天使のかたわれ 第01話
昼食を作り終え、恵美は外で遊んでいる子供を呼んだ。
長女で小学生の美雪(みゆき)からはすぐに返事が返ってきたが、五歳の長男の穂高(ほたか)の声が聞こえない。庭に面した和室から縁側に出てみると、前の道路で、ボール遊びを一人でしている声がする。
「穂高ー。家へ帰ってきなさい!」
返事はない。ボール遊びに夢中で、恵美の声は聞こえていないらしい。恵美は仕方なく玄関を降り、外へ出た。
「穂高ー?どこ行ったの?ご飯ですよ」
「僕ここー!」
ようやく、穂高は恵美の声に気づいたようだ。
小さな門を出たところで、恵美は、いつも家人が不在で、空き家だと思っていた家の前に立っている男に気づいた。
(嘘……!)
その男を見た瞬間に、周囲の時間が止まった気が、した。
それは男も同様らしく、恵美を見て目を見開いた。
後ろから美雪が走ってきて、恵美の横に立つ。穂高はやっとご飯かと言いながら、恵美に駆け寄ってきた。そして、呼びに来たくせに家へ入ろうとしない恵美を不思議そうに見上げた。
「どうしたの? おかあさん」
穂高の声は恵美の耳に入っていない。
目の前の男の存在が異質すぎて、それどころではないのだ。
黙って男と恵美は見つめあう。
「貴明、あんたどうしてこんな所に」
知らずに声が震える。
五年前に別れた、今はいい友人の貴明こと、佐藤貴明(さとうたかあき)は、東京で佐藤グループという大企業の社長をしていて、こんな田舎にいるわけがない。
それなのにこうして目の前に立っているのだから、気が動転して当たり前だった。
じっと恵美を見ているだけだった男は、その恵美の問いにかすかに微笑んだ。
ようやく止まっていた時間が流れ出す。
「貴明は弟です。私は、彼の兄で石川雅明(いしかわまさあき)と言います。この家は私の家なんです。とは言っても二十年以上留守にしておりましたが」
右手を差し出されて、恵美は戸惑った。
よく見ると目の前の雅明は、髪の色も銀色で、貴明よりも繊細な面差しだ。まったく違う。
それにしても、こんなに近くに彼のゆかりの家があるとか、どういう巡り会わせだろうか。
「雅明……さんですか、失礼しました。私は小山内恵美(おさないめぐみ)といいます」
恵美は、ぎこちなく雅明と握手した。
ぽかんとしている子供達に、雅明は親しげで優しい笑みを向けた。
「ちょっと家に上がっていかれませんか?そちらのお子さん方とご一緒にどうぞ」
とてもその気になれなくて恵美は断ろうとしたが、子供たちは以前からこの家を気にしており、恵美の返事を聞く間もなく、家の中へ飛び込んでいく。
「わーい! 謎の幽霊屋敷に潜入だー!」
「姉ちゃんずるい! 僕も!」
こうなったら仕方がない。
「あ、じゃあ、少しだけ」
握手したまま、雅明が手を離してくれないので、恵美は困った。雅明は人好きのする笑みを浮かべて、ニコニコしている……。
子供達は幽霊屋敷に入れて大喜びだが、恵美はとても喜べない。動揺しまくりで心臓バクバクだ。
「ぎゃーっ! おじちゃんの馬速すぎるうっ」
「ちょっと穂高早く代わって! 私もおじさまの馬に乗りたい!」
子供を背中に乗せて、縁側を猛スピードで四足で走るなど、貴明ならば絶対にありえない。この怪しい雅明という男は、子供の扱いにかなり慣れているようだ。どうしても貴明と比べてしまうから違和感がありまくりで、とにかく気持ちが悪い。しかし、子供達をこの怪しい男の元に置いて、自分だけ帰るわけにもいかない。恵美は、座敷の隅っこで遊びまくる三人を見ているしかなかった。
一旦昼食を取るために家へ戻ったものの、すぐに子供にせかされてここへ戻ってきてしまった。
(は……疲れちゃった。横になりたいなあ)
