天使のキス ~Deux anges~ 第26話
夏に向って陽射しが強くなっていく中、佐藤邸では、麻理子と貴明の結婚式の準備が着々と進められていた。
大々的な結婚式披露宴は行われない予定になっており、式に出席するのはシュレーゲルの一族数人と佐藤グループの社員たちで、披露宴も似たような感じだった。麻理子は忙しい貴明に代わって進行をナタリーと考え、ドレスや礼服を選び招待状を皆に出して回った。亜美は来てくれないかと思ったが、出席の返事が返ってきた。
式場は佐藤邸の大広間が使われ、当日の司会や進行やセッティングは同僚たちがすべて請け負うと言って来たので、麻理子はその方面ではすることはなかった。料理も厨房のメンバーが張り切っている。
皆が祝いムードの中、肝心の麻理子は腑に落ちないものを抱いていた。
交際期間を飛ばしていきなり結婚の運びもさりながら、仕方がないのかもしれないが、招待客に嶋田の一族が入っていない。貴明に聞いてもまだなんとも言えないと言うばかりで、それなのに結婚式の日は近づいてくるのだった。
あれからは毎日が平凡そのもので、狙撃されたのはただの夢だったような気さえしてくる。それでも新規に買った携帯端末で勇佑の番号は押せなかった。向こうからもかかってこない。
外出していた貴明が戻ってきたのは、二十一時を半分ほど過ぎた頃だった。麻理子は一人で夕食をとり、結婚式の引き出物について考えていた。
「おかえりなさい、貴明様」
「ただいま」
もう結婚したようなやりとりを、二人はしている。
「夕食は召し上がりました?」
「いらない」
「コーヒーでも……」
「話があるから後でもらうよ」
貴明はスーツの上着も脱がず、麻理子の向かい側に座った。
重苦しい雰囲気を漂わせる貴明に、何か重大なミスをしでかしただろうかと麻理子は考えたが、全く思い当たらない。貴明は黙り込んでじっと麻理子を見つめ、話があるといったくせになかなか口をひらこうとしなかった。
余程重大な話らしい。
そんな貴明を見ているだけで、麻理子は胸の奥が重くなる。勇佑のことなら早く言ってくれればいいのにと思う一方で、聞きたくないと思う気持ちもあった。
誰かが聞き耳を立てているような、そんな気配を一瞬感じて扉のほうを見やったが、多分それは気のせいだ。
やがて貴明が言ったのは予想外の言葉だった。
「麻理子。君は借金を返す必要がなくなった」
一瞬麻理子は呆けたように貴明を見つめ、それから慌てて言った。
「どういうことですか。私は結婚しても肩代わりなど不要と申し上げましたが」
貴明はうなずいた。
「ああそうだ。だが、僕が調べさせた情報部の報告によると、そもそも借金というものがなかったと判明した。君が返済している口座は、嶋田勇佑の経営している子会社のものだとはわかってはいたんだが……」
「当然です。勇佑お兄様が、肩代わりしてくださったんですもの」
麻理子が従兄をかばうように力を込めて言うと、貴明はそうじゃないと眉間にしわを寄せた。
「嶋田勇佑は肩代わりなどしていない」
真っ黒な闇が大きく口を開けて、麻理子を飲み込んだ。その闇は麻理子を飲み込んだだけではなく、心を引き裂く刃を持っていた。
貴明は、闇が麻理子を引き裂いていると知っていながらも、話を止めてくれない。
「君のご両親が亡くなった朝、借金について話したのは誰だ?」
「お兄様です。初七日を終えた夜に、もうすぐ借金の取立てが来るから隠れたほうがいいって。父の会社経営は順調だったはずなので怪しいと思ったんですけど、借用証を見せられて驚いてしまって。その夜は眠れなくて……。翌日、本当に怖い人たちが取り立てに来たんです。用心の為にとお兄様がいらしてくださってたから、代わりに応対してもらって、その場で借金をとりあえず肩代わりしてもらったんです」
「……で?」
「佐藤圭吾は貪欲で容赦が無い男だから、これに味を占めてもっと酷いことをするかもしれないからって……、その時お兄様に結婚を申し込まれましたけど、借金の形みたいで不吉だし、お兄様に申し訳なくてお断りしました。するとお兄様はとにかく隠れる必要があるとおっしゃって、あのアパートを紹介してくださったんです」
両腕を組んだ貴明は、とんでもない話だと横に首を振り、長い足を組み替えた。
「親の死で動揺して正常な判断ができなくなっているところに、これまた卑怯な手を思いついたものだな」
「でも!」
「親父は君の両親が亡くなった四日後に、交通事故で死亡している。どうやって初七日の翌日に、借金取りをけしかけられるんだ?」
