天使のかたわれ 第04話

 恵美は客間へ入った。子供たちがついて来たが、麻理子を不安にさせているようなので出て行ってもらう。

 目覚めた麻理子は、ばつが悪そうに目をさまよわせている。そんな思いをさせているのは恵美だった。

(でもどうにもならないわ……。事実は事実なのだから)

 貴明の前で、穂高を認めた時の緊張が再び襲い掛かってくる。おそらくは麻理子も同じ緊張を抱いているだろう。間違った方向へだが。

 隣から貴明の怒鳴り声がした。麻理子と別れないと、また言い張っているのだろう。それがお互いの緊張をわずかに解いた。

「貴明ってば、さっきから麻理子さんとは絶対に結婚するって、そればかり繰り返してるの。あ、呼び捨てにしてるけど、これは高校時代からのつきあいだから、大目に見てください」

「はあ……。でも」

 恵美は、上半身だけ起こしている麻理子の隣に座った。

「ねえ麻理子さん。私、貴明とよりを戻す気はまったくないの。貴明との仲は始まる前に終わっていたから」

 麻理子が首を傾げた。きっと、貴明と恵美が相思相愛だったと聞かされているに違いない。

「私は貴明を友人としては愛してたけれど、男としては愛してなかったの」

 麻理子の目が瞬いた。

「子供ができるような真似をしたのは、本当に愚かだったと思うけれど、あれは、お互いの気持ちがお互いの愛する人だけのものだと、確認するものだったの。私は佐藤圭吾で、貴明は麻理子さん……貴女を。私はすぐに幼馴染と結婚したんだけど、最初からそれは家族愛にしかならないとわかってたの。残酷だけれど、私はどうしたって圭吾のもので、圭吾しか愛せない」

「ではお子さんはどうなるんですか?」

「どうもならないわ。あの子は小山内穂高として生きるの。父親は小山内正人よ。生まれたときはそりゃびっくりしたけれど……、正人は認めてくれた。血のつながらない子供たちを愛してくれたの。だから正人の思いに報いるためにも、私は生涯圭吾と居るの。あと、貴明と別れるなんて駄目よ。貴明は、十年間も執念深く貴女を愛してたんだから、まず諦めないわ。拒絶したらますます燃え上がるし、悪魔に豹変した貴明は、怖いし危険だし暴走したら誰にも止められないの。麻理子さんに、ちゃんと操縦してもらわないと駄目な男なのよ」

 そうだ。恵美は貴明を狂わせただけだった。自分さえ居なければと、恵美は一瞬、暗い後悔に囚われかけて振り払った。今は、この麻理子と貴明が強く結びついて幸せになってもらわねば。その気はなくても、存在するだけで、恵美は麻理子を傷つけているに違いないのだから。

「幸せになって欲しいの、貴明と麻理子さんには何があっても」

 麻理子が頬を染めて俯いた。とても美しいその顔には、強く貴明への思慕が現れていた。

 もう大丈夫だろう。

 そこへ貴明が入ってきたので、恵美は部屋を出た。

 キッチンでは雅明がいて麦茶を飲んでおり、恵美に気づくとにやにや笑った。

「何ですか?」

「んー……。本当により戻さないの?」

「しつこいです」

「こっちとしてはうれしいけどね」

 含みをもたせた言い方に、恵美は内心でむかむかした。

「からかわないでください。私は、真剣なんだから」

「こっちだって真剣さ。本当に、美雪と穂高の父親になりたいと思ってる」

「うそばっかり」

「うそじゃないさ」

 雅明の、薄茶色の瞳の色が熱く揺らいだ。覚えている。貴明もこんなふうに恵美を見つめて、思いのたけをぶつけてきた。

 それから逃れきれず、いつも飲み込まれて……。

 不意に抱かれた時の熱が、素肌に蘇った。忘れたと思っていたのに、恵美の身体に刻み込まれた貴明の想いは消えていない。引きずられるように圭吾の熱も蘇りそうになり、恵美は唇をぎゅっとかみ締めてそれを堪えた。

 雅明は危険だ。あの激情を恵美にぶつけようとしている。

 恐ろしくなった恵美は後ずさりし、子供のいる居間へ逃げた。子供たちはテレビを観ている。昼食を作らなければならないが、雅明と二人きりになるのが嫌で、食材を買いに行っているみどりが戻ってくるまで、恵美は居間に座り込んでいた。 

