天使のキス ~Deux anges~ 第22話

「嶋田さん、この薔薇はこちらですか?」

「そのテーブルが合わないわね。倉庫から青銅のものを持ってきて頂戴。一番小さな、鳥の彫刻が入っているものをお願い」

「はい」

 後輩のメイド二人が倉庫へ行く後姿を見ながら、もう一人くらい助けを呼ぼうかと麻理子は考えて、それは二人が判断することだと思い直した。貴明と結婚してメイドを辞める麻理子には、後輩の育成も大事な仕事だった。

 例の園子の取り巻きたちの報復はあると思ってはいたものの、花の買占めをして仕事の妨害をしてくるとは思ってはいなかった。しかもどうやって手を回したのか、どこへ電話をしても扱っていないとか、売り切れといわれる始末だ。

 仕方なく、庭から最小限の花を選んで、足りない物は調度品で代用し、それを使っている。

「お金と頭の使い方が間違っている典型ですね。あんな連中のガードだったら、お断りでしたが」

 手伝うみどりはあきれ返っており、麻理子も実際、怒りを通り越してあきれていた。

「社長が大阪へおいでの時を狙うあたりが、小心者の頭の悪い考え方ですわね」

「彼女たちは、メイド長が一番怖いのを知らないから……。彼女たちの実家に、報復があるのは確実だわ。止めてあげたいけれど、私にはそんな権限は無いし」

「本当にお優しいですね」

「そう?」

「海外では、もっと容赦がありません。日本は島国のせいか生易しいくらいです。社長もまだまだですわ」

 それでいいと麻理子は思う。

 大陸の、敵をすべて叩き潰すという考え方は、結局は己の身の破滅を招くのと同じで、誰のためにもならない。悪魔の顔を持つ貴明なのに、彼はよくそれを知っている。おそらく、日本生まれのナタリーか、実父の教えを引き継いでいるのだろう。

「どちらにしても助かったわ、高塚さん。まさか、お庭のお花を使うなんて考えてなかったの」

「少しばかりの拝借です。誰も咎めません」

「調度品を花代の経費でレンタルするっていうのも、私だけだったら考えられなかったわ」

「……本当に麻理子様は、箱入りのお嬢様ですね。当たり前の考えですのに」

 怒るところなのかもしれないが、麻理子はそれを事実だと思った。

 みどりは最後に仕上げに、あちこちを雑巾で乾拭きし始め、麻理子もそれを手伝った。 

 高塚みどりという女は、想像以上に有能な女だった。

 覚悟していた嫌がらせがこの程度で済んでいるところも、彼女が何かしら手を回しているのが伺える。麻理子のように、他人に囲まれた令嬢生活を送っていた人間で無いと、みどりの有能さはわかりづらいが、つい最近交流を始めた相手であるのに、まるで昔から一緒にいたように接せられる能力は、大した物だ。佐藤邸はその仕事内容もあって、かなり閉鎖的で、新入りは受け入れられるのに数ヶ月かかるのが常だった。麻理子も当初は苦労したものだ……。

 みどりは度胸が据わっていて、無駄な行動は一切せず、的確に問題を解決する方向へ持っていく。そこに私心は見受けられず、きびきびと働く姿を見て、不審げに見ていたメイド仲間も何も言わなくなった。まだ来て僅か一週間だというのに。

「これはここでいいわ」

 庭に咲いていた初夏の花々の花瓶を置き、麻理子は満足げに表玄関を見やった。佐藤邸の顔だといえる表玄関は、麻理子がかなり気を配っている場所で、指示だけで他人に任せる他所と違い、ほとんど麻理子がコーディネートしている。

「花の場所を変えるだけで、こうも受ける印象が違うものなんですね」

「そうなの。花によっても変わるけれど……。そこが楽しいのよ」

 麻理子は心底うれしそうに言いながら、うなずいた。

 青銅のテーブルを、台車で後輩たちが運んできた。これで表玄関での仕事は最後だった。

「どちらにしてもあの三人は、あと数日で退職よ。明日の夕方には貴明様もお戻りになるし、買占めもなくなるでしょう」

 麻理子という配偶者が決まったため、花嫁候補だった三人は、手厚い退職金と共に退職予定だ。乱暴だと思ったが、最初の取り決めで、契約の判が押されている以上彼女たちは何も言えず、こういういじめをして憂さを晴らすしかないのだと、麻理子は呆れるのと同時に僅かに同情していた。

