天使のかたわれ 第05話
佐藤邸で居候生活に慣れ始めた頃、とんでもない噂を恵美は耳にした。
それは佐藤邸へ来た時から流れていたらしいのだが、恵美は部屋からほとんど出ないため、その噂を知らなかった。
麻理子は貴明の婚約者であり、また最年長のメイドとして後輩の指導に中々忙しい。だから時折彼女に代わって、別のメイドが恵美の世話にやってくる。その若いメイドが噂を信じきって、恵美にある日こう言ったのだった。
「恵美様、雅明様とご結婚されるんですってね。おめでとうございます!」
恵美は受け取りかけていたグラスを、ぼとりとカーペットの上へ落とした。今何か、とんでもない言葉を聞いた気がする……。メイドはグラスを、あらあら大変と言いながら拾い、雑巾を持ってきてカーペットの水分を取った。
「あの、あの、今……?」
「はい?」
「だれがだれと結婚するって?」
「だから、恵美様と雅明様。それに穂高様は、恵美様と雅明様のお子様なんですよね?」
「はああっ!?」
メイドはにっこりと笑うが、恵美は笑えない。穂高は恵美と貴明の子だ。しかし、今お屋敷内は、麻理子と貴明の婚約で持ちきりだ。とても本当の事など口にできなかった。
とまどっている恵美に、若いメイドはさらに爆弾を落とした。
「雅明様のお仕事の都合で、ずっと別れて暮らしておいでだったけれど、ようやく籍を入れられることになったんですよね? おめでとうございます」
「籍……?」
「はい、ですから、ご結婚おめでとうございます。本当におめでたいですわ。貴明様とご一緒に雅明様も……。皆歓迎しておりますよ」
もうどこから説明しなおせばいいのか、恵美にはわからない。頭の中は真っ白だ……。
昼前、麻理子が来るのをいまかいまかと待ち構えていた恵美は、食事を持ってきた麻理子に詰め寄った。
「ちょっと麻理子さん! 私はいつのまに、雅明さんと結婚する予定になってるんです?」
「ええええっ!?」
何故か、麻理子の方が驚いてのけぞった。
「本当なんですの?」
「聞いてるのは私ですよ! どういうことですか?」
麻理子はふるふると顔を横に振った。
「私も知りませんっ! ただ……、穂高ちゃんはもうすぐ本当の自分の子供になるとか、おっしゃってましたわ」
確かに混乱を避けるために、穂高は雅明の子だとされている。されているが……。
「それならどうして、私は雅明さんの内縁の妻になってるの!? 穂高は今は私のことを母親とは言ってないはずよ!」
「わかりませんわ、私にも」
「…………」
麻理子は、どうもこの手の情報に異様に疎いらしい。
直接本人に聞きたいが、雅明は子供と一緒でないと部屋には来ない。子供は小学校と保育園へ今行っている。つまり、夕方にならないと聞けないのだ。
おそらく麻理子が知らないだけで、ずっと前から屋敷の中では公認の仲になっているに違いない。恵美は泣きたくなった。あんな、貴明より面倒くさそうな性格の男はごめんだ。貴明は一直線に迫ってくる猪だったが、雅明は一直線というより、じわじわと締め上げてくる蛇のような雰囲気が漂っている。表向きは軽く見せかけていても、裏ではかなりドロドロとしている……。
「どうしたらいいの……」
恵美がサイドテーブルの圭吾の写真立てを取り、胸に抱きしめると、麻理子がおろおろとしながら謝った。
「すみません、私、そういうのには疎くて」
「……いえ、よく考えたら麻理子さんにあたるのは、筋違いでした。すみません」
麻理子は何も悪くない。悪いのは、絶対気づいているくせに何も言わない貴明と、噂を広めまくっている雅明だ。
「いいえ、よくありませんわ! 私、貴明様に言って止めてもらって来ます!」
あわただしく麻理子は部屋を出て行く。逆に丸め込まれるだろうとわかっている恵美は、期待すらしなかった。仕事はやり手でも、麻理子は恋に関してはテンで駄目そうだ。貴明もその辺では負けず劣らずだろうが、この件では明らかに貴明が優位だ。
