天使のキス ~Deux anges~ 第31話

 麻理子。

 優しい声は父の三郎だった。リボンのついた制服を着た高校生の麻理子は、庭に面したテラスに居る三郎に呼ばれて、お茶がセットされた白のテーブルについた。

 三郎はご機嫌だった。

「麻理子は昔、白馬の王子様と結婚すると言っていたが、今でもそうかな?」

「いやねお父様は。もうそんな夢を見る子供じゃないです」

「勇佑と結婚するということかい?」

「まあ! お兄様はお兄様であって、旦那様には考えてません!」

「そうか、やっぱり王子様を待っているんだねぇ」

 茶目っ気たっぷりに目をぱちぱちとさせ、三郎は笑った。

「叶うかもしれないよ。王子様みたいな男性は幾人かは存在するのだからね」

 おかしなことを言うと麻理子は思い、首を傾げた。三郎はニコニコと笑っている。

「昔、華族だったとは申しましても、今は普通の家でしょう?」

「ははは。現実主義だね麻理子は。そういう本物の王子ではない。そういった方々とはうちは交流はないからね」

 謎掛けのように言われ、ますます麻理子はわからなくなった。答えを知りたいのにそこへ母の美代子が来て、麻理子の胸にもやもやを残したまま、話題は別のものになった。

 

 目覚めた麻理子の目に入ったのは、薄いピンクの花柄模様の壁紙に、紗の入った白の布だった。頭が痛むのは、嗅がされた薬品のせいだろう。

 誘拐された割にはいい部屋で、しかも見覚えがあった。

 まさかと起き上がり、天蓋のカーテン越しに見たのは、かつて麻理子が住んでいた部屋だった。

「私……」

 ノックの音がして誰かが入ってきた。その男を麻理子は知っていた。

「和紀さん」

 亜美の兄の和紀は、水の入ったグラスをトレイに載せていた。北海道で会った時よりも心持ちやせていて、妙に目つきが鋭かった。北海道での暴行未遂を覚えている麻理子は、身を硬くして警戒したが、和紀は麻理子に襲い掛かる気配はなく、グラスを差し出した。