夫の正人が病気で亡くなってから、ひたすら一人で子育てしてきたが、やはり行き届かないところが多い。ご近所がいい人ばかりで助かってはいても、やっぱり家族のように相談できる相手が欲しい。
(私って、結局一人じゃなんにもできないのかも。情けないな)
頬を触ると、なんだががさがさだ。最近あまりよく眠れていない。子供達とのこれからを思うと、不安で胸がいっぱいになってきてしまう。美雪の学校では、さまざまな探りが入っている。自分の過去がばれるのも、時間の問題だろう。
(貴明の迷惑には、なりたくないのに)
「横になりますか?」
怪しい怪しいと思っている男にまん前から覗きこまれ、恵美はこれ以上はないほどびっくりした。
「は……? あの、子供達は」
「遊び疲れたみたいで、寝てしまいました」
いつの間にか布団が敷かれていて、そこで美雪と穂高が大の字で寝ていた。時計を見るとかなりの時間が経過している。そうとう長い間、恵美はぼんやりとしていたようだ。子供達が寝そうだと教えてくれたら、家につれて帰ったのにと恵美は思ったが、ぼんやりしていたのは、自分なのでさすがに言えない。だけど出会ったばかりの人間に、ここまで世話にはなりたくないというのが本音だ。
「すみません、じゃあ一人ずつつれて帰りますので」
「かまわないんですよ私なら。一人暮らしで誰も来ませんし」
「いえ、そういうわけには……」
「夕食も作ってありますからね。大量に作って困ってたんです」
「でも……」
「さあさあこっちに来てください。お茶を出しましょう」
帰りたいのに、結局恵美は雅明に引き止められた。雅明がお茶の湯飲みを手渡してくれたが、恵美はひたすら帰りたい。もう夕方だし、外は暗くなってきている。洗濯物は今日は洗う日ではないので心配はないが、こんな事になるのなら干しておけば帰る口実になったのに。じろじろと、おもしろそうに自分を見る男の目がとても不愉快だ。雅明はお菓子を座卓に並べると、何故か恵美の隣に座った。
「ふふふ、貴明から聞いてはいたけど、本当にそのまんまですね恵美さんは」
「何を聞いていたんですか?」
「勝気で怒りっぽくて、日本人の中でもとびきり背が低くて、そのくせ胸がでかいって」
「はあ!?」
なんて事を言っているんだと、恵美は貴明を呼び出してどつきたくなった。同時に、明らかにおもしろがっている雅明も許せない。さっきから舐めるように自分を見ているのは、そういう意図か。もう我慢がならない!
「帰ります」
「まーまー。まだ序の口ですって。それでね貴明はね」
「もう貴明の話はいいです!」
「うんうん、私もそう思う」
綺麗に笑うその顔は、貴明にそっくりだ。双子だというから当たり前だろうが、こんな白髪みたいな銀髪に言われると、さらにむかつく。いやいや髪の色は関係ない。貴明にそっくりだからむかつくのだ。よく貴明もこんな感じで自分をからかった……が。
「え?」
恵美は胸に違和感を感じ、そして仰天した。
「うわぉ……。本当にでかくて揉み心地最高!」
「…………」
「なあなあ? このおっぱい、佐藤圭吾に育ててもらったって本当? すごい才能だなあ~。Aカップしかなかったのに、これってFぐらいあるんじゃない?」
天使のように笑って恵美の両胸を掴み、ご満悦そうな雅明。一瞬、恵美は頭が真っ白になり固まった。さすがに貴明はいくらなんでもこれはなかった……。
「なにすんのよっ! この変態!!!!」
「ほげっ」
渾身の力を振り絞った拳骨で雅明の頭を殴りつけ、恵美は畳と男を接吻させてやった。
こいつは怪しいどころか、ただのドスケベだ。変態だ。いかれた野郎だ。こんな場所には、一分一秒でもいるべきではない。この男は女の敵だ!
