天使のキス ~Deux anges~ 第21話
「っあ……あ……」
麻理子は、貴明に貫かれて声をあげていた。
貴明の激しい動きに、ベッドが軋む音が少しうるさい。
密着した腰が熱く、全身から汗が滴っている。
絡められた指も同じで、溶けていく心地がする。
ベッドの脇には、二人の服が無造作に脱ぎ捨てられていた。
貴明は麻理子を夢中でむさぼる。
心の芯までとろける愛戯に、麻理子は力が入らない。昨夜と同じように、ひたすら貴明の与えてくれる快感にすすり泣くだけだ。
十年越しの想いが一気に爆発して、貴明は、ここまで麻理子を抱かないと気が済まなくなっているようだった。
もう深夜だった。
やっと、貴明が麻理子の中に精を出し、果ててくれた。
貴明は暫く麻理子に口づけていたが、そのうち静かになった。眠ったようだ。
麻理子は眠りかけて不意に目覚め、貴明の顔を見つめた。ベッドランプの懐かしい光を受けた、貴明は天使の様に美しい。
ランプを消そうすると、左手薬指のダイヤの指輪がきらきらと輝いた。
挨拶の後、交代勤務の引継ぎのためにメイドの詰め所へ出勤した麻理子を、同僚たちはいまかいまかと待ち構えていたようで、部屋へ入った途端あっという間に取り囲まれた。
「すごいじゃないっ。貴明様と婚約ですって?」
「どうやって貴明様の気を引いたの?」
「今まで嫌いって言ってたのに、どういう気持ちの変化?」
などなど、あけすけに聞かれて、麻理子は面食らった。そもそも婚約はまだしていないのに、邸の中では婚約した事になっているらしい。貴明は、車から降りる動作だけで、これだけの効果をあげてしまったのだった。
本当のことを言えず、麻理子は口ごもった。どこまで説明したらいいのかわからない。
「いいなあ。貴明様素敵だもの」
「だけど嶋田さんとお似合いよね。頑張ってください!」
皆がわいわいとお祝いを言ってくれる中、一人のメイドが言った。
「でもうまくやったわよね。園子はお邸を辞めるっていうのに」
あたりがしんと静まり返った。そのメイドは園子の取り巻きの一人だった。
言い方が聞き捨てならないものの、園子が空港で、アメリカの御曹司と腰を抱き合っていたのを思い出し、麻理子は怒らなかった。それがますます癪に障ったらしく、メイドは続けた。
「でもアメリカの御曹司と婚約したのよ。日本なんかに居るより、遥かにレベルが高いわ」
暗に麻理子のレベルが低いと言っていた。それは貴明も低いと言っているに等しく、麻理子はカチンと来た。自分だけならまだしも、上司である貴明まで貶めるのは、勤める者としてどうなのだろうか。
「日本はアメリカより下なの? そんなの誰が決めたのかしら?」
それでも冷静に言えたのは、麻理子の令嬢としての誇りだった。果たしてそのメイドは目を怒らせた。
「ああら? 昔ご令嬢だった方は、今もその名残にしがみついていらっしゃるのね。ちょっとは自分の世間的地位を見てみたらどうなの?」
「ここにお勤めしている者ですけれど、それが何か? 園子もそうだったはずだわ。貴女も、ここで同僚として働いていて、そこに身分差などあったかしら?」
園子の取りまきをしていたそのメイドを含む二人は、麻理子を馬鹿にしたような目で見て、何かを囁きあって笑った。
普通の人間なら感情的になって問い詰めるところだが、麻理子はそうはしなかった。そこにはメイドの全員が集まっていた。
「でもひとつ仕事が増えました。社長のお部屋やお世話係は、私ともう一人の新任の方がすることになりました。メイド長がご多忙でいらっしゃれないので、私が代わりに紹介します」
麻理子は園子と並んで、メイドグループの最年長だったので、時々メイド長の代わりを果たしていた。