「圭吾。私、どうしたらいいの……?」
写真の圭吾は、変わらない微笑み返すだけだった。
夕方、いつものように子供達と雅明がやってきて、一緒に夕食をとった。一つのテーブルを囲んで取るものだから、傍目には確実に家族の様に見えるだろう。恵美はそれが嫌で、最初から別に取れと雅明に言っているのだが、どこへ吹く風とばかりに雅明は自分の席を確保し、子供たちも何も言わない。むしろ歓迎している。
確かに雅明は、子供たちの面倒見がとても良い。子供と遊んでやっているという態度ではなく、まったく子供と一緒になって遊びを楽しんでいる。それでいて、二人が喧嘩を始めると頃合を見て上手く収拾するのだ。
恵美はとてもそんな芸当はできない。どうしても母親として遊ぶし、子供もちょっと楽しくなさそうな気がする。
「くっそー、負けたっ!」
「おじちゃん弱いんだよねー」
ネットで対戦ゲームをして雅明は美雪に負けたらしく、本気で悔しがっている。穂高がそれを見て大笑いしているのを見て、そういえば子供たちは、最近あんなふうに大口を開けて笑っていなかったと、恵美は胸をつかれた。やはり、恵美の病気は心の負担になっていたのだろう。
雅明は恵美には厄介な人間だが、子供たちにはとても良くしてくれるので、感謝している。しているのだが……。
夜も深まり、うつらうつらしていると、何かふにゃりと頬に当たった。
気がつくと子ども達が居ない。
「子供たちは朝が早いから、もう寝たよ」
ベッドに寝ていた恵美は、至近距離にある雅明の顔に悲鳴をあげた。
「貴方、今……!」
「キスしたけど? 婚約者なんだからいいよね?」
薄暗い部屋で、雅明と二人きりなんて最悪だ。恵美はとっさに上掛けを盾にベッドをずりあがった。
「あ、貴方が勝手に言ってるんでしょうが!」
「だって、いつか本当になるし」
雅明が靴を脱いでベッドへ上がってくる。恵美は圭吾の写真立てを取り、ベッドから逃げるように降りた。いつかの夜を思い出して、恵美は怖くてたまらなくなってきた。
「おいおい。なんだってその写真持ってるの? 死んだ奴は助けてくれないよ」
「来ないで!」
伸ばされてきた手を、恵美は力いっぱい引っぱたいた。しかし、その手を掴まれて引き寄せられた。写真立てで叩こうとしたが、取り上げられてしまう。
「そらな。何もしてくれないだろ?」
「うるさい! 離してよっ!」
「駄目」
抱きしめられて寒気を感じる。震えていると雅明が笑う気配がした。
「怯えなくてもいい。無理矢理なんて考えちゃいない。私は佐藤圭吾じゃない」
ぎくりと強張った恵美に、知ってるさと雅明は言う。
「あいつの強引な手口はよく知ってる。何が良かった? 強引にされてうれしいわけない。何があの男を許す要因になった?」
「…………」
最初から、あの帝王の瞳に惹かれていた。焦がれていた。でも襲われてからは怖くて、嫌で嫌で逃げて……それでも捕まって……。炎のような激情を宿す瞳に射すくめられ、動けなくなった。
「……わからない、そんなの」
だから恋なんだと、恵美は思う。
雅明は本当に何もしてこなかった。ただ、恵美を抱きしめたまま離さない。狂おしく甘い熱が伝わってきて、よろめきそうになった恵美は必死に流されまいと固く目をつむる。
「だろうな。それならわかるだろう? 私が本気だって事は」
「それは」
抱きしめる力が強くなった。
「早く私を好きになれ。佐藤圭吾を忘れろなんて言わない。ただ、私を好きになって欲しい」
「…………」
恵美はそれに応えられない。
雅明も何も言わなかった。
不思議と怯えは消え去り、穏やかな何かが二人に漂い始めた。それが新たに始まった恋だとは、恵美はこの時は気づかない。
雅明の腕は、いつしか安心する安らぎに満ちていた。