恵美はさらにもう何発かお見舞いして、子供達を起こそうとした、が、そこで最近頻繁に起こっている貧血になって、また座り込んでしまった。
「いたたた……。貴明に聞いちゃいたがなんて痛さ……って、おい?」
やっとまともな声が聞こえたと思いながら、恵美はそのまま闇に吸い込まれていった。
──── 良くここまで頑張ったな。ずいぶん苦労したろうに。
大きな懐かしい手が頭を撫でていく。その温かさを恵美はしっかりと覚えている。
圭吾だ。
いつもそうやって撫でてくれた圭吾に、子ども扱いしないでと怒っていた自分を思い出す。圭吾はめったに恵美の夢には現れない。こんなに逢いたいと思っているのに、なかなか来てくれないのだ。
(もっと逢いたい……)
貴明にそっくりな男が現れたせいで、日頃封じ込めていた感情が一気に吹き出てしまった。圭吾が居て、貴明が居た頃の佐藤邸が懐かしい。あの頃は本当に幸せだった。
今も、子供達は元気だし幸せには違いないが、圭吾が居ない。
時々、居ない彼を求めて目線をあげたりしている。亡くなった正人は何も言わなかったが、きっとわかっていただろう。
(こんな私だから、来てくれないんだろうな。怒ってるんだ、きっと)
もっと愛したかったし、愛されたかった。傍に居たかったし、傍に居てほしかった。たった五年だなんて短すぎる。
ふと唐突に目が覚めた。見覚えのある天井に、自分の部屋だと恵美は思った……が。
「目、覚めました?」
「きゃあああああっ!」
自分の狭いシングルベッドの隣に、雅明が一緒になって横たわっていた為、恵美は大絶叫した。後ずさってそのままずり落ちそうになり、またくらくらとして、雅明に手首を掴まれベッドに戻された。
「駄目だよー、貧血だよそれ。病院に行った方がいいよ」
「あなっ……た、なんでこんなとこにいんのよ!」
「美雪ちゃんと穂高君が、家に帰りたいっつーから。今、夜の十時。飯は私が作ったの食べさせたし、風呂も入れといたけど。あ、寝てるからね二人とも」
それはとてもありがたいが、だからって添い寝はない。気持ち悪さと怪しさ満載だ。しつこいが本当に今日が初対面なのに、なんでここまで馴染んでいるのだこの男は!!!! 早く帰ってもらいたい!!
「それは、どうもありがとうございます。お礼はまた明日でも……」
「いーのいーの。だって親戚だし」
へらへら笑う雅明に、恵美は血管が切れそうになったがこらえた。完璧に貴明とはぜんぜん違う。何もかもが謎過ぎる。警戒心の強い子供達を、よくここまで取り込めるものだ。だが、自分は絶対に無理だ。
「私はもう、佐藤家とはなんのつながりもないんです。だから貴方とも、ただのご近所さんですから!」
「そりゃあ、恵美さんにはそうかもしれないけど、子供達には明らかな繋がりがあるでしょう? ねえ? 貴明は知ってるのかな~? こんなとこに自分の隠し子が居るなんて」
身体中の血の気が引き、恵美はまた具合が悪くなってきた。
それが一番恐ろしいのだ。だから、こんな山奥のど田舎を引越し先に選んで、ひっそりとしていたというのに。穂高の存在が公になったら、大スキャンダルとは言わないが、やはり貴明に傷がつく。
「……お願いだから言わないで」
縋り付くように言う恵美に、雅明の返答は素っ気無かった。
「あいつさあ、今、すっごく大事な時なんだよ。やっと愛しの君と婚約して、幸せ絶好調。そんなところに隠し子居るなんてばれたら、どーなると思う?」
「だから隠れてるんです」
「効果的に、慰謝料ぶんどれる機会を狙って?」
恵美は唇を噛んだ。
なんで誰も彼も、貴明と繋がりがあると財産目当てだと思うのだろう。そんなにさもしい女に見えるのだろうか。見えるのだろうなとがっかりする。
「どうしたんです?」
「……必要ないわよ。何もいらない」
「でもさー。一人で子供養うって大変だろ? お父さんは一年前に亡くなったって、美雪ちゃんが言ってたけど」
論点がずれている気がしたが、恵美は面倒くさくなってきた。
「大変じゃないわよ。子供が居るから私は生きてるんだから。あの子達が居なかったら、私はとっくに自殺してるわ。好きな人も子供も居ない世界に、未練なんかない」
「そうきたか。明日を生きたい人もいるだろうに」
あきれ返っている雅明の声に、恵美は低く笑った。
「私は愛人してた悪い女だもの。それに、本当に欲しいものはお金では絶対に買えない。だからいらない。もし買えるっていうのなら、いくらでもお金を受け取るけれど」
