天使のキス ~Deux anges~ 第14話

 それは同じ沈黙でも、いつもの息詰まるような冷たい沈黙ではなかった。なぜなら、貴明の表情のない顔の裏側に、荒れ狂う嵐のような葛藤が透けて見えるからだ。

 相当な、よからぬ企てなのだろう。しかし、もう何も言われても動じないと、麻理子は心に決めていたので、初めて見る貴明の顔を前に落ち着いていた。

 やがて、貴明が沈黙を破った。

「どうして、僕ががなんらかの意図を持って、麻理子に近づいたと思ったの?」

「私を好きになる理由が、社長にはありませんから」

 貴明は笑った。

「沢山の男に言い寄られる君なのに、そんなふうに考えるのか?」

「社長は、彼らとは違いますから」

「どう違う? 僕は普通の人間で、食べ物を食べなければ生きていけないし、好きなもの嫌いなものもある。同じだ」

「そうじゃなくて……、社会的地位とか」

 外見とかと、麻理子が続けようとするのを、貴明は頭を左右に振って制した。

「あの世に、持っていけないものばかりだ。つまり、僕は皆と同じ普通の人間だよ。怒りもするし泣いたりもする。麻理子だって同じはずだ」

「ごまかさないでください」

「ごまかしてなんかいない。僕は麻理子が好きだから、この旅行を企てた。他の男と同じで、何とか麻理子の心を手に入れたくて……ね」

「嘘はいいんです。本当のことを」

「本当さ。僕は……嶋田麻理子が好きなんだ。もう十年も前から」

「十年前?」

 麻理子は呆気に取られた。まだ隠すつもりなのだろうか。

 貴明は、信じなくても無理はないけれど、と付け足すように言い、前髪をさらりとかき上げ、懐かしむように目を和ませた。

「……僕は、十九歳の時に、十七歳の麻理子に出会った」

 麻理子の記憶には無い。疑う麻理子の目に、貴明はまた本当だと繰り返した。

「僕が麻理子を見かけただけで、麻理子は僕に気づいていなかった。あの日麻理子はね、パーティー会場で病気になった、お父さんを迎えにきたんだ。それも覚えてない?」

「それは覚えています。母が外出していたので、私が行ったんです」

「麻理子はお父さんしか見てなかった。でも、僕は麻理子から目が離せなかった。こんなに清楚で、天使の様な女が、この世に存在するのかって、まるでスタンダールの情熱的恋愛の様に、雷に打たれたみたいに一目で恋におちた」

 貴明の優しい微笑みに、麻理子の胸は高鳴った。

「何処の誰か探したけど、わからずじまいだった。その間に僕は親父を亡くして、しゃかりきに働くはめになって……、それでも探して……。でもやっぱり見つからなくて。苦しくてあきらめたくても、その度に麻理子の面影に苦しめられて……、七年経って麻理子が屋敷に現れた時、どれだけ信じてもいなかった神に感謝したか」

 あの、部屋で貴明と面接した時だ。何故一瞬とはいえ、あんなに優しい懐かしい顔をしたのか、やっと麻理子は理解した。

 だが……。

「……貴明様は、いつだって無口で冷たかったです」

「僕の父が原因で、不幸な目に遭っているのがわかっていて、どうして好きだと言える? 僕は親父と似た様な事をしているんだから……。自分に麻理子を愛する資格は無いって、ひたすら我慢してたんだよ。でも、気が気じゃなかった、麻理子はたちまち屋敷中の男を虜にして、ますます綺麗になっていくから。はっきり言って、再会してからの方が苦しかった」

「そんなんじゃ……」

「麻理子がカップを落しそうになった、あの日……。もう我慢ができなくなったんだ。嫌われていようが、憎まれていようがかまわない。なんとしても振り向かせようってね」

 想いのこもった、深い眼差しで貴明に見つめられ、麻理子は恥ずしくなって俯いた。うれしいのに何故か口から出てくるのは、また貴明を責める言葉だった。

「信用できません。他の人にも手を出していらっしゃるのに」

「出してないよ。僕は本当に誰にも触ってない。麻理子以外は欲しくないし興味ない。僕は、本当に好きな相手にしか、キスはしない」

「信じられないです。だって、手馴れた感じで、旅行中いつも……」

「本当に手馴れていたら、疑念を抱かれるようなへまはしないよ。僕は恋愛に関しては、計算も駆け引きもできないし思いつかない。ただ、ぶつかるだけだ。玉砕するか受け入れてもらえるか、それだけなんだ。そんな僕があの女この女と手を出すなんて、割り切った芸ができるわけ無いだろう。あの屋敷でそんな真似をしたら、噂がぱっと広まって、それこそ麻理子に振り向いてもらえなくなる」

「でも」

「麻理子」 

 貴明が麻理子の両手を取り、神に祈りを捧げる人のように、自分の額に当てた。

「お願いだから、僕を受け入れて欲しい。もうこんなに苦しいのは沢山だ。もう我慢したくない。こんなに麻理子に恋いこがれてる。本当なんだ。本当に……、君を愛してる」

 そこまで言って、再び貴明は黙った。思えば、ここまで二人は真剣に向かい合ったことは無かった。いつもお互いが、ちぐはぐな方向を見ていた気がする。それは麻理子の過去への拘りによる拒絶が主だったが、貴明のほうも行動力はあるのに、気持ちを伝える真摯さが欠けていた。

