天使のかたわれ 第10話

 ──ごめんね、正人。ごめん……私は。

 ──いいよわかってる。だからそんな顔するな。俺はお前の事ならなんだってわかってるんだから。

 ──……私、どうしても圭吾が忘れられないの。

 何度も何度も繰り返された光景。夢の中で恵美は正人に謝り続ける。生きている間は子供達が寝た後。亡くなってからは夢の中。

 正人は圭吾の子供である美雪も、貴明の子供である穂高も自分の子供として扱ってくれた。そして二人も父として慕っていた。

 なのに、恵美は夫として正人を愛せなかった。彼女にとって正人は兄として、父としての存在で、男としては存在し得なかった。身体を重ねたのも数回だった。もっともそれは、正人が結婚後数ヶ月で白血病を患ったせいもある。発病後、正人は急激に病に蝕まれていった。

 病の苦しみの中でも、正人は恵美のよき理解者であり家族として、太陽のように恵美を励まし続けた。

 ──ほら、そんな泣きそうな顔をしていると、圭吾さんが怒るぞ。

 ──ははは。圭吾さんも天国で笑ってるだろうね。

 そして、死ぬ前に正人は苦しい息の下で言った。

  ──恵美、俺が死んだら、佐藤のもとへ行けよ。もう、あいつにしかお前をまかせられるやつはいないから。あいつと二人で約束したんだよ、恵美の家族で居続けるってな。俺は残念だけど、もう無理だからさ……。頼むよ。圭吾さんもそう望んでると思うし。

 恵美が絶対に行かないというと、困ったように笑った。

  ──じゃあ……。天国に行ったら、圭吾さんに行かせるようにしてくれって頼むかな……。

 

 正人の微笑みと共に恵美は目を覚ました。あれからホテルに連れ戻された恵美は、雅明にしきりになだめられて、昼寝をさせられたのだった。

 だが、雅明の姿はなかった。

 なんとなくため息が出て、恵美は天井を仰いだ。

 両親の突然の事故死で、すべてがぐちゃぐちゃになったような気がする。それを静かに支えてくれたのは、正人だった。貴明との仲を勘違いしてうまくいかせようとしてくれたのは参ったが、貴明と圭吾のいさかいを冷静に見て、恵美の幸せをいつも見守ってくれていた。

 貴明はああは言ったが、どうしても正人に対する引け目がある。正人が望んだとしても、やっぱり結婚はすべきではなかったのではないかと思ってしまう。

 すべてはいまさらだが……。

 寝室を出て、リビングのバルコニーに出ると、ゼウス神殿の柱がいくつもの建物の向こうに見えた。パルテノンの柱とは違う、ローマ式の優美なその柱を見て、恵美は無性にその場所へ行きたくなった。

 服はそのままだったので、恵美はバッグを掴むとカードキーを持ち、エレベーターで1階まで降りてフロント係に渡した。すると、奥から昨日のアネモネというフロント係が私服姿で現れた。

 アネモネは、一人一人に頭を下げている。

「お世話になりました。失礼します」

 ほとんど無意識に、恵美は、グレーのシャネルのスーツを着たアネモネの後ろ姿を追いかけていた。しかし、道が観光客でごった返している上、アネモネは足が早く、捕まえられたのはホテルからとても離れた場所だった。

「待って! アネモネ……」

「?」

 アネモネは呼び止めたのが恵美と知ると、思い切り顔をしかめた。

「なあに? 私をクビにしただけでは足りないって言うの?」

「……クビになったの?」

「そうよ。あんたに対する接客の悪さのせいでね。どこかの誰かがご丁寧に タカアキ サトウに連絡したらしいわよ。即刻クビだって。ご満足?」

 あざ笑うように、アネモネは恵美を見下ろした。

「満足よ……って、言ってほしいの?」

 おどけて恵美が言うと、鳩が豆鉄砲をくらったかのように、大きく開かれたアネモネの両目と口を見て、恵美は心の底からおかしくなり大笑いした。

 笑い続ける恵美を見て、アネモネは腹ただし気にため息をついた。

「もう! なんなのよ!」

「しっ失礼! あんまりおかしかったもんだから……はは!」

 アネモネは毒気を抜かれたのか、傍にあったベンチに座り込み、しばらくプラチナブロンドの頭を抱え込んでいたが、やがて上半身を起こした。

「変な人ね。嫌がらせをした私に声をかけてくるなんて」

 ふてくされているのが、なんとも好ましかった。

「だって気になるんだもの。そんなに日本人が嫌いなのはどうして?」

 心底不思議そうに聞く恵美に、アネモネは日本人だからじゃないと言った。

「貴女が、メグミ・オサナイだったからよ」

「私をずっと前から知ってるように言うのね」

 アネモネは、ふふっと笑った。

「貴女、一時期、タカアキ・サトウの恋人だったんでしょ? でも直ぐにケイゴ・サトウのものになった」

「どうしてそんなこと……」

 遠く離れたギリシャで知られている事実に、恵美は胸を冷やした。するとアネモネは、知っているのは、オーナーと自分だけだと言った。

「一度だけね、タカアキがうちのホテルへ来た事あるの。今から10年前になるわね……。彼、本当にプリンスのように美しいでしょう? 一目で好きになったの」

「そう……なの?」

 突拍子も無い話で、今度は恵美が豆鉄砲をくらったような顔になった。それを見て、今度はアネモネが大笑いをした。

「でもね、タカアキは失恋したばかりだから、当分恋愛には興味は無いからって相手してくれなかったのよ。悔しかったわ。これでも言い寄る男は沢山いるのよ?」

 確かにアネモネは、ギリシャ彫刻で見かけるような抜群のスタイルと、美しい顔を持っている。

「滞在中は熱心に口説いたわ。全然相手にしてくれないから、余計にムキになった。そんなある日、彼のパソコンに貴女が映ってるのが見えたのよ。貴女とタカアキが……」

 恵美は切ないアネモネの表情に、何も言えないまま相づちを打った。

「直ぐに負けたと思ったわ。敵わないって思った。私は貴女みたいに微笑めないから……」

 アネモネは黙り込み、恵美はアネモネの為に、近くのキヨスクでミネラルウォーターを購入して、ふたを開けて渡した。石畳の向こうの車道は、相変わらずひっきりなしに車が流れている。