お金で、人を取り戻せるのなら……。
絶対にできやしないのだ。いくらお金があったとしても。
「何が欲しいの?」
恵美は力なく笑った。
「あんたには言わない。さっさと帰って。お願いだから貴明にも世間にも言わないで、お願いだから……」
雅明が、ばりばりと頭をかいた。
「うーん調子が狂う女だなあ。はいはい。ここまでは貴明がくれたデータどおりだな。恐ろしいくらい物欲がない……と。うん、あとげんこつも最高に痛かった」
「なにそれ……?」
「ちょっとカマかけただけ」
にっと笑う雅明は、調べが正しいかどうか確かめたかったのだと謝り、恵美は呆気に取られた。
雅明は、でもねと真顔になった。
「隠しててもばれるよ。どうするのこれから?」
「とにかく黙ってて!」
「どうして、そんなに人に必死になるの?」
「大切だからよ。当たり前でしょう?」
「自分を犠牲にしても?」
「そんなんじゃ……」
雅明の茶色の目に虹色が混ざり、妖しい陰がある美しさに変化した。おちゃらけた雰囲気が消える。
雅明の毒の糸に絡め取られて、恵美は目が離せなくなった。
「……本当にいい女だなあ」
スローモーションのように、ゆっくりと雅明の両手が頬に添えられた。
顔が近づいてきて、口付けられる。その唇の熱い熱に、やっと恵美は呪縛から開放され、腕を突っ張って雅明を引き剥がそうとしたが、貧血のせいで力がはいらない。そのままベッドに倒れ押さえ込まれた。
「んー!」
微妙な力加減で腰を撫でられて、背中がざわめいた。恐怖と悦楽がいりまじったそれに、怯えた恵美が噛み締めるのを止めたのを見計らって、妙に熱い舌がぬるりと進入して絡みついた。幸い手は押さえつけられていなかったので、恵美の手はベッドマットの隙間にあるものを探した、が、いつもそこにあるはずのものがない。深すぎるキスで貧血も手伝って、意識が朦朧としてきた頃ようやく唇が離れた。
「は……あ……」
「探し物はこれ?」
密着していた雅明の身体がわずかに離れ、目の前に小さなフラッシュライトが突き出された。恵美は黙ってうなずき、目を閉じた。
「あれ? もう諦めちゃうの? 他に護身グッズないの?」
「……通用する相手になら使うけど、あんた強いから駄目。好きにしたら……?」
迫ってきたくせに、雅明は何故か困った顔をした。
「投げやりだなあ。もっと自分を大事にしないといけないんじゃないの?」
「貴明のお兄さんなら、殺しまでしないでしょ。ばれたら貴明、怖いわよ」
「あいつの権力に縋って脅してる?」
「馬鹿……。事実だから言ってるだけ」
どこまでも生真面目で想いが深かった貴明を、懐かしく思い出しながら恵美は弱く笑った。まったく、愛しいお嬢様は、あんなにしつこい、一途過ぎる感情を受け止められるのだろうか。
「あいつに想いは残してないの?」
「私が愛してるのは、佐藤圭吾だけよ」
「小山内正人は?」
「……家族」
「…………」
あっけに取られている雅明の気配に、恵美はくすくす笑った。
「言ったでしょ。私は悪い女だからこんな事平気で言えるの。だから好きにしていいわよ。でも、子供達はなんの罪もないから止めて。手を出したら承知しないから」
「おいおい。あんたこわくないの?」
恵美はかすかに震えながら笑った。怖くないわけがないだろう。
「愛人してたから平気」
「平気って……あのね」
「今までちゃんと撃退できてたから。その気はないけど、よく押し倒されるのよ……」
正人が生きていた頃も、妙に言い寄られて困っていた。亡くなってからはひどくなった。おかげで美雪の学校の保護者から、だらしがない女だと囁かれ始めている。自分はどう言われても構わないが、子供達に申し訳なくて辛い。護身グッズでいつも撃退していても、そんな事は保護者達にわかろうはずもない。
「それってさあ、こいつら?」
恵美の肩をベッドに押し付けたまま、雅明が見覚えのある男の写真を数枚見せた。恵美は黙ってうなずいた。
「藤川食品社長と、荒城機器工業の会長と、ハリウッド俳優か。皆面倒くさそうな相手だね。この近くの旅行先で、皆ひっからまって来たみたいだねえ……」
実は恵美が寝ている間に、この三人が押しかけてきたのだが、雅明が体よく追っ払ったのだった。拳銃を何発もお見舞いして……。
雅明の説明に、恵美は開いた口が塞がらない。拳銃を持っているということは、警察か何かなのだろうか?
