天使のかたわれ 第02話

 それから一週間ほど過ぎた日曜日、朝、恵美と子供たちがのんびり過ごしているところへ、雅明から電話がかかってきた。

「今日、貴明の婚約者つれて行くから」

 本当に連れてこようとしているとは思っていなかった恵美は、心底驚いた。

「ええ? 困りますよ!」

「彼女は会いたがってる。彼女、佐藤邸でメイドをしてるんだけど、昨日仲間から、恵美さんとの写真を見せ付けられて、不安になってるんだ。だから会ってくれ」

「ちょ……!」

 断る前に通話を切られ、掛け直しても出てくれないため、恵美は仕方なく子供達と家中を掃除した。

 今日もやっぱり体調は良くない。

 毒付きながら掃除しているところへ、家の前の住人の東みちえがやって来た。

「恵美さんおはよう。昨日、沢山甘夏もらったんだけどどう?」

「わ、ありがとう!」

 果物は好物だ。

「ところで大掃除してるみたいだけど?」

「そうなの、急にお客さんが来ることになって……」

「それはまた大変ね。私、暇だから手伝ってあげるわ。任せて! 私の仕事は清掃だから」

 とても助かる申し出だった。ただでさえ身体がだるい恵美に、掃除は重労働だった。

「日本の家は土足じゃないから、掃除が大変よね」

 掃除用具を持ってきて、てきぱきとみちえは掃除をしていく。子供二人もみちえになじんでいるので、みちえの手下のように手際よく動いた。

 みちえは日本人にしか見えないが、生まれはアメリカだ。日本人の夫と結婚して日本に来たと、恵美が引っ越してきた時に教えてくれた。それ以来の付き合いだ。

「布団は干せないわね」

「お泊りじゃないからいいわ、それは」

 恵美は開け放たれた窓から、スッキリしない曇り空を見上げた。

「雲がどんよりしていやね、なんて言うんだっけ……ばい……ばいうだっけ?」

「梅雨よ」

「そうそれ! やたらと食べ物がカビるから困っちゃう」

 みちえは、英語なまりの日本語を話すが完璧ではなく、英語が堪能な恵美がいろいろと普段から手助けをしている。

 あっという間に掃除は終わった。

「ありがとう、みちえさん」

 縁側で、恵美はもらった甘夏とお菓子とお茶を出した。子供たちは甘夏を持って外へ遊びに行く。

「気にしないで。それより具合は大丈夫?」

「……大丈夫」

 大丈夫じゃないと、みちえはずっと前から気づいていた。夫の正人に先立たれてから、恵美はかなり無理をしている。

 みちえは、貴明の母のナタリーが雇った女だ。

 当然ながら、彼女はすべてナタリーに報告している。絶対に入院させるべきだと、みちえは何度もナタリーに言っているが、恵美の意思を優先させなければという返事ばかりで、ヤキモキしていた。今月に入ってナタリーの息子の雅明がこちらへ来てくれたので、これでなんとか説得できるだろうと、彼女は期待していた。

 何も知らない恵美は、みちえを友人として大事に思っている。もちろんそれはみちえも同じで、ナタリーの関係がなくても恵美を護るつもりでいた。こんな健気な女を護らないでどうすると思うぐらいだ。

 湿気を含んだ風が、恵美の流れる黒髪をさらりと流した。

「恵美の髪は本当に綺麗ね」

「末摘花にでもなれたらいいわね……私も」

「なにそれ?」

「千年前に書かれた物語に出てくるの。お鼻の先が紅花を塗ったみたいに赤い、醜いお姫様。だけど髪だけはとても美しかったの」

「恵美はちがうわ」

「そうかな。平安時代ならさだ過ぎた女よ」

 みちえにはとてもそうは見えなかった。抜けるような白い肌は触れるとすべすべとしていて、その気がないみちえでもどきりとしてしまうぐらいだし、憂いを含んだ双眸に見つめられると、庇護欲をひどくかき立てられる。美人ではないがひどく愛らしい。むしろ、美人ではないところがいい。恵美の居る場所は安らぎに満ちていて、一緒に居ると心の底から安心できる。

