天使のかたわれ 第08話
恵美は、飛行機の中でひどい頭痛に耐えていた。飛んでいるのはもうギリシャの上空で、機内アナウンスが着陸に備えてベルトを締めるように放送している。
エールフランス航空の旅客機で、東京からフランスのパリまで飛んで一泊し、パリのシャルル・ド・ゴール空港からギリシャのアテネにある国際空港を目指している最中だった。
「雅明さん起きてください。もう着陸だって」
恵美の隣で帽子を顔にかぶせて寝ていた雅明は、帽子を頭にかぶりなおし、寝ぼけ眼でベルトを締めた。
周りの客が、雅明の美貌に気づいてじろじろと見る。雅明は慣れているようで何も言わなかったし、態度にも表さない。いつもはひっそりとして存在感がない雅明も、さすがにせまい機内では目立っている。
窓から、コバルトブルーのエーゲ海とアテネの町並みが見えた。
「ギリシャは初めて?」
雅明が言った。
「ギリシャどころか、日本から出たのは始めてよ」
「なんでパスポートだけ持ってたの?」
「いろいろ事情があって、必要だったの」
無事に飛行機は着陸し、恵美と雅明はタラップを降りた。
影が濃い。
日本と違う、強い太陽の陽射しに恵美は立ちくらみを覚え、雅明にしがみついた。
「大丈夫か?」
「ごめんなさい……日差しが強いから。9月も末なのに暑いのね。夏みたい。日本も温暖化できついけど、ここはもっときついわ」
「地中海気候だからね。それに真夏はもっと暑いよ。それなのに観光シーズンは、観光客がで一杯になるんだ」
「もうオフシーズンなの?」
「夏のバカンスのシーズンではないね」
喋りながら、恵美は後頭部をしきりに撫でた。
ひどい時差ぼけだ。辛いとは聞いていたが、ここまでとは思っていなかった。バス酔いのような状態がずっと続き、しかも、疲れすぎて昨夜は眠れなかった。だから飛行機で寝ようと思っていたのに、今度はなれない浮遊感で眠れなかった。
今頃になって眠気が襲ってきて、とろとろと瞼が閉じてくる。
荷物を受け取った雅明が、自分と恵美の分のキャリーケースを引いてくれた。
「バスは運転が乱暴すぎるから、タクシーで行くよ。まだマシだから」
雅明はそう言い、空港を出てすぐにあるタクシー乗り場へ歩いた。そこは、先ほどまで一緒の飛行機だった客達と、その客目当てのタクシーでごったがえしていたが、雅明は恵美の手を引いて人ごみの中ををするすると歩いていき、目当てのタクシーの運転手と料金の交渉しはじめた。いくつかのやりとりで交渉が成立すると、運転手がトランクに二人のキャリーケースを積み、恵美と雅明はタクシーに乗り込んだ。
市街地へ向かうバスを追い越し、タクシーは進んでいく。
運転手は、典型的な東洋人顔の恵美が気になるらしく、雅明に英語で話しかけた。
「よお、このお嬢ちゃんどうしたんだい? 時差ぼけか?」
「そうだよ。日本との時差は7時間あるからな。海外は初めてだし、飛行機は乗り継いで15時間程乗ったかな。フランスからここまでは5時間」
「そうか。このお嬢ちゃんは日本人か。日本人は大歓迎だぜ」
「私も日本人なんだが……」
「へえ? どう見ても西洋人だぜ?」
「よくそう言われる」
疲れている恵美は、運転手のお嬢ちゃんという言葉にいらいらした。
「静かにしてくださるかしら?」
滑らかな恵美の英語と大人の声に、バックミラーの運転手は目を見開いた。
「あんた、お嬢ちゃんじゃなかったんだな。マダムだったんだ」
「…………」
日本でも背の低さから子ども扱いされていたが、ここでもそれが続くのかと、恵美は余計にぐったりとした。恵美から見たら、西欧人が年を取って見えるから、お互い様なのかもしれないが……。
「恵美さんは英語が上手だね」
雅明が言う。調べているくせにと恵美は余計に腹が立ち、黙り込んだ。
それきり車内は静かになった。
恵美は外国語科の大学で英語を専攻していたから、英語が話せるし理解できる。片手間だがずっと翻訳の仕事もしていたし、英語力は落ちてはいなかった。
(ああでも……、本当に来るなんて私ってばどうかしてる)
恵美は二日前の出来事を思い出していた。
本来、今ここに居るのは麻理子と貴明のはずだった。しかし、旅行前日に麻理子の妊娠が判明し、行けなくなってしまった。そのままキャンセルで済ませばいいものを、もったいないから雅明と恵美がかわりに行ってきてくれないかと、貴明が言い出したのだ。
恵美は当然断った。
「な、なんで私がこの人と旅行なんかに。第一、美雪や穂高がいるのにのんきに旅行なんて……」
美雪はまだ小学4年だし穂高は年中だ。子供をだしに断ろうとすると、美雪が言った。