 その日の午後、みどりが離れたほんの僅かな時間を狙ったのか、貴明の部屋の掃除をしていた麻理子のところに、例のメイドが一人だけでやってきた。

「ねえ? この部屋って面白いものがあるのよ。貴女知ってる?」

「面白い物だらけだけど、貴女、部屋に入るときぐらいノックしたら?」

「貴明様はいらっしゃらないじゃない」

「予定が早まったり、会長がいらしたりしたらどうするの? 私を軽んじるあまり、マナーを忘れるのは感情的に過ぎやしない?」

「あら、おかんむりね。ふふふ。まあ、こちらを御覧なさいって」

 追い出しても良かったが、ある程度は聞いてやろうかと思い直し、麻理子はそのメイドが促すままに本棚の前に行った。

「これなのよ」

 メイドが一冊の辞書を取り出した。何の変哲も無い広辞苑で、何が面白いのかわからないでいると、ページを開いた途端に、写真が数枚ぱらぱらと床に落ちた。

 写真には、貴明と見知らぬ女性が写っていた。

 貴明の髪は長めのショートで、二十歳前後のように思われる。

 相手の女性はほっとさせるような明るい笑顔で、麻理子を見つめ返してきた。長い黒髪が艶やかに流れていて美しい。

(……誰?)

 麻理子が床に落ちた写真を、手にとってしゃがみこんでいると、メイドが面白そうに含み笑いをした。

「それね、小川恵美さんとおっしゃる方。貴明様のお好きな女性よ」

 恵美という名前に心当たりがある麻理子は、はっとした。

「ずいぶん素敵な方よね。貴女とは大違い。もうひとつ面白い話をしてあげる。社長は……」

 本棚を軽く誰かがノックする音がして、メイドが口を閉ざした。

 そこにいたのは雅明だった。

「……探し物をしていたら、そんなところにしまいこんでいたのか君は? 返して欲しいんだけど」

「あ、あら、雅明様ってば。これは…………っ」

 メイドは慌てたようにうろたえはじめた。しかし、写真を見てショックを受けている麻理子は、視線を落としたままだったので、そんな彼女の様子にはまるで気づいていなかった。

 雅明はメイドに近づき、ぐいと右腕を引っつかんだ。

「痛……っ!」

「貴明の弱点を知りたくて、私と寝たのはわかってた。見事に引っかかったね」

「あら、それなりに楽しんでたくせに」

「そりゃあね」

「離してくださいます? 私はこれで失礼しますわ……、うっ!」

 ますます強く腕をつかまれ、メイドの顔が痛みでゆがんだ。

「君ね、そんな姑息な手段しか使えないから、貴明に選ばれなかったの。わかる?」

「はあ? 別に選ばれたくも無かったけど? そんなおばさん選ぶ社長なんて、目が悪いとしか思えなくて幻滅よ」

「ふーん。まずい出来事は、すべて相手のせいってわけか?」

「そうじゃないの! まともな考えの方だったら、園子や私をお選びになるわ!」

 軽く乾いた音がして、麻理子が気づいた時には、メイドが本棚に背中からぶつかり倒れていくところだった。何が起こったのかわからないまま助け起こすと、メイドの右の頬が腫れ上がっていた。

 雅明が平手打ちしたのだ。

「お、女に手を上げるなんて、最低っ!」

 涙を流すメイドに注がれる雅明の視線は、このうえなく冷たかった。

「お前はただのゴミだ。お前たちは、何人の花嫁候補をいじめて追い出した? おまけに選ばれなかった腹いせに、麻理子さんをこんな姑息な手段でいじめる悪党だ。手癖の悪い馬鹿犬は、飼い主の代わりに手厳しくしつけなければな」