「私は誰とも再婚しないと、言ってるの。きっと圭吾の遺産目当てなのよ」
「はあ? 三人とも総資産が莫大な奴らだよ。佐藤圭吾の遺産なんか、やつらにはすずめの涙だろ。一億円なんてすぐ消える」
「…………」
そんな言葉を警察が言うはずがない。
雅明をよく見ると、貴明にはない、人間の心の奥の最も深い部分にある、どろどろとした真っ黒な影が滲み出ていて、それが彼の妖しい美しさを引き立てている。驚くほど家庭的でそれでいて鋭い、それなのに懐かしい雰囲気を漂わせる雅明に再び囚われそうになり、恵美はぱっと視線をそらした。
「……ああ驚いちゃった? ふふ、まあ私ってば情報通だから、なんでもすぐ調べられちゃうんだ」
「探偵なの?」
「そんなもんかな。だから恵美さんがどういう女かはわかってる。ごめんねまた意地悪して」
はっきりと右目を瞑ってウインクした雅明は、貴明と同じように微笑した。ようするに慰謝料云々もこれも、ただ恵美を試したかっただけなのだ。安心した途端にもうれつなだるさが襲ってきて、そのまま眠りそうになり恵美は目を擦った。
「眠い? 貧血だからね。何にもしないし、親戚なんだからもう寝たらいいよ」
「……貴明のお兄さんだから、信用……でき……な」
「あいつって手が早いの?」
「……あんたには負けそうだけど」
言いながら、恵美は逆らえない睡魔に身をゆだねてしまった。
恵美のやつれ気味の頬を、雅明の指が滑っていく。
「一人で頑張って子育てして、元恋人に想いをささげる女か。……たまらないだろうねえ」
さっき、軽い睡眠薬を口に含んでキスをした雅明は、この程度ですぐに眠ってしまう恵美の疲労が哀れだった。恵美の上掛けを掛けなおし、ベッドの縁に腰を掛けてもう一枚の写真を取り出した。
そこに写っているのは、佐藤圭吾によく似た人間だ。
「愛した男にそっくりな人間が現れたら……、いくらこの人でも動揺するよね」
ぴっと人差し指で写真を弾き、雅明はにっこり笑った。
そして、物語が再び始まる。
最悪の一夜が明けても、悪夢は終わっていなかった。
「なんでいるのかな……」
目覚めると、横で暢気に添い寝している怪しい男……石川雅明。
悲鳴をあげてぶん殴り、家から叩き出したい気持ちに駆られても、いかんせん今の恵美にはそれらの体力は無い。そもそも、そんな乙女な物はもう持ち合わせていない。
起き上がるだけでなんだかくらくらする。
貧血だ。
治療をしてもなかなかしつこくて、治ってくれない。ストレスが原因だから、それを取り除く努力をと医師は言った。取り除けるものなら取り除きたい。無理だからこそのストレスなのだ……。
ベッドを出て、昨夜浴びていなかったシャワーを浴びて、着替え、歯磨きをする。今日は雨のせいか何となく寒い。
朝食をこしらえると、美雪が制服に着替えて階段から降りて来た。
「お母さんおはよう」
「おはよう。穂高は?」
「直ぐ来るわ。ねえ、雅明おじ様は?」
「さあね」
雅明について話したくなくて、恵美は言葉を濁した。
「そんなに嫌わなくてもいいじゃないの、お母さん。穂高のお父さんのお兄さんなんだし」
「そんな事より、今日はテストじゃなかったの?」
「……いつも百点だから」
取り合ってくれない恵美に美雪は頬をわずかに膨らませ、ぶつぶつ何かを言いながらご飯を食べていく。穂高も直ぐにやってきてご飯を食べ、同じように雅明について聞いてきたが、恵美は一切それに対して答えなかった。
「きょうも、おじちゃんの家へ遊びに行ってもいい?」
「駄目です!」
めげない穂高に、恵美は思わずきつい口調で跳ね除けてしまった。だから言ってるのにと美雪が言い、だってと穂高は不服そうだ。
