天使のキス ~Deux anges~ 第13話

 貴明はエレベーターの前で、麻理子を捕まえようとしたが、もう少しというところで扉が閉まってしまい、間に合わなかった。七階からどんどんと下がっていく数字を、目で追いながら、もう一台ある隣のエレベーターを見る。隣も使用中で、こちらは七階を通り過ぎて上へ上がっていく。おそらく最上階の、露天風呂まで行く客が乗っているのだろう。

 やっと戻ってきたエレベーターに乗り、貴明は一階まで降りた。夕方、チェックインで混雑しているロビーを抜け、ホテルを飛び出す。麻理子はまだ近くにいるはずだった。雲が流れていたのか、晴れていた夕焼け空は雲で覆い隠され、冬の夕方のように周囲は暗くなっていた。

「くそ……っ!」

 風が吹いて、貴明の長い金髪を巻き上げる。その方向を見ると、いきなり車のライトがハイの状態で、スポットライトの様に貴明の姿を照らした。

 セダンの車が、猛スピードで突っ込んでくる。観光客達の悲鳴が、沸き起こった。車はそのまま、貴明を巻き込んでホテルの壁に激突して、炎上する。

 悲鳴、怒号、燃え盛る炎。ホテルの前は一瞬で騒然となった。

 一方、麻理子は、とぼとぼと人混みの中を一人歩いていた。

 衝動的にホテルを飛び出してきてしまったものの、仕事で来ている以上、あさってまでは貴明と居るしかない。まじめな麻理子は、役目放棄など考えもつかなかった。ただ、あまりにもショックで立ち直れそうも無い。

 優しい人だと思っていた。

 案外、誠実なのだと思った。

 なのに貴明は、やはり勇佑が言ったように恐ろしい人だった……。

 貴明が寝るのは何時ごろだろうか。それまではホテルに戻りたくない。明日顔を合わせるのは仕方ないにせよ、とにかく今日は嫌だ。

 殺人依頼をしたと告白してきたのは、それなりの段取りがついたからに違いない。信じたくなどなかったのに、当の本人が言ったのだ。もう覆せようもない。

 好きになってから、相手の本性がわかるなんて最悪だ。

 しかし、もっと最悪なのは、それでもなお、あの悪魔のような天使に惹かれている自分だ。貴明に比べれば、あの建設部の城山など善人で、至って普通の男に違いなかった。 

 観光客のために作られた町は、夜が深まるにつれ、ますます混雑していく。麻理子は砂浜の砂のほんの一粒になり、まったく目立たない自分に安心する。店先で観光客を勧誘する店員たち、アイヌのショーの呼びかけをする役者たち、彼らに群がる観光客たち、日常の中に非日常を作り上げて、双方が楽しんでいる。麻理子も少しだけその楽しみに加わった。そうでもしないと、重い心に耐えられそうも無い。

 あらゆる店先で、特産の食べ物、民芸品、希少種だと言われている毬藻などが売られていて、麻理子は当てもなくその中を彷徨った。

 かれこれ、二時間ほど経った頃だろうか。 

 麻理子は、ホテルから大分遠くまで歩いたところにある、一軒の民芸店に入った。他の店と同じように、装飾品や置物が、狭い店舗内に所狭しと並べられている。なんとはなしに、麻理子は、ちょうど目の高さの棚に置かれていた、木彫りのバレッタを見つめた。アイヌ紋様が一面に彫られており、とても美しかった。 何か感じが違うなと思ったのも道理で、それは機械で彫り上げたものではなく、人の手が彫ったものだと説明が書かれていた。

 店の片隅で、そのバレッタを作ったと思われる老女が、また別の彫り物をしていた。とてもこまかい紋様を、老女は黙々と彫っていく。隣で孫と思われる少女が、簡単なものを彫っていた。

 アイヌには文字の文化はなかったと、何かの書物で読んで、麻理子は知っている。しかし、文字が無くても、こうやって文化は伝わって来たのだ。それぞれの人の思いや歴史と一緒に。

(私が父母から、受け継いだものは何かしら? 借金だけだったかしら? いいえ、決してそうではない、もっとなにか尊いものを受け継いでいるはずだわ。そうでないと、今、こうして生きているはずがないもの)

