天使のかたわれ 第13話
ひとしきり泣いて恵美は圭吾を見上げた。
「どうして今まで姿を隠してたの? ひどいわ」
子供のように拗ねる恵美に、圭吾は申し訳なさそうに笑い、そっと恵美の腕を解いた。
「すみません。私は圭吾ではありません。
恵美は、初対面の人間に抱きついた自分が恥ずかしくなり、顔を真っ赤にした。
しかし良く似ている。
「そんな話は聞いた事は無いが」
驚いている恵美の後ろで雅明が言うと、奏は雅明の方へ向き直った。
「石川雅明さん。それとも、ヘル・シュレーゲルと申し上げた方がよろしいか? わかりやすい嘘はおよしください」
「……恵美、そいつから離れろ」
見えない火花が散っているのと、幻が現実化したせいでぼうっとしていた恵美は、はっとして奏から離れた。
そのまま雅明の腕の中に、そっと囲われる。
「ずいぶんな嫌われようですね。日本でも散々邪魔してくださったようで」
「何の話だかわからないな」
「貴方方はいつもそうやって、私を退ける。仮にも叔父ですよ?」
「我々は認めていない。行こう恵美」
「行けるものならどうぞ」
奏は余裕の笑みを浮かべている。なんだかおかしい。雅明は何を怒っているのか、また焦っているようにも見える……。
「…………っ」
行こうといったくせに、雅明は足を止めた。行く手を阻むように、美しい白人女性がそこに立っていたからだ。
雅明が息をのむ。
「お前……エリザベート」
「お久しぶりね」
エリザベートと呼ばれた女性の後ろには、数人の男たちが立っていた。服装はさまざまだが、エリザベートに従っているのは目にも明らかだった。
「仕組まれていた……ということか」
いつの間にかアネモネとラウルがいた。異様に場は緊張している。恵美は敗北の表情を浮かべる雅明に、何かよからぬ出来事が起こっているのだと悟った。
ツアーはエリザベートが勝手にキャンセルし、二台で来た高級車に恵美と雅明は別々に乗せられた。ラウルとエリザベートと雅明、アネモネと恵美と奏という具合に……。
恵美は前を走る車で、やたらとエリザベートが雅明にしなだれかかるのを、不快に思う自分が嫌だった。奏を圭吾と間違えて抱きついたくせに、あつかましいと思う。辛くなって視線を山々に転じた。
一体どういうことなのだろう。どうもアネモネたちは意図を持って、恵美たちに近寄ってきたようだ。まるでこの奏に頼まれたかのごとく。二人は初対面という感じではない。
それにしても、さっきから隣に座る奏の視線が気になって、どうも落ち着かない。兄と間違えて抱きついた女だから、興味しんしんなのだろうか。そういえば人違いを謝っていなかった。
「あの、圭吾と間違えて……その、初対面の方に抱きついたりして、すみません」
「気にしていません。誰もが兄にそっくりだと言いますから」
やっと視線が合ったとばかりに、奏はにこりと笑った。
「私……、圭吾から貴方のことを聞かされてなかったもので、今まで存じ上げませんでした」
「そうですね。佐藤さんとは……。まあ、あとでゆっくり話しましょう」
もったいぶっているのか奏はにこにこ笑うだけで、どうでもいい話しかしなくなった。
ホテルに着いたら、雅明に聞かなければならない。
恵美はそう思い、鞄の持ち手を握り締めた。
ホテルは宿泊予定だったホテルだったが、部屋はキャンセルされて、恵美はシングルの部屋に一人で入った。朝まで恐ろしく贅沢なスイートに居たので、なんだか異様に狭く思える。昼になっても誰も来なかった為、恵美は仕方なく一人で一階のレストランへ降りた。すると、手前のエレベーターから雅明とエリザベートが降りてきて、恵美に気づかないままレストランへ入っていった。
入ろうかどうしようか迷っていると、アネモネが現れた。
「まあここにいたの恵美。そこのレストランは美味しくないから、外のタベルナの方がいいわよ」
「え……でも」
「美味しくないものにお金を払うなんて、もったいないわ。ああ、カナデ、いいところへ来たわ。恵美と一緒に外のタベルナへ行きましょうよ」
示し合わせたかのように奏が現れ、三人で外へ出ることになってしまった。
ホテルの外はアテネと違って、ひっそりとした町が広がっていた。本当に田舎だ。観光客相手の土産物屋が少しあるだけで、あとは民家が立ち並んでいる。
「シーズンオフだから、店じまいしてる家が多いのよ。ああここよ」
アポロンという看板が下がっている小さなタベルナへ、アネモネに誘われて恵美は入った。中には数人の地元の男たちが居るだけで、ひっそりとしている。ものめずらしそうに三人をじろじろと見てきた。
ウェイターと思しき中年の無愛想な男が現れ、注文をアネモネがすると、男はすぐに厨房へ引っ込んだ。
「これだから田舎は嫌なのよね。愛想を振りまくのは近所の連中だけなんだから」
英語で話していたアネモネが、言葉を日本語に変えたので恵美は驚いた。
「日本語を話せたの?」
「まあね」
しばらく経ってから運ばれてきた料理は、あまり美味しくなかった。焼かれた牛肉はこれでもかと酸っぱいソースがかけられているし、パンはぱさぱさだった。サラダも新鮮さがなく、水気がない。
「これが、うちのホテルよりおいしいんですか?」
それまで黙っていた奏が、もう食べたくないとばかりにフォークとナイフを置いた。
「だって、あそこへ恵美が行ったら、ややこしくなるじゃない」