「高塚さん、どうぞ」
呼ばれて入ってきたのは、これといった特徴がない若い女性だった。
女性は丁寧に頭を下げた。
「高塚みどりと申します。よろしくお願いいたします」
部屋がざわめいた。新任のメイドが、邸の主人や主人に連なる人間と同じ職場になるのは、明らかに特別待遇だ。
「不服がある方は、直接社長へと伝言があります。引継ぎはこれまで。今日は解散とします」
このような言い方は好きではなかったが、貴明とナタリーに言われた伝言のため、麻理子は逆らえなかった。どんどん自分は追い詰められている。
(結婚したくないわけじゃないけれど……)
プロポーズの返事をしていないだけで、今の麻理子には、貴明の妻になる道しか残されてはいなかった。そうでなければ、麻理子の仕事の変化は貴明の我侭になり、麻理子も恋人の立場を利用するとんでもない従業員となってしまう。外聞的にもよくない。プロポーズを受けなければ、貴明の評判を麻理子が汚してしまいかねないのだ。
幸い文句を言っているのは、園子の取り巻き立ったメイド数人だけで、あとの大勢は特に麻理子に反抗的な態度は取らなかった。むしろ祝ってくれている。
貴明の部屋へ戻る最中、みどりが言った。
「あの文句を言っていた人たちは、どうなるんでしょう」
「特別な方たちだったから、近々辞めさせられると思うわ。退職金は破格になるでしょうね」
「……そうでしたね」
みどりは知っているのだ。園子をはじめ、文句を言っていた数人は、貴明の妻候補の令嬢たちだったということを。だから、あんなに辛らつに麻理子に文句を投げつけたのだと。
「邸内だけでこれですから、社交界では油断なりませんわね」
「そうね」
もう、詰まれたと麻理子は思った。
みどりは麻理子の為に、貴明が選んだボディーガードだった。数ヶ月前までイギリスの貴族の警護をしていたのだが、その貴族が老齢で死亡してフリーになっていたところを、貴明が部下を通じて日本へ招いたのだという。そのイギリス貴族は元軍人で政界に幅を利かせていたため、常に危険と隣り合わせの勤務だった。みどりの腕は貴明のボディーガード並みに、優れているのだろう。
そんなみどりを紹介されて、まだ余裕があると思っていた麻理子は、世間知らずのお嬢様にも程がある。
有無を言わせない貴明の行動力の早さに、舌を巻く思いだ。
そうだ。貴明は言っていたではないか。返事はイエスしか聞かないと。あれは麻理子への宣戦布告だったのに、両想いになっただけで浮かれていた麻理子は聞き逃していた。
そんな麻理子に、みどりが愉快そうに笑った。
「社長にしてやられた割には、くやしそうでいらっしゃいませんわね」
心中を当てられて、麻理子は苦笑した。
そうなのだ。この手の強引さは実のところ嫌いではない。力任せに迫ってきたエリート達とのこの差は及ぶべくもなく、貴明という男を、ますます好きになった。
角を曲がったところで、麻理子は人にぶつかりそうになり、たたらを踏んだ。
「おっと、大丈夫ですか?」
相手は雅明だった。
あんまり会いたくなかった麻理子は、大丈夫だと言って通り抜けようとした。しかし、雅明が意味深に笑ったのを見て、足を止めた。
「何か?」
「いいえ。おめでたいと思って。貴明へプロポーズの返事をしにいかれるんでしょう?」
おめでたいというより、面白がっているのがありありとわかる。聞くのではなかったと麻理子は思い、そのままきびすを返した。すると雅明がさらに言った。
「よくもまあ、あんな悪魔みたいな男と結婚する気になるね。怖いもの知らずのお嬢様だ」
「……なんなんですか? 一体何がおっしゃりたいの?」
雅明は不敵な笑いを、ほとんど麻理子の鼻先にまで近づけた。