 家族と思われる店員が、一つの木彫りのピアスを持ってきて、これは幸せになると言うアイヌの紋様ですよ、ひとついかがですかと麻理子に薦めた。

 店を出ると、外で鎖に繋がれていた犬が吠えた。狐が来ているんですよと、ピアスを薦めた店員が言った。さすが山の中の町だ。

 その向こうは暗闇で、歓楽街はなく、何も見えない。

 恐いとは思わなかったが、寂しくなった。貴明の姿が脳裏に浮かぶ。この仕事が終わったら、退職届を出そうと、麻理子は決意していた。

 犯罪者でなんであれ、麻理子は貴明が好きになってしまっていて、あと少しで引き返せないほどの所まで来ている。

 犯罪者でも傍に居たいと思うとは、なんとも自分勝手な想いだ

 貴明が、綺麗なだけの人形などとは、麻理子は思っていない。人形が、あの若さで、大企業を経営できるわけが無いのだ。貴明より年のいった、老獪な重役は存在していても、彼らは貴明を傀儡にはできないでいる。

 佐藤貴明という男は、短期間で、麻理子が直視したくない彼女の闇の部分を、簡単に暴いてくれた。何も知らない元令嬢で居たいのに、そうさせてはくれない。女としてのどろどろとした、打算的な部分を、これほど見事に露呈させてくれるとは、麻理子は思ってもみなかった。

 それは、自分の醜い嫉妬心だ。

 旅行が終わった後、自分は果たしてもとの様に、貴明に接することができるだろうか? 近い将来必ず見るであろう、貴明が他の女と結婚する場面を祝福できるだろうか。闇の部分を知っても構わないと思う程、深く貴明を愛してしまった自分に、そんな我慢ができるわけがない。麻理子には何の肩書きも無い。貴明が麻理子にくれる身分は、お気に入りのメイドであり、利用価値が残っている令嬢……というぐらいだろう。

 それを悔しいと思う、醜い自分が存在することに、麻理子は愕然とした。

 すべてを諦めるために、今の時間は必要だった。今の境遇を自分に納得させるのだ。そうすれば、きっとこの想いは消えてくれる。忘れられるはずなのだ。

 その上で、貴明が近づいてきた理由を聞こう。きっと、取り乱したりはしない。

「麻理子さん」

 振り向くと、向こう側から、和紀が歩いてくるのが見えた。亜美はおらず一人だった。

「やっと逢えた。探していたんですよ麻理子さん。あれ? 佐藤社長は?」

「そちらこそ、亜美はご一緒ではないんですか?」

 会いたくも無い男に会ってしまい、麻理子はいささかつっけんどんだったが、和紀は気にしていないようだ。

「その亜美がね、部屋へ貴方をつれて来て欲しいって言うんで、お探ししていたんですよ。有名なメンズ専門のデザイナーの方がいらしていて、貴女にお会いしたいとおっしゃっています」

 麻理子は不意に、勇佑へ電話するのを、忘れていたのを思い出した。

「勇佑お兄様から、何かあったのではなかったのですか?」

「勇佑……? いや、何も」

 そう言う和紀の声は、昼と違って掠れていて、微妙な違和感があった。夜間は冷える北海道で、自分と同じように風邪をひいたのだろうか。

「時間が少ししか取れないそうです。早く来て欲しいと」

「でも……」

 和紀の携帯が鳴った。短い応答の後、和紀が携帯を麻理子へ差し出した。亜美の明るい声が聞こえてくる。

『麻理子さん、お兄様にお会いになった? 世界的に有名なメンズファッションデザイナーの木本ショーンさんが、いらしてるんです。麻理子さんが社長の服を作られているのご存知で、それでこんな偶然はないからお会いしたいって……。社長は業界の方にとても人気がおありだから』

「でも。そんな方に私は」

『何おっしゃってるんですか。こんなチャンスそうそうないんですから。早くいらしてくださいね! もうお仕事の時間じゃないでしょう? 麻理子さんにはプラスにしかならないんだから、社長だって反対されませんよ、じゃあ待ってますから!』 

