天使のかたわれ 第07話
それから数日、麻理子も貴明も雅明も部屋に来なかった。恵美は、結婚式の準備が忙しいのだろうと思い、特に気にしていなかった。子供たちは恵美の側にべったりと張り付いて楽しそうだったし、周囲はそれを咎めることも無く、もう家族同然だから当たり前だと思っていた。
久しぶりの親子水入らずの時間は、三人にとっても楽しかった。子供二人は他人が居ないので思う存分甘えられるし、恵美もそれに応えてやれる。
それに、一人になるとどうしても物思いに沈んでしまうので、子供たちの相手をしていると気がまぎれて助かっていた。夜も一緒に寝るので、雅明の事も圭吾に似た男の事も考えずにすんだ……。
やがてやってきた麻理子と貴明の結婚式の当日、屋敷内は喜びに溢れていて、恵美や子供たちに昼食を運んできたメイドも、それはそれはうれしそうだった。
「素晴らしいドレスなんです! こう、ちらっと動かれるだけで、虹色に輝くんですのよ」
「虹色?」
恵美が配膳を手伝いながら聞き返すと、メイドは麻理子の所作を真似した。いかんせんあの品のよさまでは真似できていなかったが。
「本当にお姫様なんだ……」
美雪がうらやましそうに言い、姉ちゃんはなれないねと穂高がちゃちゃを入れて、軽く小突かれ大泣きした。
穂高を抱いて宥めながら、恵美はドレスを着た麻理子を想像した。隣に並ぶ貴明と映えて、さぞ美しいだろう。
「眼福物なのね」
恵美が言うと、メイドは待ってましたとばかりに頷いた。
「ええ! 披露宴には貴明様のご親族とうちの従業員が総出ですの。麻理子様はご家族がおいででないので、お寂しい感じですけど」
麻理子に家族が無いのと、実家が没落してメイドをしているのは知らされていた。それでも疑問が残った。
「友人席とかないの?」
メイドは首を傾げた。
「そういえばありませんね。ごく内輪でということでしたので。本当は従業員参加もなかったんですけど、皆でゴリ押ししてお許しをいただいたぐらいでしたから」
「……そう」
「皆、待ちに待ったご当主の結婚式ですから。ご親族……それも片方だけだなんて、寂しいではありませんか」
「…………」
恵美はそれ以上は何も聞く気にはなれず、美雪が学校の提出物について聞いてきたのもあってあって、それ以上式について聞くのはやめた。
気づいたのはしばらく経ってからだった。
きっと麻理子は、実家の没落後、友達を敢えて作らなかったのだ……。
それが何故なのか恵美は知るのは、もっとずっと後の話だった。
翌日、久しぶりに麻理子と貴明がやって来て、放ったらかしにしていたことを詫びてきた。別に気にする必要はないと恵美が言っても、二人は納得しない。
これではよくないと恵美は思う。二人はこの大企業の要なのだ。親族でも従業員でもない自分に必要以上に関わるべきではない。
「……あのね、私はただの居候なの。何の役にも立ってない人間を気遣う必要はないわ。病気が治せて子ども達が元気だったら、それで十分だから」
「連れてきたのは僕たちだからね」
貴明が言い、麻理子も頷いた。
「死にそうな状態だったからよ。改めて思い返すと、よく生きてたな私……って、反省してるくらいなの。無理矢理にでも連れてきてくれて、ありがたいと思ってるわ」
「…………」
何かを言いかけていた貴明は、それを飲み込んだようだ。
麻理子が複雑な顔でそれを見ている。
駄目だ。
やっぱり自分は、このお屋敷ではお荷物そのものだ。早く元気になって、早くあの家へ帰らなければ……。
恵美がそう思っている一方で、貴明たちは恵美には話せない内容について頭を悩ませていた。身体が元気になっても、絶対にあの家へは帰せないと二人は決意している。帰ったらそれこそ悲劇が起こる。
「とにかく気にしないで、いつまでも居たらいいんだ。落ち着いたら旅行にでも行こうよ」
「貴明達の旅行の邪魔はちょっと……」
仕事が忙しく、二人は新婚旅行を先送りにしている。
「それはそれこれはこれ。親父から預かってる恵美の資産は凄いものだから、豪華客船で世界一周もできるよ」