「あいつは本当に恐ろしい男だよ? ちょっと裏の顔を見たぐらいで舞い上がってるようだから、釘をさしてあげただけ」
「ご心配いたみいります」
顔色を変えずに麻理子が言うと、雅明は離れて、驚いたように両手を上げた。それがいかにも麻理子を馬鹿にしていて、相当にはらわたが煮えくり返ったが、麻理子は我慢した。これに比べたら先ほどのメイドなど優しいものだ。
「さあすが、ナタリーが見込んだだけある。鋼鉄みたいな女だね!」
「どうもありがとうございます」
そのまま歩いていく麻理子の背後で、雅明が口笛を吹くのが聞こえた。
恋をしておめでたくなってしまったと自覚しながら、麻理子はその足で貴明の部屋へ向い、結婚を承諾した。
貴明は黙ってうなずき、麻理子を抱きしめてキスしてくれた……。
その夜、貴明はだらしなくソファに寝そべっていた。相当疲れる何かがあの後あったらしく、麻理子が用意した夕食にもお酒にも手を出さないまま、目を閉じてぐったりとしている。それでも服を着崩さないのは、生まれによるものなのか、性格的なものなのかは麻理子にもわからない。
「正直言って、僕もあまり雅明については、よく知らないんだ」
麻理子が雅明がどういう人物なのか、貴明に聞くと、貴明はゆっくりと起き上がった。
「顔だけは、貴明様にそっくりでいらっしゃいますね」
「顔だけはね。性格は多分間逆じゃないかな。おまけにあいつはバイだ」
「バイって……。男女両方おつきあいできるという嗜好のかたですよね?」
「そう。だから麻理子も気をつけてね。あいつは見境なさそう」
「……はあ」
貴明と同じ顔でも雅明は、麻理子にとって、どこにも心をひかれるものはなかった。
「さっそく邸の女を食ってる。引っかかる女もどうだと思うけど……」
「手の早い方なんですね」
「あいつには、貞操観念ってやつが抜け落ちてるよ」
貴明が手酌でワインを飲もうとしたので、麻理子はさっと近寄ってボトルを手にし、貴明のグラスに傾けた。貴明は微笑み、ワインを一口飲んで再びソファに沈んだ。
「あいつとは七歳までしか一緒に居なかったんだ。父さんが亡くなってから、すぐに僕はアメリカのボーディングスクールに入れられてしまったし、あいつはあいつでドイツのシュレーゲルにやられたから」
「どうしてお母様と、ご一緒に過ごされなかったんです?」
「親父と結婚したからだよ」
貴明は、実の父親の雅文を”父さん”と呼び、義父の圭吾を”親父”と呼ぶらしい。
「あの男は結構な野心家だったから、潰されないようにと手を回したんだな。ま、僕は親父の意思でアメリカにやられたわけだけど、雅明はそういう理由からだ」
「何かスッキリしませんね」
「僕は物心をついた時から英才教育を受けてて、ここを継ぐのを前提にあれこれ勉強させられてたから、早かれ遅かれそういう学校に入れられる運命だった。でもあいつはそうじゃなくて、父さんに溺愛されてた。ナタリーは会社が忙しくてほとんど家にいなかったし、家庭教師ばかりに相手にしてた僕はそれがうらやましかったなあ。もちろん父さんは僕も可愛がってくれてたけど……、なんというかな、わかるんだよ、あの二人はとっても似てたから」
「浮気者だったんですか?」
「いやいやそうじゃない。普段はひょうひょうとして捉えどころの無い態度なのに、ある一点については貪欲に貪るところ」
「……よくわからないんですけど」
「麻理子は相変わらず鈍いね」
貴明が苦笑した。
「だってわからないんですもの」
「こういうこと」
貴明に腰を抱かれて、麻理子はわずかに頬を染めた。
「……ナタリーは、父さんに恐ろしいほど愛されてた。子供心にも怖いぐらいにね」
「まあ」
とてもそんな要素が、あの雅明にあるとは麻理子には思えない。
