天使のかたわれ 第03話

 正人のお墓に手を合わせる貴明を、恵美は申し訳ない気持ちで見ていた。

 季節はずれの墓地に人影はなく、今にも雨が降りそうな湿気を含んだ風が、線香の煙を流していく。

 二人きりだった。雅明も子供たちも、貴明のフィアンセの麻理子も家にいる。しかし、この墓場は歩いて五分ほどの距離なので、そう離れてはいない。

 麻理子は、恵美が穂高を貴明の子供だと認めた途端、気絶してしまった。彼女のおつきをしているみどりという女性が、最近麻理子は過労気味だったから休ませて欲しいと言って来たので、家の客間で寝てもらっている。

 貴明が立ち上がり、振り返った。

「すまなかったな恵美。麻理子や雅明が迷惑をかけたようだ」

「私の方が迷惑をかけているわ。私……」

「恵美はいつだって他人優先だ。自分を優先する時なんてありゃしない」

 感情のかけらもない言い草は、かえって、貴明の感情のゆれを感じさせた。他人には見破れないこの癖は、彼に近しい者にしかわからない。

「僕はね、自分が許せないんだ。僕だけが恵美のこれまでを知らなかったんだ。解放さえすればお前は幸せになれるって、馬鹿みたいに信じ込んでいた。その結果がこれだ」

「私はそれを望んでいたのだから、貴明は間違ってないわ……」

「だが」

 外でするような話ではない。恵美は首を横に振った。

「……家へ戻りましょう」

 恵美は心の中で正人にまた会いに来ると告げ、家へ足を向けた。貴明もついて来る。田畑だけが広がっている山間部なので、普段から人影は少ないが、雨が降り出してきたため、いつもなら田畑で作業している住民の姿もなかった。

 重苦しい空気を振り払うために、恵美はずっと言いたかった祝いの言葉を述べた。

「貴明、お嬢様と結婚すると聞いたわ。おめでとう」

「……ああ」

 まだ、自分自身に対して貴明は怒っているらしい。

 恵美は、ちらりと隣を歩いている貴明を盗み見た。今の貴明は、あの頃の圭吾と変わらない貫禄が出ていて、頼もしさを強く感じる。不安定で揺れていた昔の面影は欠片もない。

 誰も彼も変わって行く。それで当然なのだ。

 昔、佐藤邸で囚われていた頃、同じように思っていたことがあった。まだ、十年ほどしか経っていないのに、遠い昔の出来事のようだ。

「麻理子さん、貴明がとても好きなのね。さっき、物凄くそれがわかってうれしかった。貴明にも負けないくらい、愛してらっしゃるわね」

「……ああ」

「大切にしすぎないようにね」

 貴明の愛情は一途過ぎて、相手を潰しかねない。変な注意だが通じるはずだ。

 家へ戻ると、子供たちが客間から出てきた。

「おかえりおかあさん、おねえさんずっと寝てる。大丈夫かな?」

「大丈夫よ。お疲れだったの」

 心配そうに穂高が聞くので、恵美はそう言って子供を安心させた。美雪は貴明を覚えているものと見え、靴を脱ぐ貴明をじっと睨んでいる。二人とも貴明を警戒しているのか、恵美の側に引っ付いて離れなくなった。

「お前らも、お母さんと一緒に話をするから、こっちに来い」

 留守番をしていた雅明が、子供二人に手招きする。嫌でも、もう逃げるわけにはいかない。眠っている麻理子を客間に残し、四人は隣の居間に入った。二人を隣に座らせて、恵美は貴明の真正面に座る。雅明は貴明の隣に座った。

「さて貴明。この穂高を恵美さんはお前の子供だとさっき認めたが、本当に間違いはないな?」

「間違いない。身に覚えはある」

 即答だ。恵美はため息をつきたくなったが、なんとか噛み殺した。違うと言ってくれれば、まだ逃げ道があったものを。

「……で、どうする?」

 雅明に貴明は答えず、恵美を見た。

「一度、佐藤邸へ来て欲しい」

 それについての答えは、恵美は何度も雅明に言っている。

「行かない。だって穂高は私の子よ。貴明の子じゃないわ」

 雅明は今度は穂高に聞いた。

「お前は?」

「かあさんとここにいたい。とうさんは、正人とうさんだけだ」

「そうか」

 雅明は目を和ませた。しかし、貴明の目は鋭くなった。息子だというのにまるで敵を見るような鋭さに、美雪が言った。

「この子は本当のことを言ってます。疑わないでください」

 しばらく二人は睨みあっていたが、先に睨むのを止めたのは貴明の方だった。

 冷たい表情が雪がとけるように消えていき、貴明は身内だけが知る穏やかな笑みを浮かべる。

「……美雪は変わらないな。あいつそっくりだ」

 そして手を静かに伸ばし、大きな手のひらで美雪と穂高の頭を撫でた。

「僕と関わりあいになるとろくなことにならないから、放っておいたんだが……。それはただの逃げだったようだ」

 恵美はいたたまれなくなった。

「あんたは関係ないの。だからもういいでしょ? 帰ってよ」

「何を言ってるんだ。このまま放置なんて出来るわけないだろう。雅明から連絡を受けて来てみれば、大変な事になっているじゃないか。だいたいなんで正人が死んだと知らせない? お前は天涯孤独で、正人の両親は離婚して縁が切れてる状態だ。一人で子育てなんて出来るタイプじゃないだろうが、恵美は」

