天使のかたわれ 第12話

 次の日の朝、恵美は雅明の腕の中で目覚めた。カーテンの色が浮き上がって明るい。今日もいい天気になりそうだ。

 目の前で雅明がすやすや眠っていた。銀色の長め前髪が顔にかかり、繊細で神秘的な美しさだ。

(癒す女……か)

 私は何も持っていないのに、と恵美は思う。十人並みの自分に、何故雅明が執心するのかわからなかった。似たような女なら大勢いる。

 ――運命の女。

 そんなものではない。

 雅明の腕から自由になろうとみじろぎすると、雅明が目覚めた。恵美を薄茶色の瞳に映し、にっこり笑う。

「おはよう……恵美」

「おはよ……」

 雅明の手が恵美の頬にのびた。

 今日から2泊3日のバスツアーだった。

 ツアー会社の前にバスが停まり、そこが集合場所になっていた。ホテルのすぐ横だったので、坂道だらけの街中を歩く必要は無く、恵美は楽でよかった。

 もうバスは到着しており、ツアー客がバスに乗り込んだり、バスの横でおしゃべりしたりしている。

 その中に見覚えのある女がいた。

「アネモネじゃないの」

 アネモネはタンクトップにジーンズという格好をしていて、恵美の声に振り向いて笑顔で近寄ってきた。

「昨日連絡先を渡したのに、電話してきてくれないんだもの」

 そう言えば帰りがけに紙切れもらっていたが、上着のポケットに入れたままだった。

「なんでお前がここにいるんだ」

 雅明は不機嫌そうだ。アネモネはからかうように首をすくめた。

「私も行くのよこのツアーに」

「なんだと?」

 バスを見上げている恵美に気づかれないように、アネモネは低く囁いた。

「大事な恵美が無茶されないようにね。貴方強引そうだもの」

 雅明は舌打ちし、アネモネの後ろにいる、気の弱そうな背のひょろ長い、赤毛の黒ぶち眼鏡の男をじろりと見た。

 男は感じのいい声で挨拶してきた。

「初めまして、アネモネのフィアンセで、ラウル・クワイナーです」

「石川雅明です……、北欧の方ですか?」

 クワイナーというのは、北欧の人々に多い姓だった。

「いいえ、アメリカ人です。もっとも先祖は北欧でしょう。でも、アネモネにつかまってしまいましてね、今度はギリシャ人になります」

「名前で見抜けなかったのか……。しつこいぞこの女は」

「僕は蜘蛛が好きなんです」

 ラウルがそう返し、雅明はますます不機嫌になった。

 バスの座席は恵美とアネモネ、雅明とラウルという組み合わせになり、いちゃつきたかった雅明は深い深いため息をついた。女達のはしゃぐ声を聞きながら、雅明は持ってきたペットボトルをバッグから取り出して、ミネラルウォーターを飲んだ。

 だがこれで良かったのかもしれない。アネモネの姿を見るまで、恵美はどこか困った顔をしていた。そうさせてしまったのは自分だった。

(貴明の事は言えないな。私も好きなったら何も見えなくなる)

 そういえば、昨日は日本に連絡していなかった。

 スマートフォンで貴明のナンバーを押すと、何回かの呼び出し音の後、貴明の声が響いた。

「やあ、おはよう」

『こっちは夕方なんだがな。恵美は元気か?』

「元気だ。美雪ちゃんと穂高は? 麻理子さんは元気か?」

『二人とも元気だ。昨日、恵美の電話でずいぶんはしゃいでたぞ。麻理子は……、食い気だけは一人前のお嬢様だから』

 だろうなと思いながら、雅明は話を転じた。

「シュレーゲルから、何か言って来ないか?」

『なんでそんな事を聞く?』

「お前に惚れてたホテルの女が、ツアーに乱入してきた」

『ああ、アネモネか。無害だろう。そんなことよりお前、恵美との事早くけりをつけろよ。そうでないと恵美をますます傷つけてしまいかねない。相手はギリシャに来てる。接触を目論んでいるようだから気をつけろ』

「ミケーネにいるんだろ? 私たちはこれからデルフィだ。方角が違う」

『油断は禁物だ』

「……だな。もう切る。麻理子さんと仲良くな。じゃ」

 通話中にバスは動き出していて、アテネ市内を抜けようとしていた。ツアーガイドの説明する声がいやに耳障りだ。ざわめいているバスの車内で、自分を伺っている気配を雅明はずっと感じている。

(ツアー客の中にも、入り込んでいやがるんだからな)

 隣の男も油断がならない。今の会話もわざと聞かせてやったのだ。

 しかし、ラウルは知らん振りをしている。演技だと雅明はわかっていた。

 雅明の持っているシュレーゲルの情報網は、ヨーロッパ全体をほぼカバーしている。アネモネもこの男もとある組織の一員なのは、ホテルでのいさかいの後すぐにわかった。何を目当てに接触してきたのかわからないが、とにかくこうなってしまった以上、彼らと旅を続けるしかない。気をつけるべき男とはまったく関係がなさそうなので、それだけは安心できるが……。

 

 バスは狭い一本道を走っていく。景色は、地肌の見える山に、低いオリーブの木が生えているだけのものになった。ときおりすれ違う車があるだけで民家はなく、開けられた窓からは清涼な風が入って心地いい。