「喉が渇いているでしょう?」

 麻理子は警戒を解かないまま、差し出された水を無言で飲み、空になったグラスを返して尋ねた。

「ここは私の家ですが、どうして貴方がいらっしゃるんです?」

「肝が据わった人ですね、相変わらず。私がここへ貴女を誘拐させたからですよ」

「貴方が?」

「正しくは言いつけられて、ですが」

 和紀は近くの椅子に座り、足を組んだ。

 麻理子は、はっとした。

「子供が二人、車に乗り込んだはずだけどっ」

「乗ってませんよ。ガードマンが引き剥がしたそうです。こっちとしては余計な人間に手を煩わせられませんし、助かりました」

「どうしてこんなこと……、そうだわ、お兄様の具合はどうなの?」

「勇佑氏の手術ですか? あんなの病気のうちにも入りませんよ。腕のできものを取っただけです」

「でも面会謝絶だったって……」

「……うちの亜美は、ポーカーフェイスが全然できない。それを利用しました。どうせうっかり貴方に漏らすだろうとね」

「漏らす?」

 和紀は妙に疲れた顔でうなずき、大判サイズの古びた封筒を麻理子の前に差し出した。訝しく思いながら受け取った麻理子は、中から出てきた物を見て驚愕した。

 上等な革の表紙に包まれた冊子と、一枚の用紙。

「貴女をおびきよせるために亜美を利用しました。まんまと引っかかりましたね。貴女は身内の事になると感情的になってしまうらしい」

「じゃあお兄様は元気なんですね」

「おまけに頑固なまでに人を信じてる。あの男が現実を隠そうと必死なわけだ」

 和紀の目がきらりと光った。

「貴女はどうして、自分がこんな不遇な目に遭ってるか、本気でわからないのですか? 貴女を地獄に突き落とした張本人は……」

「佐藤貴明だ」

 和紀が名前を言おうとしたところで、もう一人男が入ってきた。左腕に包帯をまいた勇佑だった。

 勇佑は顎で和紀を部屋から追い出し、麻理子はそんな二人をぼんやりと見ていた。夢を見ている気がする。

 扉が閉まると、勇佑は麻理子に振り向いて、にっこり笑った。

「元気そうで安心したよ麻理子。佐藤貴明がまったく君に会わせてくれないものだから、手荒な真似をして悪かったな」

 変わらない笑顔なのに、何かが、麻理子に警戒を呼びかけた。

「お兄様、どうして和紀さんに頼んだの? あの人は私を北海道で私を襲ったのよ。そんな人に任せるなんて……それに、」

「それなら問題ない。あれは佐藤貴明にけしかけられて、しぶしぶやったんだ。己をよく見せる常套手段だ」

「…………」

 ベッドの脇に腰をかけた勇佑が、いとおしさを込めて麻理子の頬を撫でようとするのを、麻理子は後ろに身を引いてかわした。

 勇佑はむっとした。

「麻理子は今、君にふさわしい天国にやっとたどり着いたところなんだ。喜ぶべきだ」

「私は……」

「もう、佐藤貴明のところへは返さないから、安心しろ。危ないところだったぞ」

「どういう意味ですか?」

「あいつは人を騙す天才だ。いかにも君を愛していると行動して、君から何もかも奪おうとしていた」

「私に奪うものなんて……」

「あるさ。この家の財産。SHIMADAの経営権。新たに発掘した地権者や政治家とのパイプ。紙切れが黄金の棒に変化した有価証券。何より君自身だ」

「私にそんなものはありはしません」

「あるんだよ。我々がずっと預かって護ってきた。それをあいつは横取りしようと脅しをかけてきたんだ」

 勇佑は辛らつに言い放ち、麻理子を胸に掻き抱いた。

「あいつは危険な男だと言っただろう? それなのに麻理子は、私の警告を聞かずに婚約したんだ。何故あいつがこんなに結婚を急いだと思ってる? 君の持っているものを、一刻も早く手にするためだぞ」

「そんな……」

「あいつがいままでしてきた悪事を言ってやろう」

 勇佑は麻理子を離し、楽しげに口元を緩めた。

「今、君たちの家に住んでる、小山内恵美という女性。佐藤貴明は、高校生の時からストーカーのようにつきまとって、抵抗する彼女を無理やり己のものにしたんだ。逃げようとした彼女を、義父と組んで佐藤邸に監禁し共有までした。途中で己一人だけのものにしたくなって、自己所有のマンションへ誘拐監禁、これは逃げられて、再び彼女は佐藤邸へ監禁されてる。以後、彼女は義父の圭吾の物になって、彼が死亡するまで監禁は続いた。小山内さんはずっと隠れて暮らしていたけど、運悪く佐藤貴明の兄に見つかって、再び監禁されているわけだ」

 麻理子は勇佑から話を聞いている最中で、だんだんと顔色が悪くなっていくのを止められなかった。

 そんな麻理子に、信じられないだろうけど、真実は言わなければならないからねと、勇佑は辛そうに言った。

「社長になった佐藤貴明は、幾社も潰しては己の会社に吸収合併させた。だからあんなにガードマンが必要なわけだ。彼を殺したいくらい憎んでいる人間は多い」

 麻理子の額に汗が滲み出した。心にひびが入り、きしむ。

「彼の母親も酷いものだ。己たちの財産をチラつかせて、息子の妻を有力者の令嬢たちから募集をかけて集め、彼女たちから家業の情報を吸い取って、己のものにしていったんだ。この間、無理にやめさせられたメイドが、数人いただろう? 彼女たちの実家の会社が先日倒産したのは、佐藤貴明が潰したんだ」

