天使のかたわれ 第14話

 関係者以外立ち入り禁止というプレートが下がっている廊下へ、奏は眠った恵美を横抱きにしてずんずんと進んでいく。後ろからアネモネが追いかけていた。

「メグミに何をするつもり?」

「物騒な。何もしません」

「眠らせておくだけという話のはずだわ」

「私もそのつもりですが?」

 奏はうるさそうにアネモネに言い、オーナーが寝泊りする部屋へ恵美を連れ込み、己がいつも寝起きしているベッドへ恵美を寝かせた。

「本当に何もしないでしょうね?」

「したら嫌われますから」

 うるさい見張り番もいることだしと、奏は内心で付け加える。

 奏は恵美に恋していた。

 恵美の愛した兄、圭吾にそっくりな自分の容姿を利用して、なんとか振り向かせようとずっと目論んでいる。

 恵美は知らないが、奏は一年ぐらい前から恵美を知っている。

 見知った場所は、圭吾が葬られている墓所だった。

 物陰からそっと見ていると、太陽の微笑で子供たちと接している恵美は、聖書に出てくる天使そのもので、おまけに優しい声を奏でるのだった。

「さあおうちに帰りましょうね」

 その風景は、いまでも奏の心に残っている。部下に生活を見はらせて、病気がちになったときは、近所の人間を装って部下に助けさせたりもした。だがある日、佐藤家の息のかかった東みちえが現れて、恵美に近寄れなくなった。なんとかして近づきたいと思っていたが、仕事が立て込んで動けないでいる間に、あの雅明が現れて、貴明と共に佐藤邸に連れて行ってしまったのだ。

 家の事情で、姿を現さなかった自分を悔やんだ。佐藤家に関わる者は皆、奏を排除しように掛かってくる。どうして恵美を連れ出そうかと思っていた時に、エリザベートから雅明から引き離すために、ギリシャのホテルを貸してほしいという話が舞い込んできた。願ったりの話で奏はすぐに承諾した。

「恵美……。お前は俺のものになるんだ」

 奏は微笑みながら、恵美の首筋に口付けた。

「ちょっと、貴方もメグミが好きなの? 止めてあげて。マサアキもだけど、貴方の家も相当やっかいじゃない」

「知りませんね」

 寝ているすぐそばに置いた、恵美のバッグの中のスマートフォンが鳴った。二人とも最初は無視していたのだが、一向に鳴り止まない。奏が、電源を落とそうとしてスマートフォンを取り出すと、ディスプレイには(佐藤貴明)と表示されていた。

 奏は勝手に通話ボタンを押した。

「もしもし……」

 貴明はすぐ気づいた。

『仙崎、何故お前が恵美のスマートフォンに出る?』

「彼女はさっきまで私の腕の中で、可愛く啼いていましたが、今は眠っていますよ」

『嘘をつけ、恵美をすぐに解放するんだ』

「なぜそこまで私を毛嫌いするのかな? 私は兄ではないのに」

『恵美は雅明のものだ』

「シュレーゲル一族は猛反対のようですよ? 私は彼らの依頼に乗っただけです」

『当主のアルブレヒト翁の意思ではない。そんな誘いに乗るなんて、仙花グループも先行きが怪しいな』

「何をどう言おうが、雅明さんはエリザベートさんに連れて行かれましたよ。どうやって恵美一人で日本へ帰るんです?」

『アネモネがいるだろう』

 遠い日本なのにこの迅速さだ。シュレーゲルの助けもないのに、よく貴明は正確に情報がつかめたものだというべきだろう。貴明はシュレーゲル以外にも、独自の情報網を持っているらしい。雅明が今回それを使えなかったのは、彼自身が動いたからだ。貴明のように間に多数の人間を挟まねば、正確な情報はつかめない。捻じ曲げられる可能性の高い情報は、照合して初めて真実にたどり着く。旅行先でシュレーゲルしか頼れなかったのが、雅明の不幸だった。

 ふっと奏は笑い、眠り続ける恵美を抱きしめた。

「断る。……恵美はもう俺のものだ」

 

 恵美は、やわらかなベッドランプの光りに照らされながら、目を覚ました。隣には想像していた通り、奏が眠っている。

 見れば見るほど圭吾に似ていて、恵美は切なくなった。

 だがこの男は、まったく圭吾には似ていない。

 深夜だった。

 もう薬は完全に切れていたので、恵美は自然に起き上がれた。音を立てないように慎重にベッドから這い出て、置かれている鞄を肩に下げ、ドアに向かった。

「黙って帰るのですか?」

「!」

 背後から奏の声がした。恵美は足を早めたが、ドアに縋りついたところで奏に捕まった。

「離して!」

 がたがた震える恵美を、奏が愛おしさを込めて見つめる。

 雅明なら恵美は戸惑いながらもうれしく思っただろう。しかし、相手は自分に睡眠薬を盛るような男で、恐ろしさが増すばかりだ。

「そんなに急がなくてもいいじゃないですか。ずっとここに居たら」

「嫌!」

 流したくもないのに、涙がぼろぼろと零れる。

「雅明さんが、私と貴女が一線を越えたと勘違いするように、朝まで寝てもらいたかったのですが……、今すぐ現実にしたほうがいいのかな?」

「貴方となんて絶対のごめんだわ!」

 なけなしの勇気をぶちまけて毒づく恵美に、奏はいささか傷ついたようだった。

「ひどい言われ様ですね。私は、恵美さんを愛しているのに」

 嘘に決まっている。恵美は首を左右に振った。

「勘違いよ。貴方はただ単に、圭吾が愛していた私に興味あるだけだわっ」

 その言葉に、奏の目の色がはっきり変わった。

「貴女は……!」

 見る間に奏の端正な顔が迫ってきて、口づけられる。びっくりしている間に舌が絡まった。血が苦手な恵美は噛み付けないまま、奏のなすがままになった。引き離そうとしても、かえって強く腰を抱きしめられ、腕は奏に引っ張り上げられてしまう。