稲妻に貫かれたような衝撃が、麻理子の全身に走った。
「その借用証は確かに本物だったろうが、印鑑はすべて勝手に押されたものだ。当時、嶋田氏は新しい工場の立ち上げを考えていて、親父に融資を申し込もうとしていたところだった。だが、不手際が寸前で見つかり、一時保留状態だったのさ。不手際を起こしたのは嶋田氏の弟……、君から見て叔父の康佑だ。嶋田氏と違ってできもしない事業に手を出しては失敗し、この時も嶋田氏から任されたそのプランの実行段階で、用意されるはずだった土地を用意できなかった。地主への挨拶をすっぽかしたためだ」
「そんな事が……」
「何故大事な新規事業の一部分を、そんな弟に任せようと思われたのかわからない。とにかくその不完全な借用証を、君の家から財産を奪うために利用したんだろう。佐藤グループの方では嶋田氏と親父の死亡で立ち切れと判断され、破棄処分となっている」
「叔父の手元には残っているのでしょうか」
「残していただろうがもうないだろう」
偽物とばれた以上、そんな危険なものを残すわけが無い。麻理子が振込みをしていた口座も抹消されているかもしれなかった。通帳はあっても存在しないと言い逃げされる可能性のほうが高い。最悪銀行も、嶋田親子となんらかの繋がりがあると見たほうがいい。
「でも同じ社名と代表取締役で口座開設なんて……」
「住所を変えれば可能だ」
信じたくない思いで、麻理子は胸がいっぱいだった。
「叔父は知りませんけど、勇佑お兄様は父から秘書を任されているほど、優秀な人でした。そんな悪事に加担するなんて信じられません」
「それがすべて偽りだったとしたら……?」
貴明は勇佑を知らないので、遠慮なく麻理子の希望を叩き潰していく。
「借用証のありかを、秘書をしていた勇佑なら知っていたはずだ」
麻理子は唇をかみ締めて俯いた。
「僕は、君の両親は殺されたのだと推測している。親父も怪しんでいたらしい。あの親子は君に恩を売り、婚姻を断った君を邸から追いやって、嶋田家の財産を我が物にしたんだ」
「でも……っ。その時弁護士は適正に処理されたと!」
「そいつもグルだったら? 弁護士にもいろいろいる」
涙が出そうになるのを麻理子は懸命にこらえた。嘘であって欲しいのに、くすぶっていた疑念が貴明の言葉と同化して、それを真実に変えていってしまう。貴明にしてみれば、偽造書類など放っておけるわけがないし、麻理子のひたむきな思いを踏みにじり、骨までしゃぶりつくそうとする悪党共をすぐに処分したいくらいなのだ。
それでも麻理子は優しい勇佑を信じたかった。幼い頃から勇佑はずっと麻理子の頼れる従兄であり、父親も信頼していていた。アパートに移り住んでからもたびたび助けてくれた。インテリアやデザインの勉強も融通してくれたし、いい就職先も探し出してくれた。
「勇佑の誤算は、麻理子がうちに面接に来て採用された事だったろうな。どうやって求人募集を知った? 職業安定所には出さないし、一般には出回らないんだが」
「……園子の友人の紹介です」
成る程と貴明は納得した。メイドの求人はナタリーが行っていた。募集は欠員が出た場合のみ行われ、メイドたちの紹介状がなければ面接はできない仕組みになっていた。
「一体あの女とどういうつながりなんだ? 麻理子と違うタイプだろ?」
「園子のお母さんが、私の通っていた服飾学校の経営者だったんです。気に入っていただいてて、お邸にも呼ばれてました」
「君は年を召したご婦人を篭絡するのが上手なんだねえ。まあいい。勇佑はどうせ落ちるだろうと思っていたところを採用されたから、焦ったろうな。それで佐藤の家の悪口を吹き込みまくったのか」
「……先代以外はほぼ事実でした」
「それは否定しない」
しれっと貴明は言い、一瞬頬を緩めたが再び難しい顔に戻った。
「勇佑は君を殺す気だ。外に出たらまた狙われる、あの日のように……」
「……ええ」
「この件の決着が付くまでは、必ず誰かと行動しろ。外出は禁止だ」
外出禁止は当然だと思われた。
しかし、麻理子はまだ心の奥底では納得していなかった。ひょっとして財産を奪おうとしたり、殺そうとしたのは勇佑を装った何者かではないかと。
優しかった勇佑を思い出すたび、麻理子はその思いを強くしている。だがそれを今、貴明に言う気にはなれなかった。
「結婚式までには決着をつける予定だ。頼むからおとなしくしててね」
貴明はそう言い、手を伸ばして麻理子の両手を自分の大きな手のひらで包み込んだ。