「お兄様……わたし……」

「最後まで聞きなさい。そしてついに君に目をつけたってわけだよ。男を知らない君なんて、彼にしてみたら、オオカミの前に現れた仔兎のようなものだ、甘い言葉と身体を与えてうまくたらしこんで、君に付随している財産を吸い取り、用がなくなったら捨てるつもりなんだぞ」

 麻理子はたまらなくなって、涙を零した。辛くて悲しくて、人前だというのに止められない。

 こんな酷い話があるものだろうか。

 こんなに辛い現実を突きつけられたのは、両親の亡骸を見た時以来だ。

「泣いてしまったのか? 大丈夫だ。これからは私が幸せにしてあげるから」

 麻理子は激しく頭を左右に振った。

 違う。

 違う、こんなふうに身の潔白を言ってもらいたかったのではない。

 涙は今まで押さえ込んでいた感情と共に溢れ、酷い嗚咽と共にとまらない。

「おと……さまと……っ、おか……は?」

 はっとしたように勇佑が目を瞠るのを、麻理子は涙に包まれた目で見た。

「……お二人とも、やはり佐藤貴明に殺されたんだ。当時、私は秘書をしていたからよく覚えている。あいつは、父を利用してわざと計画を頓挫させ、SHIMADAを買収しようと義父に持ちかけ、圧力を掛けさせたんだ。そのくせ借用証は正式なもので、取り返そうとしたんだが返して貰えなくてね。さまざまな圧力に耐えかねてお二人は自殺されてしまった。そこまでさせておいて、佐藤貴明は、今度は君にない借金を取立てをしたりした。顔かたちは天使なのにあの男は悪魔の化身だ」

 麻理子は聞きたくなかったが、両親の為に真実を聞かねばならなかった。

 涙はいよいよ止まらない。

 神など、この世にいないのではないだろうか。

 こんな目に遭うほど、己が一体、なんの罪を犯したというのだろう。

「お兄様……」

「もう大丈夫だ。君の部屋はもう君のものだ。婚約なんていつでも破棄できるから安心したらいい」

 変わらぬ優しい勇佑の声は、今までなんどとなく麻理子を救ってくれた。

 麻理子は涙を拭き、勇佑に笑いかけた。

「お兄様は私が好きなのですか?」

「当たり前じゃないか」

「……だから、ずっと一人でいらしたの?」

 やっとわかってくれたのかとばかりに、勇佑は顔中を歓喜で輝かせた。

「ああ……、ああ! そうだよ麻理子。私はずっと君が好きで、愛してきたんだ。君ほどの貴婦人は世界中を探したっていない……!」

 勇佑は麻理子の右手を両手で包み、口付けた。その姿は貴明に似ているようで、ちっとも似ていなかった。こんな時にまで貴明はしゃしゃり出てきて、麻理子の心をかく乱する。

 自分の心にも、現実にも、麻理子は目を背けるわけにはいかなかった。

「……だから、お兄様は、お父様とお母様を殺したのですか?」

 勇佑の笑顔が凍りついた。

「な、何を言ってるんだ麻理子。今の私の話を聞いてなかったのかい?」

「お願いお兄様。私、お兄様を憎みたくないんです……。これ以上、罪を重ねないで……お願い」

 麻理子は先ほど、和紀に渡された封筒から、一枚の用紙を取り出した。それは佐藤圭吾と嶋田三郎が交わすはずだった、借用証だった。

 勇佑の顔つきががらりと変わった。

「これを……どこで!」

「和紀さんから渡されました」

「あいつ……っ!」

 麻理子は涙を流しながら、押印されている実印をなぞった。

「お兄様はご存じなかったのね。……うちの実印は何かがあった時の為に、私が預かっていたんです。今、お兄様は正式なものだったとお話しになったけれど、貴明様がおっしゃったように未完成のものだったのね。字は父のものだけど……実印は、違う。この借用証は本物だけど、父から盗んだ印鑑で押印して完成させたのは、秘書だったお兄様でしょう?」

