別れたみたいです。その女性は今は他の男性と結婚して、こちらも子供が数人居ます。まあ、佐藤社長はかなりもてるだろうに、女性関係はさっぱりしてますね」

 麻理子は内心で、かなりの女たらしなのにと毒づいた。 

「ま、女性関係はそれくらいですが、そのほかは、彼は身綺麗ではありません。そのやくざ関連を除いても、彼につぶされた会社は多い。先代はもっと容赦なかった。負の遺産をたっぷり引き継いでおいでだから、勇佑も気が気ではないんでしょう」

「高校生の時の事件って、実際はどうなんです?」

「相手もひどかったですからね。その、佐藤社長の愛した女性の両親を、交通事故とはいえ殺したくせに、難癖つけて家をつぶして財産をとりあげるような奴らでした」

「どうして警察に言わなかったのかしら……」

「溺愛している女性を不幸にした奴らを、自分自身の手で地獄に突き落としたかったんでしょう。わからないでもないですが、犯罪は犯罪ですから。ほう助に当たると思います。ばれたらやっぱりやばいでしょう」

 誰も周囲にいないとはいえ、こんな話をするのは、麻理子は憚られた。でも、聞かずには居られない。

「で、どうして社長は私を? 借金だらけの元令嬢なのに」

「そこでしょうね。その借金にからむなんらかが、彼にとって何かあるんでしょう」

「…………」

 貴明は、そのことについては、考えるのをやめたと言っていた。あれはうそだったのだろうか。

「彼は、とてつもなく大きな企業のトップだ。常に自分を、コントロールすることに長けている。表の顔だけで判断してはいけませんよ。甘ければ甘いほど警戒は必要でしょう」

「貴方みたいな見本もいるようだし?」

「ははは、これは手厳しい」

 身体に触れようとした和紀の手を払い、麻理子は窓の外を見た。すっかり日が昇って、青い海がどこまでも広がっている。

 貴明と亜美が、戻ってきたので、麻理子は反対側の扉からデッキへ出た。寒い風に、一瞬身をすくませ、そろそろと息を吐いた。

 それでも風は穏やかなほうで、遊覧船の客は、にぎやかに景色を見てはしゃいでいる。親子連れ、恋人同士、友達と連れ立って……皆楽しそうだ。

 楽しかったはずだった。それなのに、いろんな問題が襲い掛かってきて、それをそぎ落とされてしまった。

 不意に、背後から腕が伸びてきて、抱きしめられた。ダークブラウンのコートの袖は、貴明だ。恐れと驚きと別の何かが、麻理子の身体を硬くさせた。 

「じっとしてて、しばらくこうしていたい」

 甘い、甘い、貴明の声だ。うれしいのに、戸惑いが沸いてくる。

 貴明はなんらかの意図を持って、このような行動に出ているのだ。これだったらただのプレイボーイのほうが、はるかに気が楽だった。適当にこちらも楽しんでいればよかったのだから。

 一体、貴明は麻理子に対して、何を企んでいるのだろうか。

(……今は何もできないわ。人がこんなにいるんだもの。それより……)

 麻理子は目を閉じた。心なしか、抱きしめる腕が強くなった。寒いデッキの上で、貴明の腕の中はとても温かで、気持ちが良い。

「……麻理子が、元気になって、本当によかった」

「はい」

 その言葉は本心に違いない。麻理子はそう思いたがった。

 うそでもいいから、その甘いもので満たされていたい。 

 船内アナウンスが、もうすぐ港に戻ると流れた。

「貴明様、もう戻らなきゃ……」

「いいんだ。誰かが呼びにくるまでこうしていたい」

「…………」

 陽射しが強くなり、暖かくなってくる。港はもうすぐそこだった。

web拍手 by FC2