「ありがとう……」

 アネモネは微笑んだ。

 しばらくアネモネは黙っていたが、再び話し始めた。

「タカアキが帰国した後、オーナーに貴女の事を聞かされたの。タカアキは義理の父親に恋人を取られたのだって。それを聞いて、ますます敵わないって思った。あんないい男達に愛されるなんて、相当な女って事でしょ?」

 恵美ははずかしくなってきた。

「ばか、二人の女の趣味が変なだけよ」 

 アネモネは、謙遜する恵美を馬鹿にするような目で見た。

「日本人は自信が無いってホントみたいね。謙遜なんて私の辞書には無いわ」

「だ……、だって」

「二人とも極上の男だわ……。あのタカアキに、うちのホテルの連中がどれだけ夢中になったかわかって?」

「……極上とは思えないわよ。二人とも俺様で強引で我がままだったもの」

 アネモネは、わかっているわとうなずいた。

「命がけで愛したらそうなるわ。愛は傲慢なものよ」

 恵美には理解しがたかった。無理に奪われた当時は、恵美には二人は恐ろしいだけだった。

「……アネモネの方が、二人に合ってたような気がする。とても寛容だもの」

「二人は見る目がなかったのかもしれないわね」

「言うわね!」

 二人は笑い合った。

 観光客を相手にしている、大きなタベルナ(居酒屋に近い食堂)に恵美は誘われた。もう午後も六時を回ろうとしていた。

 各々のテーブルに美しいテーブルクロスがかけられ、ランプの火が灯されている。店内も店外も観光客で賑やかだった。深夜になると芸人がやってきて、音楽だ、歌だ、踊りだと、さらに賑やかになるらしい。

 二人とも軽いお菓子と飲み物を頼んだ。

「それより、会社を辞めさせられたって……」

「気にする必要はないわ。もともと今月中に辞めるつもりだったのよ。結婚するから」

 アネモネは明るい笑顔で、さらっと言った。

「結婚?」

「そう、6月にプロポーズされてね。相手も私にべた惚れなもんだから、受ける事にしたの」

 辞めさせられた事実は変わらないのに、アネモネはまったく気にしていないようだった。

「お、おめでとう……」

「ありがとう」

 アネモネはジュースを飲んだ。

 ふと時計を見ると、ホテルを出てからずいぶん時間が経っている。すぐ帰るつもりでいたためメモを置いてこなかった。雅明が心配しているに違いない。鞄の中にあるスマートフォンを取り上げて見てみると、着信の嵐だった。マナーモードにしていて、まったく恵美は気付かなかった。

「ごめん、ちょっと電話していいかな?」

「電話? マサアキに?」

「うん、黙って出てきたから」

「彼も貴女に夢中よね」

 さばさばとした口調でアネモネは言い、自分の注文したサラダセットのクラッカーにチーズを載せて食べた。

 電話に出た雅明はかんかんに怒っていた。

『どこにいるんだ? まだ体調が万全でないのに一人で出歩くなっての!』

「ご、ごめん……。アネモネと、ホテルから北に百メートルほどのタベルナにいるの」

『アネモネって、あのムカつくフロント係か?』

 大声で雅明が言うので、スマートフォンから丸聞こえだ。日本語だったのにニュアンスで分かるのか、アネモネは面白くなさそうにふんと鼻を鳴らした。

『そこ動くなよ、今すぐ行くから』

「わかったわ」

 スマートフォンを鞄にしまっていると、アネモネがおかしそうに笑った。

「愛されてるわねえ」

「そうかしら……」

「あら、複雑な事情がありそうね」

「……私はもう結婚する気はないし、恋もしたくなかったの。子供二人とひっそり生きるつもりだったわ」

 それなのに、雅明はそんな恵美の心に押し入ってきて、めちゃくちゃにかき乱してしまうのだ。それを止められず、またそれを求めている自分がいることにも、恵美は猛烈な自己嫌悪を覚えた。

「……メグミはいくつなの?」

「29歳」

「女はこれからよ。そんなに早く枯れてどうするの?」

 恵美は首を振った。

「母として生きるって決めていたのよ。誰も好きになったりしない。したくない……だけど」

 もう二度と会わない異国人だ。恵美は本音を吐いた。アネモネがにやにやと笑った。

「……ま、今のそんな貴女を見たら、大体の男はころっといかれてしまうんじゃないの? 儚げで折れてしまいそうで、女の私でも庇護欲そそられるもの。計算してないところがドツボすぎるんじゃない?」

「あのね……」

 言い返そうとした時に、肩をぐいと捕まれた。雅明だった。

「あら、ものすごく早いのね。すさまじい愛の力だわ」

 アネモネはそんな恵美に、紙にさらさらと何かを書いて握らせた。

 雅明はアネモネには目もくれない。

「帰るぞ」

 腕をつかまれる。恵美は黙ってうなずいた。

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