「別にいいよ。お母さまのかわりならナタリーさんがいるし、みんな居るから」
「うん、僕も別に……少しくらいなら」
穂高もうなずいた。
何を言うんだと慌てる恵美に、貴明がダメ押しのように言う。
「二人の事は心配ない。屋敷の中にいたら二人も寂しく無いしね。恵美は安心して旅行に行ってきてくれ」
「私、パスポートなんてないわよ」
「うそばっかり、これは何だ?」
なぜか雅明が恵美のパスポートをひらひらさせている。恵美はぎょっとした。引き出しの中にしまっておいたのに、いつの間に見つけたのだろう。
「返して!」
雅明の手から取り上げようとしたが、雅明はパスポートを持っている手を高く挙げた。
「一緒に行こうね」
雅明は、貴明と同じ顔でにっこり笑った。
予約してあったホテルは格式高いホテルだった。貴明と麻理子が泊まる予定だったのだから、当然そういう所になるのだろう。
きらびやかなロビーの先にあるフロントで、数人居るフロント係が上品にやわらかな物腰で対応している。
だが、恵美の前のオランダ人までは普通に対応していたフロント係の女は、番になった恵美を見た途端に態度が変わった。あきらかに差別で見下した目で、邪険に予約確認を始める。恵美は疲れていてそれには全く気付かなかった。さっきまで穏やかに話していたのに、早口でペラペラと話すフロント係の女に、恵美は滑らかな英語で返す。
すると、それが気に入らなかったのか、そのフロント係は横柄に言った。
「宿泊予定のお客様は、マリコ サトウ では? ほかをお当たりください」
その不遜な態度は、いかにも西洋人の東洋人に対する差別の態度だった。
後ろにいた雅明が、恵美に代わってフロント係の女の前に出る。フロント係の女は雅明の登場にわずかに鼻白んだ。
「変更は、すでに日本から連絡してあるはずだ」
「承っておりません」
フロント係はつんと鼻をそらした。
ふうと雅明は大きなため息をついて、掛けていたサングラスを外し、冷たい茶色の視線をフロント係の女へ鋭く投げかけた。フロント係の女は雅明の顔を見て、はっとしたように顔を強張らせた。美貌のせいではないのはあきらかだった。
「残念だな。ここのホテルは私の住んでいるベルギーでも、日本でも素晴らしいホテルと聞いていたが、こんな質の悪いフロント係を雇っているようでは、この先が思いやられる」
周りの客もほかのフロント係も、二人のやりとりに注目している。それでもフロント係の女は謝罪をしない。
そこへ、ホテルのオーナーが飛んできた。
「一体どうしたんだ?」
フロント係の女は、ふて腐れて何も言わない。注意深く周囲を見渡したオーナーは、雅明を見た途端に顔色を青くした。
「あ、あなたは……、シュレーゲルの!」
ふっと雅明は笑った。
「そこの世間知らずの馬鹿なフロントが、私の連れを侮辱したんだが? ここのホテルの教育はなっちゃいないようだな。日本へ帰ったらアクセルに言っておいてやろうか?」
「どうかそれだけは」
ありえないぐらい頭をさげるオーナーに、フロント係の女は悔しそうに唇を噛み締めた。
「ここにいる恵美は、アクセルの大切な友人なんだぞ? こんな扱いを受けたと知ったら、あいつは怒り狂うだろうね」
「どうかそれだけは」
同じ事を繰り返すと、オーナーはそのフロント係の女を叱りつけた。
「アネモネ、謝罪しろ! このホテルの格を下げる気か?」
アネモネと呼ばれたフロント係の女は、仕方なくと言った感じで頭をさげた。
「失礼いたしました」
雅明は怒りがおさまらない。
「私ではなく彼女に謝罪をしろ」
雅明の目は、猛禽類のような恐ろしい目に変わっていた。恐ろしい殺気に射抜かれて、アネモネはようやく自分の過ちに気付き、震えながら低く頭を下げて謝罪した。
「もういいじゃない。何でそこまで……」
「舐めた態度取るような奴は許しちゃいけない。このヨーロッパで、日本の事なかれ主義は馬鹿にされるだけだ。悪いことは悪いとハッキリさせておく必要がある」
雅明は、英語で周囲に聞こえるように話した。ホテルのオーナーがますます萎縮する。
「そりゃそうかもしれないけれど、もういいじゃない」
日本語で言う恵美に、雅明はやはり英語で返した。
「恵美はお人よしだ。」
恵美は謝罪などどうでもいいから、早く部屋で眠りたかった。
周囲での客達が囁きあっている。
『マサアキ イシカワ』『サトウグループ』『アウグスト』『アクセル』『シュレーゲル』『ソルヴェイ』と囁く声がする。
(……アウグスト? アクセル? シュレーゲル? おまけにソルヴェイってなんだろ?)
恵美は、聞き慣れない言葉を不思議に思った。