「それなら時間をずらせばよいだけでしょう。ね? 恵美さん」
「あ……えっと」
いきなり名前で呼ばれて、恵美は戸惑った。
「私のことも奏と呼んでくださって、かまいませんよ」
「まあ、カナデってば強引ね」
「アネモネ……。仙崎さんと知り合いなの?」
「共にシュレーゲルに依頼された関係ですよ、恵美さん」
アネモネがこたえる前に奏が言ったので、アネモネは眉をわずかに吊り上げた。
「ちょっとカナデ。私と恵美の友情に割り入って来ないでよ」
奏は肩を竦めて笑う。
「友情……ねえ? わざとらしい接触で親しくなった仲にですか?」
「どちらにしろ私は、恵美に興味があったわ。依頼がなくても声はかけていた。だって、ずっと気になっていたんだもの」
アネモネは奏を睨み付け、恵美に本当よと言ったが、依頼で接触してきたのだと思うと、今のこの状況がひどく作られたものに思われ、すぐにホテルの部屋へ逃げ帰りたくなってきた。
(そうだ、ホテル……)
恵美ははたとした。
「あのホテルは、貴方のホテルなのですか?」
奏に聞くと奏は頷いた。
「ぼろぼろだったのをつい最近買い取ったんです。よくなりましたよ。ああ、私はホテル業をしています。仙花グループというのですが、ご存知ありませんか?」
「いえ、私は旅行をめったにしませんから、ホテルにも泊まりませんので」
「それは残念です」
奏は唯一口にできる、運ばれてきたコーヒーを口にした。圭吾とは違って、なにもかもがやわらかい印象を受けるが、それがかえってこの男を冷たく見せた。
一体この男のどこが、圭吾に似ているというのだろう。
恵美は自分が愚かしく思えた。
(馬鹿ね、死んだ人間が生き返るわけがないというのに)
そして、雅明の言うとおりだった。もっと用心深く行動しなければ。雅明には隙がないから、自分にターゲットを絞られたのだろう。
「雅明さんに何をする気なの?」
「何も悪いことなんてありませんから、ご安心なさい。彼の一族のシュレーゲルから、悪い女に誑かされているから、ドイツへつれて帰って来いという依頼があったから、アネモネ夫妻が動いただけです」
「本当なの?」
恵美がアネモネに聞くと、アネモネは頷いた。
「奏。仕事内容をばらすのは契約違反よ。何を考えているの?」
「雅明さんの熱愛の人だ。知る権利があるでしょう? 意味もわからず引き離されたら、気の毒ですから」
「どうだか。恵美、この男の言うことを真に受けないことね。何を考えているやら」
「その言葉はそっくりお返ししますよ。マフィアの組織にいるような女を信じるなんて、愚かしいことですから」
恵美はやっぱりこうなるのだと、暗い気持ちを抱えた。
悪い女とは確実に自分のことだ。
おそらく、恵美と雅明を引っ付けようとしているのは、貴明だけなのだ。他の人間は反対しているに違いない。母親のナタリーが積極的に引き離してこないのは、貴明の時の大失敗を繰り返さないためなのだろう。
寂しい思いが恵美の胸を満たした。
好きになりかけたばかりでよかった。今ならきっと、諦められる。
そう思うのに、胸がやたらと痛むのは何故なのだろう。
浮かない表情を浮かべる恵美に、アネモネが言った。
「ねえメグミ、マサアキはやめたほうがいいわ。あんな一族の一員じゃ、一般家庭の貴女は苦労するばかりよ。最低でも、マリコのようでなければ……」
「わかってるわ」
「シュレーゲル一族を知らない者は、このヨーロッパではいないわ。経済界はおろか、政界にも力を伸ばしているんですもの」
「そう」
「日本のサトウグループも大きいけれど、規模が違いすぎるの」
「……もういいわ」
心配そうなアネモネの態度が、一番胸をえぐって耐え難い。きっかけはどうであれ、彼女は信頼できる人だろう。でも今は誰とも話したくない気分だった。
「私はどうすればいいの?」
「観光を続けたければ、ツアーを組むわ。費用はシュレーゲル持ち。マサアキはこれからドイツへ強制送還よ」
とてもこのまま観光を続ける気などなれない。今すぐにでも日本へ、恵美は帰りたかった。
「雅明さんはこれからどうなるの?」
「エリザベートと結婚ということになるでしょうね。彼女マサアキから見たら従姉で、優れた経営手腕を持つ次のシュレーゲルの当主。シュレーゲルの情報網は、今は彼女がすべて握っているの。今回、マサアキには偽の情報が流されたというわけ。完全に逆手に取られた形ね。どうにもならないわよ」
味方だと思っていたら、敵だったというところか。恵美は雅明が傷ついていていなければいいがと、心配になった。
雅明に恨みはない。愛していると言ってくれたのは、真実であったのに違いないのだから。
貴明がいたらどうしただろうか。
そう考えて、恵美は心の中で首を横に振った。現実には遠い日本だ。IFを考えても仕方がない。
腑に落ちないのは奏だ。
今回の依頼に、この男がどう関係するのだろうか。ただ単にホテルを提供しただけにしては、やけに詳しすぎるしでしゃばりすぎている。アネモネに対しても態度が大きい。
(……え?)
目の前が霞む。
泣いているのかと思ったが、違う。涙ではない。本当に目の前が霞んでいるのだ。猛烈な眠気が襲ってきている。恵美は、オレンジジュースのグラスを手に取ろうとして失敗し、グラスはテーブルの上で倒れた。
「諦めなさい。貴明さんを諦めた時のように……」
いやに優しい奏の言葉と一緒に、恵美の意識は闇に沈んだ。