 麻理子は、深窓の令嬢とは思えないほど、恐ろしく立ち直りが早い女だった。

 ほんの十数分ほど貴明と話をしただけで、笑顔で部屋から出てきて、押しかけたおわびだと言って、みどりと膨大な昼食を作り上げたのである。

 なるほど、この豪胆ぶりなら、貴明の母のナタリーも佐藤家の嫁として太鼓判を押すはずだ。

 料理はどれもこれも美味しい。子供と男性陣は恐ろしい早さでそれらを口に運び、麻理子はそれの給仕をしている。給仕ぶりは完璧に近かった。貴明が何かを欲しいと言う前にそれを手にとって渡し、穂高が何かをこぼしかけたらさっと手を差し出してそれを防ぐ……。恵美は残念ながらそういうスキルは持ち合わせておらず、うらやましい限りだ。

(……にしても、疲れたな)

 貧血のせいだろう。恵美は早く横になってやすみたかった。

 そう思っていたら、くらりと来た。横に居た雅明が抱きとめてくれていなかったら、そのまま料理に突っ伏す勢いだった。

「……あんまり、こういうやり方は好きじゃないな」

 向かいに座っていた貴明が言う。どういう意味かと、恵美は力の入らない身体に鞭を打って、懸命に1人で座ろうとして失敗した。

「さっきの拳骨で、なけなしの元気を使い果たしたかな……。墓場でも疲れたろうし」

 雅明の視線を頬に感じる。

「車を出してきますわ」

 みどりが立ち上がる気配がする。見事な連係プレイは、まるで恵美がこうなるのを待ち構えていたかのようだ。

 おそらく恵美が居ないわずかな間に、取り交わしがあったのだろう。てこでも動く気配のない恵美に誰かが業を煮やして、仕向けたに違いない。

「行きたくない……」

 めまいを我慢して恵美は言った。いつも、少し横になっていたら治るのだから、放っておいてほしい。

「……恵美さん、貴女の身体はとっくに限界を超えているんだよ?」

 気づいたら、あまりにも雅明の近くに顔があり避けようとしたら、かえって強く抱きしめられた。腕を解きたくても、出るのは解く力ではなく、身体全体からにじみ出る嫌な汗だけだった。囚われたくないのに囚われていく。さっきは逃げられたのに、もう、雅明は恵美を囲い込んで、逃がさない。

「美雪と穂高のことも考えないか? 子供は気づいているんだ、母親が無理しているのを知っていて、黙っている」

「そんなの……」

「わかるさ。私だって昔は子供だった。ナタリーが会社を建て直そうと無理して、倒れそうになるのを見ているしかなかった。さあ……穂高、美雪、しばらく家には戻らないから支度しろ。みどりと麻理子さんは手伝ってやって」