 携帯は切れ、麻理子は困惑した。今はとても人に会う気分ではない。まだ気持ちの整理がつきかねている。和紀が麻理子の腕に触れた。

「いいじゃないですか、ちょっと会うだけです。さあ行きましょう」 

 麻理子はかなり渋ったが、短時間会うだけだと和紀に説き伏せられ、亜美と和紀が泊まっているホテルへ仕方なしに足を向けた。

 これもつきあいのうちだと、諦めるしかない。

 エレベーターに乗り、最上階で降りた。

 麻理子はふっと足を止めた。目線の先に、やくざのような男達が数人いる。

「あの……」 

「部屋はこちらです。早く入りましょう」

 和紀が、彼らから麻理子を逃すように、手早く部屋のドアを開けた。亜美も和紀も、運が悪くヤクザと同じ階になってしまって、困っているのだろう。

 麻理子が入ると、そこは広いスイートルームの部屋だった。

 しかし、照明はついていたが、誰もいない。

 背後で和紀が、ドアを閉め、鍵をかける音がガチャリと聞こえた。

「和紀さん、亜美とそのデザイナーの方は?」

 嫌な予感を覚えながら、振り返る麻理子に、和紀は仄暗い笑みを浮かべながら、両手を広げた。

「ここにはいないんです。本当は隣のホテルで二人は待っています」

「ここにはいないって……」

 麻理子は後ずさりした。和紀がゆっくり近づいてきたので、窓際へ逃げる。言いようの無い、いやに濁った視線は、女性としての危機の回避を麻理子に促した。

 舌なめずりするような、獣じみた気配が、和紀から漂ってくる。

「いくら鈍感な貴女でもわかるでしょう? ここまで来て往生際が悪いですねえ。観念なさい」

(だまされた!) 

 広いスイートの部屋の中を、ひたすら走って逃げても、限度があり、数分後には和紀に追い詰められて、両腕を拘束された。

「駄目ですねえ。お忙しい佐藤社長を呼んだりしては」

 和紀は、ネクタイを外し、麻理子の両手首を後ろ手に縛った。

「貴女が一人になるのを待ってたんですよ。佐藤社長がいらっしゃると、手が出せない」

 ベッドに突き飛ばされ、麻理子はあっけなくシーツの上を転がった。

 覆いかぶさってきた和紀に、キスされそうになり、必死で顔を横に背けると、和紀は首に吸い付いてきた。気持ち悪くて逃げ出したいのだが、両手を縛られている上、和紀が自分の身体に馬乗りになっているので身動きができない。

「そう拒絶しなくてもいいでしょう。ここのところ毎日、佐藤社長に可愛がってもらってるんじゃないですか?」

「貴方と一緒にしないで!」

「へーえ、ほんとですかねえ」

 陰湿に笑った和紀は、自分のシャツのボタンを外し始めた。上半身裸になると、服を床に放り投げ、睨みつけてくる麻理子に、凄みのある笑みを向けた。

「止めてあげてもいいですよ。私と結婚するというのならね」

「結婚? 私が、あなたと?」

「悪くないでしょう。貴女は借金から解放される。私の妻として、何不自由無い生活ができるようになる」

 また和紀の顔が近づいてきたので、麻理子は横を向いた。和紀はそんな麻理子の耳元に唇を寄せた

「よくわかっておいででしょう? 佐藤社長は、天使のような顔は見かけだけで、実際は悪魔だって事に。今のうちに諦めた方がいい……」

「それはお兄様に言われたの?」

「勇佑は関係ない。あれは純粋に調べて、佐藤社長から貴女を離したかったんでしょう。でも私は、あの社長が気に食わない。あの、負けを知らない傲慢さが大嫌いだ。そして彼のお気に入りの貴女に、強く惹かれる。だから言うんです」

 助けてくれそうな勇佑は、ここにはいない。麻理子は必死にもがいた。

「社長がどういう方か、よく知ってるわよ。本性もなにもないわ!」

「貴女も、彼に魅せられたクチですか」

 和紀は、麻理子のブラウスのボタンを、外し始めた。普通の女なら、悲鳴をあげて騒ぐところだが、麻理子は気丈に言った。

「貴方の提案はお断りします。貴方は、貴明様に嫉妬してるのよ。だから、私を利用しているだけなんだわ」

「交渉決裂だな。残念ですよ麻理子さん」

 その時、凄まじい音が、扉のある方から部屋全体に響き渡った。 

 振り向いた和紀は、目を見開いた。ここに来れるはずのない男が、壊れたドアを踏みながら、ゆっくりと部屋へ入って来たからだ。

「貴様っ!」  

 麻理子が上半身裸にされかけているのを見た貴明に、憤怒の表情で飛びかかられた和紀は、麻理子から引きはがされ、力任せに突き飛ばされた。

 床にへばった和紀は、よろよろと起き上がった。

「どうやってここまで……」

「僕を殺したいんなら、大型トラックでも走らせるんだな。もっとも、あの狭い道では入るまいが」

 涼し気な貴明に、和紀はむかむかする。

 この計画は完璧だった。あの至近距離で、いきなり車のライトをハイで、照らされたりしたら、目がくらむのが普通だ。そこへ車に突っ込まれたら、普通の人間は確実に死ぬ。ここに来るなど不可能なはずなのに……!