「嫌な事を言うわね。私がそんなの興味ないの知ってるくせに」
恵美が呆れると、同様に思った麻理子に貴明は腰をひじで突かれ、ごめんと謝った。こうして見ていると本当にお似合いの二人だ。
ノックの音がしてメイドが一人、麻理子を呼びにやって来た。麻理子はすみませんと部屋を出て行った。
扉が閉まるのを見届けて、恵美は言った。
「大体私、変な男たちにストーカーされてるし。それこそ危ないわ」
「雅明が居たら大丈夫だ。あいつと一緒に行けばいい」
恵美は頬を赤らめた。
「な……っ、なんであの人と旅行なんて行かなきゃ行けないのよ! それならなおさら行かないわよ!」
雅明は部屋の隅で、子供たちを相手におおかみごっこに興じていた。髪の毛をばさばさに逆立てておおかみになりきり、子供たちは追いかけてくる雅明からきゃあきゃあ声を上げて逃げ回っている。
「あれだけなついてるんだから、大丈夫だよ」
貴明は言う。
子供達と雅明たちは、そのまま隣の部屋へなだれ込んでいった。
子供達の嬌声を遠くに聞きながら、恵美は内心でため息をついた。
貴明はきっと、恵美と雅明がくっついてほしいと願っているのだろう。
確かに雅明は悪い男ではないし、心惹かれるものもある。だが、どうしたって自分は圭吾が忘れられないのだ。惹かれれば惹かれるほど、圭吾の影が追いかけてきて、恵美はどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
「お母様が許さないわよ」
「許すさ。だってあいつは佐藤の籍には入ってないんだからね」
ちくりと恵美の胸は痛んだ。
「それでもよ。私は……もう……誰のものにもなりたくないの。だから、だから早く噂を消して欲しいわ」
「自分から積極的に消さないのにね、恵美?」
痛いところを突かれて、恵美はわずかに顔を歪めた。
「雅明さんには感謝してる。だけどそれは、ご近所さんだからでは駄目なのかしら」
「恵美は雅明に惹かれるのが怖い?」
「怖いに決まってる。あんたそっくりだもの」
貴明は目をぱちぱちとさせ、そうかなあと結婚指輪を光らせながら髪をかき上げた。
「確かに私は頼りないから、心配になるのはわかるわ。だけど……私は圭吾への想いがまだ渦巻いているの。雅明さんに惹かれるほどそれは強くなるの」
貴明に嘘は通用しない。いつだって貴明は恵美の心の動きを読んでいる。だから恵美は敢えて本音をはいた。隣の部屋から美雪が文句を言う声が聞こえる。穂高をなじっているようで、おそらく穂高だけなにか雅明が贔屓をしたのだろう。
「貴明の恋は……私への恋心は清算済みでしょう? だから思い切り麻理子さんを愛せるわ。だけど私は違う。ある日いきなり圭吾は消えた。愛し合っていたのに……突然圭吾は逝ってしまったの。ずっと探してるの、あの日からずっと圭吾を」
目を細める貴明に恵美は続けた。
「正人は許してくれた。家族愛しか返せない私と子供達を護ってくれたわ。正人にだって、他の女の人と幸せになる権利があったはずなのに」
「いや待て。あいつはちゃんと恵美を愛してたと思うよ」
「妹みたいにね」
貴明はそうじゃないと首を横に振った。
「妹だろうがなんだろうが、あいつが選んでやった事だ。気に病む必要はない」
「だって」
「親父への愛だって気にする必要はない。あいつは確かに強引だけど、結局はお前の幸せを望んでいたんだ。このまま一人ぼっちで過ごすお前なんか見たかないだろうさ」
「でも」
めずらしく貴明は言い続けた。
「僕が結局過去の後ろめたさから解放されたいんだと、思ってくれたって構わない。僕は恵美に酷い仕打ちをした。ずっと悔やんでいる。だからこそ幸せになって欲しいと強く思う。恵美はもっと愛されるべきなんだ」
「何言っちゃってるの?」
恵美は当惑した。旅行云々から話がずれてきてしまっている。
「恵美は人に与えてばかりだ。気づいてないの?」
そんなことはない。日々のみんなの優しさは愛と言えるのではないか。恵美はそう思ったが、貴明は違うようだ。