「な……っ!」

 メイドの顔が驚愕にゆがんだ。ばれていないと思っていた他の花嫁候補のへのいじめは、すべて筒抜けだった事に驚いているのだろう。雅明は今度はおかしそうに笑った。

「気づいてなかったんだな。監視役が一人ずつメイドグループに居たんだよ」

「そんな……。うそ……うそ!」

「ま、ここいらで心を入れ替えて引き下がるんだな。退職金をきちんと支払う、貴明の剛腹っぷりに感謝すべきなんじゃない?」

 メイドは悔しそうに唇をゆがませ、麻理子を睨みつけた。麻理子は暴露された事実を処理するのに精一杯で、睨み返すという気も起きなかった。肩にわざとぶつかってメイドは部屋を出て行き、後には麻理子と雅明が部屋に残された。   

 先ほどのメイドと一緒にいるよりも、今のほうが居心地が悪い。

 貴明に似ているからこそ、一緒に居たくない。みどりは遠くへおつかいに行っているので、当分帰ってこない。だからこの貴明の部屋に麻理子はいるしかないのだった。貴明が予定より早く帰るということもなかった。

「いやはや。何に使うかと見ていたら、こんなしょうもないいじめに使うんだもんなあ。この部屋の鍵はすぐに変えろよ」

 雅明が呆れながら、まだ落ちている数枚を拾い上げた。それは貴明のものではなく、雅明のものだったらしい。誰が考えてもわかる事で、あの用心深い貴明が、自分の命とりになりかねないプライベート情報を、そんなところに置くわけがなかった。

「雅明さんは恵美さんをご存知なの?」

「ご存知も何も、家が近所だから知ってる」

「ええ!?」

 確か、ずっと雅明はドイツ暮らしだったはずだ。麻理子がそう言うと、雅明はドイツのシュレーゲルに家は確かにあるけれど、ヨーロッパ中のあちこちを転々としていて、あまりシュレーゲルへは帰っていないと言った。そして、その日本の家は、貴明と雅明の実父の雅文の持ち物で、今は雅明が世帯主なのだという。

 貴明が話してくれなかった恵美という女について、麻理子は知りたかった。

「今はどうされていらっしゃるの?」

「フツーに暮らしてる。子供二人いるし」

「二人?」

 確か、先代の圭吾との間には一人しかいなかったはずだ。それが顔に出たらしく、雅明が、ああと言った。

「もう一人は佐藤圭吾の子供じゃない。かといって。死に別れてるけど、佐藤圭吾との後に結婚した男の子でもない」

「?」

 麻理子は、雅明が何かなぞかけしているのはわかるが、また何か嫌な事実を話そうとしているのだなと警戒した。目に意地悪な色が浮かんでいて、あきらかに楽しんでいる。雅明は、胸のポケットから一枚の写真を取り出した。

 それを見た麻理子は、今度こそ本当に驚いた。

「言っとくけど、それは貴明でもないし、私でもないし、合成でもない」

 映っていたのは恵美という女と、彼女の腕に甘えている貴明そっくりの幼い子供だった。

 愛しているのは麻理子だけだと言ってくれたのは、つい最近の夜だったというのに、これはあまりに酷い裏切りだ。二人はまだ繋がっているのだろうか……。

 でも、やっぱり麻理子は貴明を信じたかった。あの真摯な告白を、恵美という女との愛のカムフラージュのためにしたとは、どうしても思えない。

「気に食わないけれど、この方の家へ案内いただけますか?」

「あれ? その程度のショックなの? これはまた鋼並みの精神力だね~。さあすが、あの悪魔の嫁になるだけある」

「貴方の子供じゃないの?」

「健気だねぇ。貴明を信じてるんだ?」

「私は、本人の口から聞いたものでないと、信じないことにしております」

「ふーん。ま、事実を知るだけだと思うけど?」

「それでも、よ」

 麻理子は気丈に言い放った。雅明はこれは面白いという表情を隠さずに、目を輝かせながらにやにや笑った。

「じゃあ、明日の朝一番に車を出そう」

「貴明様のおかえりは夕方……」

「残念ながら、今のお嬢様ではあいつの口車に乗せられて、真実はつかめっこないよ。過去を聞きだそうとして上手くはぐらかされてない?」

 図星をさされた麻理子は、仕方なく同意した。雅明の挑発に乗ってしまっているのを自覚していたが、みどりも同行するのなら大丈夫だろうという思いもあった。

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