だが、恵美には重大事だ。
「あのね、貴方達には申し訳ないけれど、佐藤の家とは関わり合いになって欲しくないの。辛い思いをするのは貴方たちなのよ」
庶子でしかない二人の子供たち。
恵美は、戸籍を見るたびに申し訳なくなり、悔しくて泣きそうになる。これが愛してはならない人を愛した罰なのだ。
子供たちはそれ以上は何も言わず、食事を終えると食器を洗い、学校へ行った。
それを見送り家へ戻った恵美は、ずうずうしく朝食を食べている雅明に脱力した。
「……雅明さん、貴方ね」
「んー? 何? 貴明情報が知りたいって?」
「知りたくありません。それ食べたら早く出てってくださいね」
「キスした仲なのに冷たいなあ。」
むかっとしたが、怒るだけ無駄だと恵美は思い直す。恐らく貴明とは似てもにつかぬ軽い男で、キスを挨拶にしか思っていない男なのだろうから。
「あのね、貴明ね、いとしのご令嬢と結ばれて東京へ帰ってくるんだって」
どきりとしたが、恵美はそ知らぬ風を装った。
「そうですか。良かったですね」
「うんうん。佐藤グループも安泰だ。何しろ相手は鋼鉄の女だから」
……そんないかつい令嬢なのだろうかと、恵美は思いながら自分の食器を洗った。気になるが聞くと興味があると思われかねないので、黙っていた。ふと目を上げて窓の外を見ると、いつもの影が見えて心を冷やした。
(まただわ……)
断っているのに、交際を迫ってくるしつこい男たち。一体、自分の何がいいのかわからない。もっとも、見張っているのは手下で、迫ってくる男は忙しいのかあまり現れない。部下のような人間が、数人居て、お互いをけん制しているようだ。
「わーお。昨日の奴らだけじゃなかったんだ」
雅明が面白そうに言う。この男のせいで、刺激された連中が暴挙に出てこないとも限らない。自分はともかく子供が心配だ。
「どれどれ……」
雅明が恵美の隣に立ち、窓を開けて男たちを覗き込む。
「耳塞いで」
何故だろうと思いながらも恵美は黙って耳を塞ぎ、ついで銃声の音に仰天した。
雅明の左手に握られていたのは拳銃で、恵美ににこりと微笑んでそれをジーンズのポケットにしまった。男たちが逃げていくのが見える。
「あ、あなた」
「内緒、ね」
ばちんと右目でウインクされても、衝撃は抜けなかった。そんなものを一般人が持っているなんて、有り得なさ過ぎる。やくざかなにかだろうか。それなら一刻も早く家を出て行って欲しい。
震えていると、そんなに怖いかなあと手首を掴んできたので、ぎょっとして手を引いた。
「恵美さんには使わないよ?」
そうじゃなくて、そんなものを持っている人間が怖い。貴明でもそんなものは持っていなかったのだ。
震え続ける恵美に、そうか、日本人は拳銃なんて一般人は持っていないのかと、雅明は呟いた。雅明の住んでいるドイツでは、ある年齢に達している人間は、ライセンスを取れば特定の銃が持てるのだという。
それは理解できてもそれはドイツでの話で、日本では適用されないはずだ。
雅明に椅子に座らされる。出て行って欲しいのに出て行ってくれない雅明が、恵美は怖くて仕方がない。よく見たら、半袖から伸びている腕は細そうに見えても鍛え上げられたもので、どことなくチーターなどの猛獣のしなやかさを連想させる。
「なんか誤解しているようだけど、私はやくざではないからね?」
「じゃあ、その拳銃は何よ」
「ボディーガード。貴明の愛しの姫君が狙われてるんでね」
「?」
雅明は勝手に戸棚から取り出した茶碗に、どぼどぼと出がらしのお茶を注いだ。