「見返りを必要としない愛は恐ろしい甘さを持つ。それにふさわしい相手が受け取ればいいが、そうじゃない相手が恵美を……と、思うと心配でたまらなくなる。雅明は十分に相応しいと思う。僕みたいに自分勝手じゃない」
「強引だけどね」
恵美の冷やかしに貴明は乗ってこず、唐突に話を変えた。
「昔、恵美は女の目をしていると言ったの、覚えてる?」
「……覚えてるわ」
十八の時、圭吾に恋したばかりの頃だ。
「今の恵美は、雅明に同じ目をしてる」
「…………」
「僕と違って、雅明には邪魔なものは何一つひっついてない。だから……あいつとのことを前向きに考えて欲しい。雅明から結婚していた話も聞いたね? あいつも真剣だ」
「貴明……」
子供達と雅明が部屋へ戻ってきた。子供達はお菓子の乗ったトレイを、雅明は飲み物の入ったボトルを手にしている。
貴明はそれきりそれについては話さず、しばらくして麻理子も戻ってきて、にぎやかなアフタヌーンティータイムになったが、恵美は心の底からそれを楽しめなかった。
視線を感じて顔をあげると、雅明が見ていて微笑んだ。
慌てて恵美は顔を伏せた。
雅明が本気なのはわかっている。
惹かれている自分も知っている。
それでも恵美は、無条件にそれを受け入れられない。
どうしよう、どうしようと気ばかりが焦った。雅明は宣言どおり必要以上には迫ってこなかった。手綱はもう恵美に握らされている……。
それから一月たったある日、恵美の貧血治療が終了した。医師から要観察だが、それでも普通の生活はおくれるだろうと言われ、恵美も子供達も喜び、麻理子や貴明がお祝いパーティーをしようと言い出した。
「パーティーなんて年じゃないんだけどな」
恵美がご馳走を作っていると、麻理子が笑った。
「みんな、騒ぎたいだけなんです。すみません」
「いえいえ……、本当にお世話になっているんですもの」
お寿司を作るためのご飯を炊いている土鍋からは、とてもいい匂いがする。麻理子は美味しいものが大好きで、電気がまを普段から使用していなかった。恵美などは後始末が面倒だから電気かまですませてしまうのだが。
「今日も美味しいご飯が……麻理子さん?」
唐突に麻理子がしゃがみこんだので、恵美はびっくりした。見ると顔色が青く、触れた肩はなんだか熱っぽい。
「ごめ……なさ…………。ちょっと、気持ち悪い……」
そのまま麻理子は床に倒れてしまい、様子に気づいた貴明が慌てて駆けつけてきた。そのまま二人は部屋を出て行き、恵美は心配しながらもご馳走だけは子供達と作った。
数時間後、嬉々満面の貴明と、顔色はまだ悪いが恥ずかしそうにしている麻理子が戻ってきた。
「麻理子さん寝てなくていいの? 働きすぎなんじゃ……」
恵美が椅子をすすめると、大人しく麻理子は座り目をそらした。恵美は貴明を見た。
「どうなの?」
「ふふ。ものすっごいラッキーサプライズなんだ」
「あんたね! 奥さんが具合悪そうなのになにがラッキーサプライズなのよ!」
恵美が怒ると、まあまあと雅明が割って入ってきた。
むふふふ……と、貴明はまた相好を崩した。気持ち悪いぐらいにこにこしている。
「あのね、麻理子は妊娠したんだ」
「ええ!?」
びっくりする恵美の声と、子供二人の歓声が入り混じった。
「来年の五月には生まれるんだよ。僕達の子供が」
恵美は改めて麻理子を見た。
麻理子は、顔を赤らめて恥ずかしそうにしている。
その姿はとても清らかなもので、自然に恵美は膝をついてやわらかく麻理子の両手を取った。
「おめでとう、麻理子さん」
「……ありがとうございます」
さらに恥ずかしそうに顔を赤くした麻理子は、唐突にあっと言った。
「どうなさったんです?」
「どうしましょう。明日からの新婚旅行……」
「中止に決まってるじゃないか。子供の方が大事だ」
「……楽しみにしてましたのに」
にべもない貴明に、麻理子は残念そうに肩を落とした。貴明も残念そうだ。しかし、すぐに何か良い事を思いついたらしく、立ち上がった恵美と雅明を見た。
恵美は嫌な予感がした。
そしてそれはすぐに的中する。
「じゃあさ、キャンセルするのはもったいないから、雅明と恵美で行ってきなよ」