 そんな女が亡き夫に操を立てて、子供たちを必死に育てているのだ。魅せられた男たちが言い寄るのも、無理はない気がする。

 みちえは、飲んだくれの母親に育児放棄された過去を持つので、恵美がまるで聖母のように見えてしまうのだった。

 昼前、外で様子を見ていた美雪が、恵美を呼びに戻ってきた。

「お母さんっ、おじさま来たよ!」

 緊張が否応もなしに高まる。恵美はきっちりと化粧をした自分を、鏡で見つめた。大丈夫だ、服も失礼はない。子供も着替えさせた。お部屋も玄関も完璧だ。

 程なくして車が家の前に停まり、雅明が降りて来た。こちらは緊張しているというのに、雅明は随分と着古した服を着ていて、なんだか恵美は頭にきた。

「どういうつもりですか」

「だって言ったろ? 連れてくるって」

「私は頼んでいません……、あ、穂高、待ちなさい!」

 家の中で遊んでいた穂高が恵美の横をあっという間に通り過ぎ、雅明の後ろにいる、貴明の婚約者の女性を見上げた。

 場に緊張が走った。のほほんとしているのは、何も知らない穂高だけだ。美雪が、恵美の背後で恵美に謝った。勘の鋭い子なので、場を読み、恵美の心中を痛いほど察しているらしい。穂高は、雅明が連れてきた若い女性に、興味津々なだけだろうが、相手はそう取ってはくれない。

 誰がどう見ても、穂高は貴明をそのまま幼くした容姿なのだ。

 穂高について、やっぱり貴明に話しておけば良かったのだろうか。そうしたらこんな最悪な形で、隠し子と対面するなんてありえなかったはずだ。

(貴明……)

 あの時、避妊はしていた。だから何故妊娠したのかはわからない。貴明が小細工するわけもないし、恵美だって同じだ。なんらかの偶然が招いた結果だった。

 穂高が生まれた時は正人の恵美も驚き、恵美は申し訳なくて何度も別れて欲しいと頭を下げたが、正人は自分の子供にするつもりだと断った。恵美を護ること。それが亡き圭吾との約束だったからと言って……。

(正人、圭吾、私はどうしたらよかったのかな……?)

 恵美は唇を噛んだ。

 やはり、隠れていては駄目だったのだ。雅明の言うとおりだ。

 その結果がこれだ……。

 女性の顔色は青くなったかと思うと、見る見る赤く怒りに染まっていった。恵美が口を開くより先に、女性は自分の鞄からスマートフォンを取り出し、通話が繋がった途端に怒鳴った。

「浮気者! 隠し子がいるなんて知らなかったわ! 婚約破棄させてもらいますからねっ!」

 般若のような顔で女性は通話を切り、乱暴な動作で鞄にしまう。

 恵美が一番恐れていた事態だ。自分の子供のせいで婚約破棄などされたら、絶対に困る。

「ま……」

 恵美が出ようとするのを、雅明がさっと手を出して止めた。

「麻理子さん」

「何よっ!」

「取りあえず挨拶に来たのだから……。冷静になってくれ、ひどい有様だ」

 そこで女性は自分の醜態に気づいたらしい。みるみる怒りが解けて、赤面していく。落ち着いたと見た雅明が横に退いた。

 とにかく挨拶だ。

 お互いが頭をさげた。

「初めまして、私、小山内恵美と申します」

「……嶋田麻理子と申します」

 女性……、麻理子は恵美に対して悪感情は持っていないようだ。内心それにほっとした。何としても貴明のためにも、婚約解消は止めてもらわないと……。

 しかしそれを言えなかった。 

 麻理子が、恵美に視線を強く当てたまま、ぼろぼろと涙を零し始めたからだ。目だけはしっかりを見開かれて、それは恵美に挑戦しているような輝きを放っていた。

 強く羨望を覚えるほどの、果てしない強さを秘めた美しさだった。麻理子は貴明を愛している。

「私、佐藤貴明さんの婚約者ですけど。もう別れようと思いますわ。だって、こんなかわいらしい男の子がいらっしゃるんですものね。私は恵美さん程賢くもないし、素敵な笑顔にもなれないし、優しくもないし、私なんて私なんて……! 遊ばれたって仕方ない世間知らずだしっ…………」

 そのまま麻理子は、おいおいと泣き出した。

 恵美は頭を傾げた。どうも、恵美について誤った情報が流れているらしい。

 賢い? 素敵な笑顔? 優しい? 誰がそのような話をしたのだろう。貴明がするとはとても思えない……。

 それにしてもこれは、麻理子が傷つくために来させられたような感じだ。恵美は雅明を睨んだ。

「どういうことなの石川さん。いきなり今朝電話してきたかと思ったら、こちらへ貴明のフィアンセの方を連れてきて……。こうなるに決まってるじゃないの!」

「貴明も来るよ、そうら来た」

 聞いていなかった名前に、恵美は今度こそ仰天した。貴明まで来るとは聞いていない。

「ちょっと! 私はそんなの頼んでないっ!」

「もう来たから手遅れ」

 ほぼ同時に、家の前に白いメルセデスベンツが止まった。

「ナイスタイミング」

 雅明が呟く。

「麻理子っ!」 

 記憶の中にある姿より大人になった貴明が、車の中から大慌てで飛び出してきて、座り込んで泣いている麻理子を抱きしめた。

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