 しかし和紀は、直ぐに気を取り直して、ベッドの上で青ざめている麻理子を見て笑った。

「いいところだったのに、とんだ邪魔が入った。彼女は甘いですねえ。男にはたまらない女ですよ、佐藤社長……貴方はどんなふうに抱いたんです?」

「ふざけるな」

「くやしいか。自分のおもちゃが、他の男にとられそうになって」

「黙れゲスが!」

 怒りのこもった拳が、和紀の頬にうちこまれ、彼の身体は吹っ飛んだ。

 まさか女のような外見の貴明が、素早く威力のあるパンチを出せると思ってもいなかった和紀は、信じられないものを見るような顔で、貴明を見上げる。再びその顔を、また疾風のような速さで蹴り上げられた。

 和紀は後ろ向きに倒れ、息も途切れ途切れに叫んだ。

「おい! お前ら! 何してるんだ。早くこいつを追い出さないか!」

「お前の仲間なら、外でのびてるぞ。よくもまあ、僕のホテルからここまで、ご丁寧に接待してくれたもんだ。もっとも、運動不足解消にはなったがな」

 貴明に、顔をぎりぎりと靴で踏まれ、和紀は何も言えない。

 和紀の手勢は十人いた。今回は何故か貴明は、外出時には必ずつけるボディーガード達を、連れてきてはいない。だから完璧な計画のはずだった。しかし貴明は、彼らを一人で全て叩き伏せてしまったのだ。

「己の身の程もわきまえずに、僕に挑戦するからこうなるのさ」

 腹を蹴り上げられ、和紀はベッドの側面にあたって転がった。激痛で動けない和紀に、貴明が再び近づいてくる。

 和紀はベッドの下に置いておいた鞄から、メスを取り出し、貴明に突きつけた。

「これ……以上近づくな!」

 貴明は、天使の様な顔に似つかわしくない、残酷な笑みをうかべた。

「人を生かす道具で、傷つけるつもりか?」

「…………っ!」

 麻理子はそのやりとりを、呆然としてベッドの上で見ていた。貴明が強すぎるのか、和紀が弱すぎるのか、どちらなのかはわからないが、会社での貴明の評価は、まったく正しいものだと再認識せざるを得ない。彼は喧嘩し慣れていて、負けたことなどないのだと。

 貴明は、落ちていた麻理子のハンドバックを拾い、散らばっていた中身を入れた。そして、麻理子の手を縛っていた和紀のネクタイをほどき、外されているブラウスのボタンをかけた。

 その時、外に居たヤクザの一人が、包丁を持って部屋に飛び込んできた。この男は、貴明に倒される仲間を見捨てて、一番に逃げ無傷だったのだ。貴明が背中を向けているので、有利だと思ったらしい。背中を向けたままの、貴明に突っ走っていく。

 和紀の制止を聞かないまま、男は貴明に一気に詰め寄り、背中に包丁を突き立てようとした。しかしその刹那、貴明に包丁を持った手を掴まれた。

「ぐっ……」

 男は呻いた。その美しい容姿からは、想像もつかない力で、貴明は男の腕をねじあげていく。そして振り向きながら、男を床に押し倒す様に叩き付け、馬乗りになった。抵抗する男から、包丁を力づくで奪うと、貴明は男の目元にそれを散らつかせた。

「さあどうする? 恐いだろう。僕はね、刃向かってくる奴には容赦しないんだよ」

「ひ……ひいっ!」

 男の顔が恐怖で引きつった。

 天使の様に微笑みながら、貴明は男の頬に包丁を滑らせた。切れ味は鋭く、血がたちまち流れていく。男は、貴明をはねのけようとしてもがいたが、びくともしない。

「やるならやれ! この悪魔めっ!」

「僕の見かけに騙されたくせに。最初から悪魔だとわかっていたなら、もっと万全な態勢で挑んできたろうにね。それとも万全の態勢のつもりだったかな? どちらにしてもお前は殺す価値もない」