 勇佑がとっさにそれを破ろうとするので、麻理子はすばやく自分の背後に隠した。

「お兄様……どうして、二人を殺したの。私を愛しているのならどうして?」

 口調は責めていなかった。麻理子の心は責めるほど今は強くなれなかった。信じていたいと無理に願った罰なのか、強い感情は彼女の心を強く責めているのだった。

 勇佑は、そんな麻理子の肩をぐいと乱暴に掴み、顎に手をかけた。その目には、今まで見たこともない狂気が潜んでいた。

「こんなに麻理子を愛しているのに、三郎伯父は麻理子との結婚を拒否したからだ!」

「…………拒否……」

「そうだ。ずっと私は叔父に願い続けてきた。君が高校を卒業したら結婚させてくださいと。うなずいてくれていたくせに、ある日それはなかったことにしてくれと、伯父は言ったんだ。期待させておいて、こんな手ひどい裏切りがあるか!」

 麻理子は俯いた。両親を殺させる、勇佑のトリガーを引かせたのは、紛れもない自分だった。

「お兄様。ごめんなさい。それは私が、お兄様との結婚は考えられないと、言ったからなのです」

「…………」

「私にとって、お兄様はお兄様以上にはなりません。だから……」

 何よりも自分を愛してくれた三郎を思い、麻理子はこれが自分の罪なのだと思った。

 勇佑を愛せていたなら、こんな悲劇は起こらなかった。

「嘘だ。麻理子はそう思うように誘導されたんだ。君は世間知らずのお嬢様だからな。だから、私は君を救いたくて、伯父の好きなワインに毒を混ぜた。やっと邪魔者が消えたのに君は意地を張って、借金を返す道をえらんだりした。でも、もう何も邪魔をするものはないんだ。だから素直になれ」

 麻理子は母を求めて泣く、迷い子のように泣いた。  

「麻理子。どうして泣くんだ! もう自由なんだぞ……。君を殺そうとしたのを怒ってるのか? あれは佐藤貴明が私と偽って、殺させようとしたんだ。あんな男から離れられて喜べよ! 麻理子っ!」

 泣く麻理子をなだめようとした勇佑の背後で、扉がいささか乱暴に開けられた。

「もう観念したら? 嶋田勇佑さん」

 入ってきたのは雅明と和紀と、捜査令状を持った警察官たちだった。手錠を掛けられた康祐もいる。 警察官が、捜査令状を掲げながら言い放った。

「嶋田勇佑、文書偽造と殺人罪、および殺人未遂罪で逮捕する。観念しなさい。父の康祐も殺人ほう助で逮捕された」

 勇佑はうろたえた。

「な……っ、何を言ってる。そうか、佐藤貴明の罠なんだなっ。麻理子、あいつはこんなに悪い男なんだぞっ」

 警察官が二人、つかつかと歩いてきて暴れる勇佑を押さえつけ、手錠をかけた。勇佑は惑乱し、無実を叫んだが、康祐は罪を認めたようにうなだれている。勇佑は麻理子の名前を叫び続けたまま、外へ連れ出されていった。

 麻理子は涙が止められないまま、震える手で借用証を見つめ、革につつまれた冊子を抱きしめた。

「麻理子さん、だから何もかも貴明にまかせておけばよかったんだよ」

 雅明が労るように言った。和紀が横で深いため息をついた。

「こんな共犯はお断りですね。嫌な頼まれ事です。亜美にもどれだけどやされるか」

「和紀。病院の悪評を止めるために、協力を惜しまないといったのは誰だ? 君の病院を潰すための、刺客の医師を見つけ出したのは貴明だ」

「そうかもしれませんが……」

 つかつかと聞き覚えのある足音が近づいてきた。

「麻理子……」

 麻理子はぎくりとして、顔を上げた。

 貴明が、ベッドのすぐ脇に立っていた。

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