天使のキス ~Deux anges~ 第33話(完結)
結局、麻理子達は、翌日の夜まで嶋田邸と警察署に留められた。和紀は勇佑の精神鑑定に立ち会っていて、三人と共に行動しなかった。北海道の件は、麻理子が表沙汰になるのを認めなかった上、ヤクザ者がどこのチンピラか確定できなかったため、水面から出ずに終わりそうだ。
精神鑑定をされる勇佑の代わりに、父の康祐が犯行を語ったと、取調べを担当した刑事が三人に説明してくれた。麻理子の家族や婚約者だった女性の他にも、会社関係でいろいろと余罪があるのだという。
勇佑は有名大学の出で、それなりにエリートだった。人望も厚く、だからこそ三郎が目をかけていたのに、三郎夫妻の殺害と同時に転落の一途をたどっていったのだった。
自分のせいだと言う麻理子に、貴明がきっぱりと言った。
「いいや。勇佑のせいだ。愛する女が手に入らない辛さはよく理解できるけれど、やってはならないことを彼はやった。お前の愛する両親を殺すなど、本当にお前を愛していたのなら絶対にできるわけがない。彼は自分で破滅を選んだんだ」
「そーそ。自分が一番可愛いという、愚かな人間の典型だ」
雅明が同意したが、麻理子はそれでもと思う。勇佑のおかげで救われた、数々の思い出があるのも事実なのだ。
真夜中にようやく開放され、麻理子たち三人は使用人たちに見送られて、嶋田邸を出た。
麻理子が家を出てから新しく雇われた使用人たちは、雇い人が居なくなって雇い止めにならざるを得ない。そこは貴明が次の職場を斡旋すると言ってくれた。
麻理子は振り返って嶋田邸を見ようとしたものの、雨雲に月が隠されておぼろげにしか見えず、改装の具合はよくわからなかった。
見なくてもいいという、父の三郎の意思かもしれなかった。
お金も税金もかかるが、麻理子は近いうちに嶋田邸を取り壊して更地にするつもりでいる。思い出が心にあるだけで十分だった。
雅明のスカイラインの後部座席に、貴明と麻理子は並んで座った。嶋田邸から佐藤邸は、高速で一時間ほど離れている。一般道から高速へ入った頃、黙っていた貴明がようやく口を開いた。
「SHIMADAは、今の社員たちでやっていくことになりそうだが、経営はどうする?」
「私にはそういうのは向いておりませんわ。オーナーとしてなら名を連ねますけれど……」
「そうだね。それがいいね。他の重役はいい人材が居て、その人たちのおかげでSHIMADAはなんとか存続できていたようだから、うまくやっていくだろう」
「そう望みます。明日にでも挨拶に行きましょうか」
「うん。いきなりトップが消えたから、説明の必要もあるだろう。一人で大丈夫?」
「みどりが一緒なら、なんとか」
「数人影につけておくよ」
「お願いします」
貴明はうなずき、とても疲れているのか、背もたれに寄りかかって目を閉じた。麻理子も眠くてたまらなかったが、なんとか眠らずにいようと、必死に前を見た。
「寝たらいいのに」
雅明が言った。彼は昼に仮眠をしていたので眠くない。
もう貴明は寝息を立てている。狸寝入りではなくて、本当に眠っているようだ。
闇の中でネオンが輝いており、それを頬に浴びながら麻理子は雅明に礼を言った。
「いろいろしてくださって、ありがとうございます」
「礼には及ばない。結婚式までに決着をつけたかったから、結局麻理子さんに協力してもらう形になった。かえって謝罪したいくらいだけど」
「いいえ。私、お兄様や叔父様がああなってしまわれて、それはとても残念ですけれど、それでもこうしていられるのは、雅明さんや恵美さん……ううん、皆さんのおかげですから」
バックミラーの雅明は、イエローグラス越しに目を細めた。
「……身内に裏切られるのはたまらないから、逃げ出したくなる。かと言って、他人に任せるともっと辛い。でも、麻理子さんなら乗り越えられると、貴明も私も判断したんだ」
「認めて下さったってわけですね。ありがとうございます」
照れくさいのか、ハンドルを操作しながら、雅明はばりばりと頭をかいた。
「ま、佐藤家でやっていくには、ナタリーなみに鋼鉄の心臓がいるからな。さらに言うと、貪欲な一方で、人一倍惜しみなく持っているものを与えられなきゃいけないし、人よりも理不尽に頭を下げる忍耐も必要だ。なかなか難しいのさ」