 包丁を振り上げた貴明は、包丁の柄で男の両手首の骨を砕いた。凄まじい激痛に男は、目を開いたまま悶絶した。

 貴明は、つまらなそうに包丁を床に放り投げて、立ち上がり、男を石ころのように蹴飛ばした。

 そろそろと和紀は、メスをおろした。もともとそれで人を切るつもりは無かった。恐ろしい貴明の殺気が、彼にメスを握らせたのだ。しかしもう、貴明は和紀に見向きもしない。

「麻理子……、帰るよ」 

 貴明はベッドに近寄って、自分の上着を脱いだ。それを麻理子に優しく着せて、宝物のようにそっと抱き上げた。

「でも、貴明様」

「話の途中で逃げるな」

「…………」 

 部屋の外に出た。部屋の外ではヤクザの男達が数人倒れていて、その中に亜美が立っていた。

 亜美は麻理子たちに気づくと、深々と頭を下げた。

「すみません。社長、麻理子さん、すみません」

 何回も頭を下げる亜美に、貴明は頭を横にふった。

「こいつらの始末は君にまかせる。できなかったら兄に相談するんだな」

「……はい」

 亜美は暗い顔で、部屋へ入っていった。

 貴明と麻理子は、外に止まっていたタクシーに乗り、ホテルへ戻った。貴明の宿泊する部屋に入り、つかれきっていた麻理子は、ベッドに横になった。貴明が、部屋の冷蔵庫にある、ミネラルウォーターを手渡してくれる。

「飲みなさい。落ち着くから」

 そう言われて、麻理子は、わずかに口をつけて飲んだ。

「…………」

 不意に、涙があふれて止まらなくなった。袖口で拭いても拭いてもあふれてくる。

 その涙を、貴明はハンカチで拭き取ってくれた。

「君を探しに出たら、亜美君に出会ったんだ。デザイナーとずっと待ってるのに、一向に君が来ないとね」

 貴明がベッドに置いてあったノートパソコンを開くと、この辺りの地図が出ていて、一つ赤く点滅していた。

「これは?」

 貴明は、麻理子の耳の銀色のピアスを指差した。

「GPS。僕みたいな人間と、一緒にいると、何かと危険な目に遭う。同行者は必ず付ける事になっているって、忘れたのか?」

「あ……」

 そういえば、そんな話を聞かされていた。得心した麻理子を貴明は微笑んで見ていたが、すうっとその笑顔を消した。それを見て、麻理子は背筋を凍らせた。ホテルを飛び出した時の、貴明と同じ表情だったからだ。

 麻理子は、貴明に肩を掴まれ、顎に手をかけられた。

「貴明様」

 貴明の薄茶色の瞳は、間接照明に妙に透き通って見えた。しんと静まり返った部屋に、換気の音がわずかに響く。 

「僕は……確かに殺人依頼をした」

「……はい」

 改めて認識させられ、麻理子の声は自然に震えた。

「だか、依頼は遂行されなかった。準備している段階で、父が乗り込んできて、僕を止めた。母も一緒だった」

「…………っ」

 貴明は苦笑しながら続けた。

「母は、僕に黒い傷をつけたくなかった。父から依頼の件を聞くなり、車を飛ばしてそこへ駆けつけたってわけだ。当然僕は拒否した。しかし、母と、その母に説得させられた父は、無理やり僕をそこから連れ出し、依頼した連中に依頼は無しだと言って、手切れ金を渡したらしい」

「……でも、その人達は」

「僕が殺したかった二人は、今は行方不明だと聞いたみたいだけど、実際のところ奴らは塀の中だ。調子に乗って、別の人間に同じようなことをして、身を完全に誤った。狙った相手は、関東でも有数のヤクザのトップの愛人だったのさ。あと十年は娑婆には出てこられない。出てこれたとしても、今度こそ命はないだろうな」

「そんな……」

「本当は今でも殺してやりたいぐらい、奴等が憎い。だがそれは、誰も望まないただの私怨だ。会社にもマイナスにしかならない。僕にも身の破滅だ。だから……諦めている」

「……本当に?」

「確かに僕は、幾多の会社を統合している。吸収された人間からは恨みを抱かれる、悪党だろうね。だが、すれすれの行為をしても犯罪は起こしていない。それでは会社代表は務まらない。専任弁護士を置いて常にチェックしている。今では止めてくれた二人に感謝している」

 勇佑は、これを知っているのだろうか。彼は間違いの情報を、つかまされただけなのだろうか。

 目の前の貴明は、嘘を言っているふうではない。

 そして、麻理子はそれを信じたかった。 

 薄茶色の瞳に吸い込まれるように、麻理子は貴明から目が離せない。離したいが離せない。

 こんな、恐いと思う時でも、自分はこの男に惹かれている。掴まれている肩は、痛いくらいなのに、甘く疼く。

 聞かなければならなかった。今だからこそ。

「……貴明様が、私に近づかれた本当の理由は、なんなのですか?」

「麻理子……」

 顎と肩を掴んでいた手が、静かに離れた。貴明はしきりに瞼を瞬かせ、視線を横にそらせる。

「言ってください。本当のわけを」

 麻理子の心は、不思議なほど凪いでいた。

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