「とにかく帰って! 放っておいて!」

「恵美!」

 子供の前で言い合いするのはよくないとわかっていても、どうしても恵美は佐藤家と関わるのは嫌だった。怯えている穂高と美雪を強く抱きしめ、貴明を睨みつける。

「この子達は私の子供なの!」

 貴明は困ったように肩を下げ、雅明を見る。雅明が言った。

「何も恵美さんから、子供たちを取り上げようとしているわけじゃないし、佐藤邸に永住しろと言ってるわけじゃない。そこの辺りを誤解しちゃ困る。とにかく一度話し合いを持とうと……」

「それが不要なの! これに関してはもう聞かないわ。私の子は私の子で、貴明の子供じゃないから」

 恵美はこの話はもう終わりとばかりに立ち上がり、二人の子供の手を引いて部屋を出た。どうして放っておいてくれないのだろう。恵美は貴明の幸せを邪魔したくないだけだ。もうお互い別の道を歩んでいるのだから、そのまま別に幸せを掴めばいいではないか。

 佐藤邸へ行けば、きっと引き止められてしまう。恵美にはわかっていた。

 きっと自分は抗えない……。

「私……おかあさんと離れたくない」

 自分の感情に囚われていた恵美は、美雪の声にはっとした。

「僕も、ここでいい」

 普段はしっかりしている美雪も、さすがに不安そうにしている。恵美は二人を抱きしめた。

「大丈夫よ。貴方たちは私の大事な命なの。あと、貴明もやるべき事をしようとしてるだけ。悪い人じゃないよ」

「それは……知ってるけど」

 美雪は五歳まで佐藤邸で暮らしていたので、貴明ともよく遊んでいた。

「貴明は友達として好きよ。だから、結婚はないから」

「うん」

 穂高がうれしそうに笑う。それに恵美がほっとした途端、とんでもない事を言った。

「僕、雅明おじちゃんがおとうさんになってほしい」

「私も!」

「…………」

 恵美は絶句した。美雪が不思議そうにする。

「お母さん?」

「……なんでもないわ」

 たった数日でここまで懐くとは、尋常ではない。しかし、子供の夢を壊すのは可哀相なので恵美は何も言わず、お嬢様の側にいて欲しいと二人にお願いした。

 部屋へ戻ると、雅明と貴明が言い争っていた。

「大体お前が放っておくから悪いんだろうが!」

 糾弾する雅明に、負けじと貴明が言い返す。

「確かに僕の責任だ。しかし、知っていたら迎えに行っていたんだ。麻理子にも話した」

「麻理子さんはショックだろうな」

 わざわざショックを受けさせたくせに、雅明が言う。

「ああそうだ。でも僕は絶対に別れない。麻理子がいないと僕は駄目なんだ」

 貴明が麻理子とは絶対に別れないとわかり、恵美は心底ほっとした。これなら大丈夫だ。お茶を入れようとして足を向かいのキッチンへ入れようとした時、雅明が不穏な言葉を吐いた。

「恵美さんの方がいい女だけどねえ」

 恵美はぎくりとして足を止めた。

「ぁあ!? ふざけるな。喧嘩売ってるのか」

 やくざの様に貴明が激昂している。かなり珍しい。貴明は普通は凍てついた氷のような怒りしか人に見せない。それを増長するかのように、雅明の嫌に笑みを含んだ声が、だってと付け加える。

「恵美さんの方が胸でかいし、柔らかそうだし、悩ましいし……マドンナって感じ?」

 やっぱり、そんないやらしい目で、雅明は恵美を見ていたのだ。

「……確かに恵美の方が胸はでかいが」

 恵美は脱力した。

 怒っていたくせに、貴明は何を認めているのだ。

「…………」

 言い様のない怒りが恵美の中を渦巻いていく。何が胸がでかいだ、悩ましいだ。女を何だと思っているのか……!

 ばんと勢いをつけて居間の戸を開けた恵美に、二人は驚いて振り返った。恵美は怒りに任せたまま雅明のところまでどすどすと歩き、その銀髪に思いっきり拳骨を振り下ろした。

「こんの……っ変態が!」

「ふげぇっ!」

 たちまち雅明は畳に撃沈する。恵美の習性を良く知っている貴明は、怒りがこっちに向かないように知らないふりをしている……。小憎らしいがこの際は無視だ。

「……恵美ちゃん」

 起き上がった雅明が、情けない声を出す。

「勝手にちゃんづけで呼ばないで、変態。子供を懐柔して何を考えてるのよ貴方」

「いや、お父さんになろうかと」

 突拍子もないことを言い始めた雅明に呆れ、恵美は貴明に言った。

「……この人、あんたと似ても似つかぬ軽さなんだけど」

「うん……」

 貴明はうなずいたが、すぐに真剣な顔になった。

「雅明。恵美は夫を亡くしたばかりだし、最愛の恋人を過去に亡くしている。軽い気持ちでそんなことを言うな」

「あー、はいはい」

 面白くなさそうにしている雅明を恵美が睨んでいるところへ、穂高が麻理子が目を覚ましたと言いに来た。

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