「本当は、日本に帰ってくる気は、今はなかったんだ。だけど、依頼があったから引き受けるしかなくてね。貴明やナタリーには貸しがいくつもあるし、それにあの悪魔が結婚できるチャンスだから、逃すのはかわいそうだとも思った」
「悪魔……」
思い出すのは、貴明が時折見せていた恐ろしく冷たい素顔だ。
「ふふ、知ってるみたいだね。恵美さんは、貴明の狂気が垣間見える愛情が怖かった……かな?」
「…………」
雅明はくそまずい茶を平気な顔ですすり、茶碗をテーブルに置いた。
「大丈夫さ、あいつだって大人になってる。お嬢様を苦しめるような愛仕方はしないさ」
「…………」
「それにお嬢様は、それこそがお気に入りなんじゃないの? あのナタリーが、太鼓判押してた鋼鉄ぶりだし」
「……もういいわ。私には関係ないの」
かたくなな恵美に雅明が目を細める。
「いつまでも、現実から目を離してちゃいけないな。恵美さんは日陰でよくても、美雪ちゃんも穂高くんも、それに我慢できるような性格じゃないだろう? 大人しくて平凡な面と才覚ならよかっただろうが、残念ながら二人とも非凡な父親の性質を受け継いでる。そのうち爆発するさ」
雅明と死んだ正人の姿が重なる。彼も同じような事を言っていた。
(正人……)
血が繋がっていなくても、二人を実の子のように可愛がってくれていた、彼が居たなら……。
「とにかく……」
続けようとする雅明の言葉を、恵美は遮った。
「家族でもない貴方には、言われたくないわ」
「あのね」
「何も知らないくせに!」
貴明に似ている、この男だけには言われたくはない。
心の底で、恵美は佐藤家の人々を恨んでいるのかもしれなかった。彼らと無縁で居られたなら、普通に平凡に生きられたのかも知れない。
もう、波乱万丈の人生なんてまっぴらだ。
「……お願いだから、私たちのことは放っておいて。結婚する貴明に、隠し子なんて最悪でしょう。彼は見かけによらず繊細なんだし、義理堅いし、考えただけでどうするか目に見えてるの」
頑固だとは思っていたが、ここまでとは雅明は思っていなかった。
「あのね、恵美さん……」
「変な男の人たちなら、ご近所の人も助けてくれるから大丈夫よ。心配ないわ。子供たちの事も……」
「それは……」
恵美は知らない。その近所の人間は、実は圭吾の妻だったナタリーが、その筋の人間を集めて恵美を守らせる為に移住させているのだとは。ナタリーは、己がした恵美に対するひどい仕打ちをひどく後悔しており、償いをかねて、ずっと恵美を護りつづけている。
そんな事実を打ち明けたら、恵美はどうするだろう。
雅明は、複雑な気持ちを抱えて黙り込んだ。
どちらにしろ、いずれは露見する事だ。それならば然るべき時を見計らって、誰もが納得いくような形を狙うべきだった。
「ま、どのみち近いうちに、貴明の愛しの姫君をこっちに連れて来るから」
「ええ? 貴方……私の話を聞いてた?」
「聞いてた。一人よがりすぎるよね。愛しの姫君の身になって、少しは考えてあげて欲しいね。恋人に隠し子が居る! なんて後から知ったらショックだろ?」
「それは……」
後ろめたい気持ちが一杯になり、恵美は唇を噛んだ。だから隠れているのに。でもそれは結局、その女性を馬鹿にしていると取られても仕方がない気がする。
「なあに大丈夫さ。あの貴明が阿呆を嫁にするとは思えないし」
何が大丈夫なのかわからない。きっとその人は混乱するし、貴明も恵美も嫌になるだろう。
自己否定は好きではない。だが、自分さえいなくなれば、子供ももっと幸せになれるのではないだろうかと、そんなふうに思う時が恵美にはあるのだった。