「それってそんなに難しいのですか?」
「麻理子さんには普通でも、他の令嬢方には難しかったみたいだな」
富の独占は、嫉妬や憎しみを生む。それゆえ佐藤グループは、福利厚生が充実した給与体制を貫いている。また、部下の行動に責任を持てない管理職は、すぐに閑職に回される仕組みになっていた。
「当たり前じゃありませんか。利益を皆に分配し、目下の人間を育てるのは……」
「うんうん。ナタリーが見込んだだけあって、立派に貴明の嫁に向いてるよ。その調子で、恵美さんにも私を強く勧めて欲しいね」
「それとこれとは話が別です」
つれなくかわされ、雅明は、冷たいなあと残念がった。
その会話のあと、眠気にどうしても勝てず、麻理子は眠りの底へ引き込まれた。
また夢を見た。
勇佑に勉強を教わっている小学生の時。夏休みに海へ連れて行ってもらって、泳ぎを教えてもらって楽しかったこと。中学生になったときに、高価な万年筆をプレゼントしてもらいとてもうれしかったこと……。
いきなりそれらは闇に飲み込まれた。
この先を見てはいけない……。
夢の中で思った瞬間、麻理子は揺り動かされて目覚めた。
「麻理子、邸に着いたよ」
麻理子はにじむ汗を自覚しながら、ほっとして貴明にうなずいた。ドアを開けてもらって車を降り、隣を歩く貴明をちらりとみて、もう大丈夫だと安心した。
しかし。
当分の間、この事件を思い出して、こんなふうに苦しむのだろう。
両親を殺した従兄なのに、麻理子はどうしても勇佑を憎み切れなかった。親の敵を憎みきれない為、上回る悲しみを乗り越えるには、こうやって苦しんで浄化していくしかない。
「節電は必要だけど、プライベートスペースのこの部分だけは止めておくかな。怖がりな人が居るし」 貴明が突然言い、意地悪く笑った。
それだけで憂鬱なものは吹っ飛び、麻理子は通常運転に戻った。
「必要ありません。私は怖がりじゃないですから!」
「そこの角、前に首なし幽霊が夜中に立ってたの見たよ」
「きゃあっ!」
とっさに貴明にしがみつく麻理子に、貴明が嘘嘘と笑ったので脱力したが、なんだか愉快になって二人で笑った。
こう言う慰め方は嫌いではない。
だから、貴明の部屋へ入った途端、麻理子は貴明の背中に思い切り抱きついた。
「貴明……っ!」
「どうしたの子供みたいに」
その声はとても優しい。貴明は時々子供になるけれど、同時に父親にもなってくれる。恋人とはそういうものだとつい最近麻理子は知った。
貴明はわかってくれている。
麻理子が言わなくても、今の麻理子の苦しみを、貴明は黙って受け止めてくれる。
引き合わせようとしてくれていた父に、麻理子は深く感謝した。
翌日は貴明が休みにしてくれていたので、麻理子は午後の三時ごろまで寝ていた。貴明はいつもどおりに起きて出勤しているらしく、その役目大事の精神力に頭が下がった。
珍しく恵美がやって来てくれて、麻理子に遅い昼食を作ってくれた。昨日の子供のお菓子の礼だという。
「本当に大変だったと思いますけれど、これからがもっと大変だから、頑張ってくださいね」
恵美が日本茶をいれてくれながら、食事をする麻理子に微笑んだ。
勇佑の事件に触れてこないのが、とてもありがたい。
この辺の気遣いができるあたりが、貴明を夢中にさせたのだろう。
「恵美さんも、雅明さんと仲良くなさってください」
「ええ? 何であんな奴と……っ」
顔を真っ赤にするのは抱かれたせいだろう。その時のことを思い出しているのだとしたら、申し訳ないなと麻理子は思ったが、そんなつもりで言ったのではないので謝らなかった。
近くに控えていたみどりが、おかしそうにふきだした。
恵美が気の毒になり、麻理子は話題を変えた。
「披露宴には出てくださらないのですか?」
「モトカノが出るのはさすがに……ね。貴明の為にも、麻理子さんの為にもならないし」
「そうですか」
残念だが、それは恵美の言うとおりだった。見世物になってしまうのは間違いない。
「でも、お祝いをする気持ちは人一倍あるわ。本当にうれしくて!」
「ありがとうございます」
「うっふふ。貴明ってば、絶対にでれでれしちゃうわよー。鉄化面で隠しても無駄だと思うわ挙式の日は」