 貴明は恐れていたのだ。心の奥底から想いをさらけだして、麻理子に拒絶されるのを。

 超人のように思えていた貴明が、崩れるような弱さを見せたことに、一種の感動を麻理子は心に覚えた。

 一方で、予想外の急展開の出来事が続いて、頭がついていかない。貴明は犯罪者ではなく、麻理子を陥れようとして、近づいてきたのでもなく、何年も前から愛してくれていたのだという。

 そんな夢のような話が、あるのだろうか。

 親しんできた従兄の勇佑の警告を聞いても、なお、貴明を信じたかったのは、麻理子自身だ。

 信じたいのに、恐れを抱いてしまうのは、引き返し不可能な領域に引き入れられつつあるからだ。貴明が放つ甘い誘惑は、古代の神話の女神たちが奪い合った、あの黄金の林檎のように煌いて、かぐわしい芳香を放って麻理子を惑わせる。

 驚くほど静かだ。

 貴明を追い詰めたようでいて、実際追い詰められているのは麻理子のほうだった。

 学生や、もっと若い年齢であったなら、そんなに返答に困らず、軽く受け入れられる。しかし、もう貴明も麻理子も遊びで恋愛する年齢ではない。

 長い静寂は、二人にとって必要な想いの確認だった。

 貴明はじっと、麻理子の返答を待っている。

 麻理子は、貴明の想いは疑いようも無いと思われるのに、即答するのが躊躇われて、また貴明を試した。

「でも私は、両親は居ないし借金だらけだし、とても貴明様にはふさわしくな……」

「そんなこと関係ない」

 貴明がいらいらして、遮った。それは麻理子に対して向けられた刺々しさではなく、うまく気持ちを伝えられない自分自身に向けられたものだった。

 それでも麻理子は、何度でも確認したいのだ。貴明が、本当に自分を愛してくれているのかどうかを。それが麻理子の心のはかりの傾斜を、深める錘になるのだから。

「麻理子から見える僕は、変わったのか?」

 貴明が麻理子を見つめる目は、まるで、追試の結果を告げる教師を、おそるおそる見上げる生徒のようだった。

 会社の誰が、こんな弱気な貴明を想像できるだろう。

 散々振り回された麻理子は、ここは思い切り貴明を困らせななければといけないと、何故か思った。そうでなければこの恋はフェアじゃない気がする。

 麻理子は、貴明について、思いつく限りを口にした。

「どうって……そうですね。冷たい目で、いつも何か計算づくで行動してそうな社長さんで、我が儘で強引で、私の気持ちも考えずにキスして、こんな所まで連れてきて、いきなりずっと好きだったなんて言って、私をいつも困らせてしまう男性です」

 ふられたのだと、がっかりしたように貴明は俯いた。

 好きな男を困らせて楽しんでいるのだから、ずいぶん嫌な女だ。でも、こんな残酷さを麻理子の奥底から引き摺り出したのは、貴明なのだった。

 亡くなった麻理子の母も、こんな感じで麻理子の父をからかっていた……。

(お父様。お母様……)

 知らずに涙がわいて来た。貴明は麻理子の涙に気づかないでいる。額に当てていた手を下ろしても離さないのは、未練なのだろう。それほど愛してくれているのだ。

 温かい心に励まされるように、麻理子は貴明に顔を近づけた。

「だけど、そんな貴明様を、私は愛しています……」

 短い告白だった。麻理子にはそれが精一杯だった。

 ゆっくりと顔をあげた貴明が、十年の恋の魔法が解けた宝石に触れる様に、麻理子の頬へ手を伸ばした。

「麻理子、本当に……?」

 麻理子がうなずくと、貴明はうれしそうに、目を輝かせた。

「十年分のキスがしたい」

 俗物な貴明の願いに、ロマンチックなものが、一気に吹き飛んでしまった。しかし、少しも不快ではなかった。

「この旅行中、なさってるじゃありませんか?」

「あんなの挨拶だ」

 両手で頬を包み込まれ、唇が重ねられた。

 それは今までの中で一番長く、貴明が名残惜しそうに唇を離すと、麻理子は顔を赤くさせながら、文句を言った。

「貴明様、いくら何でも長過ぎます」

「長くないよ。僕はこの時間の何万倍も、麻理子に恋いこがれて苦しんでたんだから。ちょっと息苦しいくらい我慢して欲しいな」

 そう言いながら貴明がベッドへ乗りあがってきて、麻理子は内心で飛び上がった。しかし、貴明は麻理子に手を出してくる気配もなく、大きく伸びをして寝転んだだけだった。

「あー幸せだ。生きてて良かったなあ……」

 腕枕をした貴明が、麻理子にわざと顔を近づけて、あの天使がつついたような綺麗な笑顔を見せる。大人のする表情ではない。まるっきり子供のようだ。日ごろの冷たい仮面の下に、こんな無垢な笑顔があるのだと誰が知るだろう。

 ずっと、惹かれていた。この綺麗な光の天使に。

 愛されたいと願っていた。だからどの男にも振り向かなかった。

 麻理子は思わずつられて微笑みながら、照れ隠しのように顔を隠した。どうにもにやけてしまって、みっともない顔をしているに違いない。

 男と付き合った経験の無い麻理子は、突きあげてくる欲望を、必死に押さえ込んでいる貴明を知らず、ひたすら幸せと甘い雰囲気に浸っていた。

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