 恵美は前の席から雅明に振り向いた。

「今日はどこに行くの? さっきのガイドさんのお話聞いてなかったのよ」

「デルフィさ。紀元前に繁栄を極めたアポロン神殿跡があるところ」

「ふうん。大きな街なの?」

「今は田舎だよ。なんにも無いとはいわないけど……、日本だったら山奥のど田舎みたいな感じだね」

「ふうん……」

 禿げた山に緑が多くなり、その緑に突っ込むようにくねくね曲がる山道の中を、バスはよたよたと進んでいく。やがて少しだけ開けた山の斜面に、デルフィの遺跡が現れた。

 バスは道路で止まった。駐車場がないので、観光客たちを降ろしたら近くのホテルの駐車場まで行くらしい。時間が来たら戻ってきて、再び観光客たちを乗せていくのだった。

 アネモネは、むき出しの肩の上にカーディガンを羽織った。

「ギリシャの田舎は女が肩を出すだけで、破廉恥に思われるの。アテネのようにはいかないのよ」

 不思議そうに見た恵美に、アネモネはそう言って笑った。どこの国でも田舎は厳しいらしい。

 恵美がバスを降りると、雅明が恵美の手を握りしめてきた。

「ちょっと……」

「はぐれないように。恵美はおっちょこちょいだから」

「人を子供扱いして!」

「だってアクロポリスでは、いきなり幻見ていなくなったろ?」

 遺跡の石ころだらけの坂道を、観光客は細い蛇のように連なって登っていく。雅明は石ころに蹴つまずいた恵美を支えた。

「ほらほら、ぼんやりはいけないよ」

「ごめん」

 アポロン神殿があったという場所は崩れ果てていて、大理石の崩れた柱が6本立っているだけだった。どこもかしこも破壊されたとしか言いようがない崩れっぷりで、当時の繁栄振りを想像するのは難しかった。

「アポロンは、ギリシャ神話で予言の神って知ってる?」

「うん」

「昔はね、ここは世界に中心として繁栄していたんだ。アポロンの神託を告げる巫女がいて、その神託を求めて富豪達がわんさか押し寄せてね。でも栄枯盛衰は常で、4世紀に入る頃には壊滅状態で、19世紀に考古学者達に発掘されるまで土の中にこの遺跡は眠っていたんだよ」

「ふうん……よく掘り出せたものね」

 二人は一番上まで登り、劇場跡で腰をかけた。アネモネ達とは途中ではぐれてしまった。

 天気は曇りだったので近くの山が見えるだけだったが、それでも澄んだ空気が広がっていて気持ちがいい。

(圭吾、私、貴方の来たがってた所にいるよ……)

 恵美は心の中で圭吾に語りかけた。

 五年前、二人はギリシャ旅行を計画していた。圭吾は古い遺跡が好きで、やっとギリシャに行けると嬉しそうだった。何故そんなに行きたいの? と恵美が聞くと、圭吾は星座が好きだからと恥ずかしそうに言った。

 ――私の母親は、一部屋しか無いアパートにしょっちゅう男を連れ込んでいてな、男に抱かれている間は私は外に追い出された。夜はよく星が見えて……つなげるといろんな形になって……、それが星座と呼ばれていると知り、本で神話を読んでわくわくしたな。

 ――夜に外にいて辛くなかったの?

 ――だから、星が出ている夜はうれしかった。自分は雄大な宇宙に抱かれていると感じて。ああ、やっと行けるんだな、楽しみだ……。恵美、お前もきっと好きになる。

 だがその数日後、圭吾は交通事故で帰らぬ人となった。旅行の準備もパスポートも、そろえて部屋の隅においてあったというのに……。

 恵美は持っていたカメラで、劇場跡を撮ろうとして構え、ぎょっとした。

 ファインダー越しにまた幻が見えたからだ。

「え?」

 慌てて恵美はカメラを下げた。

 圭吾が自分の方へ向かって歩いてくる……。恵美は無言で雅明のシャツの袖を引っ張った。

「どうした? って……え?」

 雅明も目を見張る。

 切れ長の黒い瞳と貴公子のような端正な顔立ち、そしてずば抜けた長身……。圭吾は二人の視線を気にしていないのか、近くまで来るとさっきまで二人がしていたように景色を眺めている。

「う……そ…………」

 心の底から熱いものがこみ上げてきて涙となり、恵美の頬を濡らした。あんなにも逢いたがっていた恋人が目の前にいる。生きている限りはもう二度と逢えないはずの、相手が。

「圭吾っ!」

 気がついたら恵美は、その圭吾の胸に抱きついていた。

 とても温かい……間違いない。この人は生きていた。死んでいなかった。……隠れて生きていた!

 逢いたかった。貴方にとても逢いたかった。

 恵美はうれしくてうれしくて、声も出さずに圭吾を抱きしめたまま泣き続けた。圭吾は優しい顔で見下ろして、恵美の頭を撫でている。

 雅明は何も言えず、唖然とした顔で二人を見ていることしかできない。

「どういう、事だ……────?」

 風が強く吹きこんできて、雅明の頬をさらっていった……。

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