常に笑顔を浮かべて、なんでも軽くいなしてしまいそうで、来て早速、佐藤邸内の女と寝るところなど、執着心のかけらもない気がする。
でも貴明は、違う受け取り方をしているらしい。
「双子って奴は、不思議なものだ。手に取るように相手の気持ちがわかる」
「気持ち……?」
「だけど、そう思ってるのは僕だけなのかもしれない」
言いながら、貴明の手が急に胸を弄ってきたので、麻理子は驚いてボトルを落としかけた。構わず貴明が行為を続けようとするのを懸命に阻止し、ボトルをテーブルの上へ置いた。諦めてくれたのかと思いきや、ただ単にボトルを置かせてくれただけで、今度はソファに押し倒され、深い口付けを受けた。
「駄目……です。まだ皆いる…………っ」
「メイドが一人残らず邸から消えるなんて、有り得ないけど?」
「でも、あっ」
襟元から覗く首筋に、貴明が強く吸い付いた。跡になりやしないかとひやりとする。メイド服は襟が高いので隠れるだろうが、ぎりぎりのあたりだ。
「お願いですから……、本当に」
麻理子が懇願すると、貴明はしぶしぶといった態で解放してくれた。恐ろしく手馴れていて、もうブラジャーのホックが外れている。
「明日は大阪で会合なのに」
「そうなんですか?」
「君にも僕の予定を知らせる必要があるな。明日秘書から受け取ってくれ」
「はい」
「さ、面白くも無い話は終わり。ここに座って」
貴明が、自分の膝をぽんぽんと叩いた。突然すぎて麻理子は躊躇った。
「え……ちょっとそれは」
「いまさら何を恥ずかしがってるの。早くお座りよ」
「でも私」
「しょうがないお嬢様だ」
麻理子は、立ち上がった貴明に腕を引っ張られ、無理やり膝の上に座らされた。この姿勢は北海道での濃厚な最後の一日を、麻理子に思い出させて、一気に身体がかっと熱くなった。意識しているのを感づかれたくなくて、麻理子は期待から生じる震えを必死に押さえ込んだ。
「麻理子はしょうもないところで、体裁を気にするから……」
背後で貴明が本当に呆れている。ばれてしまっているのだ……。
「素敵なものをあげる」
「素敵なもの?」
貴明の大きな手が麻理子の左手を取った。そしてもう片方の手が、大きなダイヤの石が付いた指輪を持っていて、それを麻理子の左手薬指にするりと嵌めた。
「……これ」
胸がどきんとした。
「婚約指輪。ちょっとサイズが合わないのは我慢して。これはナタリーからの贈り物だから」
「……メイド長の?」
「父さんがナタリーに贈ったものだ」
そんな大切なものをもらっていいのだろうかと、麻理子が思っていると、貴明が背後から抱きしめてきた。
指輪を嵌めた左手に、熱く口付けられる。
「麻理子……、僕のものだ」
「貴明様」
愛する人に自分のものだと言われて、麻理子はうれしくてたまらない。
貴明に抱き上げられ、部屋の隅のベッドへ横たえられても、もう麻理子は逆らわなかった。あの冷たい悪魔のような顔も、全く気にならない。
おそらくこの悪魔は、麻理子を欲しすぎるあまりに出てくるのだろうから。
この妖しい美しさを引き出せるのは、自分だけなのだというのが、麻理子はとてもうれしかった。
貴明は、指輪が光る左手を何度も口付けた。
「今夜中に返事をもらえたらいいなと思ってた。欲しくて欲しくてたまらなくて、それがきっと麻理子を突き動かしたんだと思う」
「そんなふうにお考えですか?」
あれほど追い詰めておいて、貴明はそんなふうに言う。
「気持ち悪い?」
「いいえ」
貴明の顔が近づいてきて、唇が重なった。
「…………」
ダイヤの輝きには、さまざまな重みが伴っていた。
それでも麻理子は貴明と一緒なら、きっと乗り越えていけると思った。
また、そうでなければならなかった。