あっさり想像できるのか、恵美は一人でくすくす笑う。麻理子はまだそこまでつきあいがないのでわからないが、白の礼服を着た貴明は、いつもに増して凛々しい美しさで惚れ惚れするだろうと思った。
「新婚旅行はヨーロッパなんですってね」
「ええ、ギリシャに」
「そうなんだ。私も行きたいところだったわ」
夢見るように恵美が目を和ませた。そこはかとない悲しみが垣間見え、麻理子は不思議に思ったが、それは本当に気をつけていなければ見えないもので、すぐに消え、元の明るい恵美に戻った。
とんとんと扉をノックする音がして、メイドの一人が顔を出した。
「恵美さん、お子様がお帰りよ」
「あらいけない。じゃあみどりさん、お片づけだけお願いします」
みどりが笑顔でうなずくのを横目に、麻理子は文句を言った。
「こちらへ来てもらったらよろしいのに」
「駄目ですよ麻理子様。お食事が終わってませんから」
「そういうこと。また後で伺います」
恵美は頭を下げて、部屋を出て行った。
麻理子は食事を終えると、外出の支度をした。これからSHIMADA本社へ行って、起こった事件の説明とこれからについて話さなければならない……。
結婚式までの数日間は、あっという間に過ぎた。
貴明は相変わらず仕事をしていて、麻理子は式の準備やその他もろもろで忙しかった。
お互いゆっくり話し合う暇もない。
おかげで麻理子は、マリッジブルーや事件について、あまり思い煩わずに済んだ。
結婚式当日は、晴れ渡っている割には風が涼しい、過ごしやすい日だった。
貴明の部屋で眠っていた麻理子は、ピアノの音で目覚めた。
目をこすりながらベッドを降り、隣の部屋へ入ると、置物だと思っていたグランドピアノで貴明が鍵盤を叩いていた。
「おはよう、麻理子」
「おはようございます。とても上手ですね。このピアノ、飾り物だとずっと思ってました」
「調律はしてもらってたけれど、しばらく弾いてなかった……」
バロックの繊細な旋律を奏でながら、貴明は麻理子を見て微笑む。
「五歳のときからずっと習ってた。何回かコンクールで入賞したけど、仕事を始めた時に止めた。ピアニストになれるわけでもないしね」
幼い頃から、佐藤グループの後継者の第一候補として生きてきた貴明の、慰めの一つだったのだろう。
麻理子はピアノをBGMにして、朝食を並べ、配膳が終わると貴明の隣に立った。
「麻理子は弾けるの?」
貴明は鍵盤から手を離さないまま、麻理子に聞いた。
「私? 全く弾けません。聞く方が好きですね」
貴明はにっこり笑った。
曲調が変わり、近代的な旋律に変わった。
麻理子の聞いた事の無い曲で、流れる雲のように晴れ晴れとした感じの短い曲だった。
「なんて言う曲ですか?」
「麻理子をイメージして今作った。また弾いてあげるね」
「まあ」
貴明は、朝食が冷めるからと早く食べようかと言って、静かに鍵盤蓋を閉じた。
朝陽が差し込むカーテンを開けると、夏の暑い陽差しが顔に当たりとても眩しい。だが、天にまで祝福されている感じがして、麻理子はとても幸せな気分になった。
そのまま振り向いた麻理子を見て、貴明は満足そうに腕を組んだ。
「麻理子が光の中に立ってるから、天使になっちゃったのかと、びっくりした」
「私が天使でいられるのは、貴明が一緒だからです」
「悪魔な僕を、毎日救ってくれる?」
「お互い様ですね」
貴明の茶色の瞳が、切な気に揺らめいた。
麻理子は思い出していた。麻理子にとって、初めて貴明に出会った面接の日を。
光の天使は本当に存在するのだと思った。
冷たい眼差しが一瞬緩んで覗かせたあの優しい顔……。あれはまぎれもなく貴明の素顔だった。今ならわかる。
その一瞬が、きらきらと輝いて眩しい程だった。
あの貴明が、今自分の隣にいる。
数時間後には自分の夫として………。
肩に貴明が手を回してきた。眩しそうに麻理子を見つめながら、貴明が甘く囁いた。
「生身の天使を捕まえたのは、僕ぐらいだろうな」
「私だってそうです」
貴明の顔が近づいてきたので、麻理子は目を閉じた。
唇が重ねた後、二人は微笑みあう。
窓を開けると、爽やかな風が入ってきて、庭の木々が優しくざわめいた。
朝食が終われば、すぐ支度をしなければならない。
明るい陽差しは、幸せそうな二人を祝福し続ける……。
【天使のキス ~Deux anges~ 】 終わり