 子供たちが、二階の自分の部屋へ駆け上がっていく足音がする。

「何を……」

 言いかけた恵美を雅明が遮った。

「強がりもいい加減にしろ。このままだと確実に死ぬぞ」

 死。

 恐ろしい言葉に胸の奥がしんと冷えた。麻理子がいさめる声が聞こえ、それに貴明の声が重なったが、雅明は恵美を抱き上げてずんずんと玄関へ歩いていく。

 外は雨が本降りになっており、貴明が傘を二人に差しかけてくれた。もっとも目を瞑っている恵美には見えていなかったが。

「恵美ちゃん!」

 みちえの声がした。今の恵美には、目を開けることすら億劫だった。

「……みちえさん」

「もう大丈夫だからね。私、待ってるから」

 雅明の車に乗せられ毛布を身体にかけられた恵美は、意味がわからないまま頷いた。

 車のドアが閉められる。

 恵美の意識はそこで途絶えた。

 だからそこで、雅明が愛おしそうに髪を撫でて、安心してお眠りと口付けたのを恵美は知らない。子供たちが喜んだ事も。貴明と麻理子が顔を見合わせたことも……。

 佐藤邸内にある病院で検査を受けた結果、恵美は重度の貧血で当分の間入院の上、安静にするようにという厳しい診断が出た。

 やはりこうなるのだと、恵美は自分を恨めしく思いながら、麻理子が用意してくれた部屋で、つなげられた自分の右腕へ落ち続ける点滴の雫を見つめた。

 こんこんとドアをノックする音がした。それに返事する声も弱弱しくて情けない。

「少しは落ち着いたか?」

 入ってきたのは貴明と麻理子だった。

「……子供たちは?」

「ナタリーと遊んでる。今日はずっと面倒見てくれるよ」

 美雪はここに住んでいた頃ナタリーに懐いていたので、久しぶりに会えて大喜びしているのだそうだ。姉が喜んで親しんでいるので、穂高も安心してついていったようだ。

 安心している恵美に、貴明が言った。

「美雪も穂高も、近くの学校や保育園に行かせることになったから」

「ちょ……待って。私そんなに長く居るつもりはないわ」

 予想していなかった事後報告に、恵美は慌てた。麻理子がベッドを楽な姿勢に起こしてくれ、学校や保育園、市役所と取り交わした書類を恵美の前へ広げていく。

「長くなるよ。半年は休んでないと駄目だ。そりゃ、貧血は多分二ヶ月程度で治癒できるだろうけど、他に大掃除しなきゃいけないからね」

 ベッドの脇にがたがたと椅子を二脚引きずってきた貴明は、先に麻理子を座らせて、隣に自分も座った。

「大掃除って何よ?」

 貴明が長い足を組んだ。

「雅明から聞いたよ。何人も男に言い寄られて困ってるんだろ? そんな危険地帯に恵美を置いておけやしないよ」

「……そのうちいなくなるわ」

「言い寄るもの同士でドンパチして、その分は減ってる。うん。でもその居残った連中は、無駄に金があってしつこい奴らなんだぞ? 誘拐されるのも時間の問題だ」

 麻理子は黙って恵美を見つめている。穢れのないまっすぐな視線が痛くて、恵美は起こされたベッドに深く沈んだ。

 麻理子はとっておきのお嬢様だ。何人も男を知っている、穢れた自分とは違う。だから軽蔑されたくない。麻理子の前で、恵美は改めて女としての品性を問われている気がする。

「……私、何にもしてないの。気を引いたりなんかしてない」

 うんと、貴明は頷いた。

「それは知ってる。向こうが勝手に引っ絡まってきたんだろう」

 ごみか何かのような口ぶりに、麻理子がくすくす笑った。恵美はたまらなく恥ずかしくなり、貴明を睨んだが、貴明はどこを吹く風だ。

「ま、しばらくすれば諦めると思う。とにかく恵美は何も心配しないでここに居ればいい」

「貴明。私は……」

 身体を突然動かしたせいで、書類がばさばさと床へ落ちた。同時に視界が暗くなり、目を瞑った恵美の肩を貴明が優しくおさえた。

「とにかく今は休もう? 落ち着いたら改めて話したらいいじゃないか、ね?」

「そうじゃなくて」

 麻理子が落ちた書類を拾い集めて、サイドテーブルに置いた。

 再び誰かがドアをノックした。入ってきたのは佐藤邸の執事で、貴明に何かを耳打ちする。貴明はうなずいてすぐに立ち上がった。

「ごめん、僕はもう行くから」

「貴明、待って……」

 貴明は恵美の声に振り向かず、そのまま執事を連れて部屋を出て行ってしまった。途方にくれていると麻理子と目が合った。

「また夕方に、お子様もご一緒にお連れしますわ。それまでお休みください」

 にっこり微笑む麻理子に、恵美はいたたまれたない。婚約者の元恋人の世話などさせたくない。どれほど辛い事だろうか。まわりもとやかく言うに違いないのだ。

 上掛けを直してくれる麻理子に、恵美は言った。

「……あの、私、治り次第帰りますから」

 麻理子は首を横に振る。

「せめてあの男たちがいなくなるまでは、ここに居らしてください。何をするかわからない連中ばかりですよ? 雅明さんが言ってらしたとおり、今日だって何人も見ましたもの」

「警察には言ってあります」

「当てになりません。警察は、事件が起こってやっと動くものですから」

「……それは」

 もう恵美は何も言えない。

「とにかく今はお休みになってください。それが一番だと思います」

 確かにその通りだった。

 もう佐藤邸まで来てしまった以上、麻理子たちの言う通りに過ごすしかない。

 麻理子はやがて部屋を出て行き、部屋は再び静かになった。

 眠りは訪れてくれなかった。身体は疲れきっているのに、別の興奮が恵美を苛んでいる。

 佐藤邸の空気は、あの頃とはあまり変わっておらず、懐かしい気配があちらこちらに漂っていた。

 今にも扉を開けて、心の底から逢いたいと願う人が入ってきそうな錯覚に囚われ、恵美は小さく笑った。

 そんな奇跡は、絶対に起こらないというのに。

「圭吾……」

 皆居るのに、彼だけがここには居ない。

 だから恵美は帰ってきたくなかった……。

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