 ようやく唇が離れ息を乱す恵美に、奏は言った。

「貴女は残酷だ。どれだけ俺がこがれてたか知らないし、知ろうともしない」

「知りたくもないわ。離して! やだ!」

 嫌だと言っても、反対にますます強く抱きしめられて、恵美は息が詰まった。

「……兄はいくら会いたいと言っても、決して会ってはくれなかった。手広く事業を広めていても、われわれを兄は無視していた。それは亡くなってからもだ。あの佐藤貴明は兄の葬式にも呼んでくれなかった……」

 やっぱり貴明は知っていたのだ。

「俺の存在を知らなかったのは、貴女だけです。俺は貴女を初めて見たときから好きだったのに! あの佐藤兄弟は俺を近づけなかった」

 それは、奏が圭吾に生き写しだったからだろうか。

「エリザベートの誘いに乗ったのは、貴女に近づきたかったからだ。卑怯だとはわかっていても、貴女が欲しかった」

 奏は圭吾がよくそうしたように、恵美を抱き上げて、恵美の首元に顔を埋めて恵美の匂いを吸い込んだ。なぜこんなところが似ているのだろう。

 気を抜くとしなだれかかりそうになる想いと身体を、恵美は懸命に押さえた。

 不思議なことに先ほどまでの恐怖は、大方が消え去っていた。なぜか、奏がこれ以上は何もしかけてこないと、わかったのもある。

 冷静さが蘇ってくると、恵美は相手を煽らないように言葉を選んで説得を試みた。

「私はもう若くないわ、この身体は何人も男が抱いて汚れてる、中古品みたいなものなの。おまけに、父親違いの子供がいるあばずれ女よ。だから……、貴方にふさわしい人を追い掛けなさいよ」

 奏はくすくす笑った。

「そう言って、男を誘惑するんですね?」

 恵美はかっとした。

「してない! まっとうな男は、まっとうな女とひっつきなさいよ」

「俺はまっとうな男じゃない。佐藤さんと同じでかなり悪い事もしてますよ……。貴女こそがまっとうな普通の女だ。今の状況は、まっとうじゃない男達が貴女を引き込んだ結果でしょう。佐藤貴明もしかり、佐藤圭吾もしかり……。貴女は男を狂わせる運命の女だ」

 雅明と同じ言葉を言われて、恵美は身体を震わせた。

「私は……何もしてない」

「している。無意識に甘い芳香を振りまいて、優しい風を送っているのです」 

 奏はやっと恵美を離した。恵美はふらついてドアを背にもたれかかり、息をついた。奏はそんな恵美を見下ろした。

「今日はこれで解放してあげます。あまり貴女に嫌われたくないから。本当はずっと離したくないんですが」

 恵美は奏を上目遣いに睨んだ。今にも泣きそうになって潤んでいる目は、男心をかき立ててやまない。もしも恵美が気付いていたのなら、そんな目を奏には向けないのだろうが。

「もう二度と会いたくないわ」

「貴女はまた来ますよ。だってこれを返してほしいでしょう?」

 奏の手にはいつまに抜き取ったのか、圭吾の形見のブルーダイヤの指輪があった。

「返して!」

 しかし、奏はドアを開け、恵美を部屋から追い出した。

「またいらっしゃい」

「卑怯者!」

「最高の褒め言葉ですよ」

 くすくす笑う奏の声とともに、ドアは閉まった。

 恵美は頭に血が上ってどうしようもなかったが、しぶしぶ部屋に戻ると、エリザベートが我が物顔でお茶を優雅に飲んでいた。

 時計は深夜の三時だ。人の部屋でこの女は何をしているのだろう。

「おはやいお帰りだこと」

 エリザベートは恵美をちらとだけ見た。

 しかし、恵美はドイツ語を理解できないので、なんと言ったかわからなかった。それに気付いて、エリザベートは今度は英語でとんでもないことを言った。

「奏は激しかったのかしら? 沢山お花が咲いておりましてよ?」

 恵美は何を言われているのか気付き、首元を手で押さえた。寝ている間にされたに違いない。

「アウグストには負けるけど、あの奏もいい男でしょ? しかも亡くなった恋人の生き写しだそうね? 引き合わせた私に感謝していただきたいわ」

 何が感謝だ。

「それは雅明さんの意思なの……?」

 エリザベートは瞳を凍らせ、飲んでいた紅茶を、恵美に引っ掛けた。熱くなかったが、茶色の染みが広がっていく。

「目障りな猿。嫌だわ、黄色い猿が目の届く範囲に居るなんて。おまけに同等の人間として扱ってもらうとする。どこまであつかましいのかしら?」

 西欧の特権階級の東洋人差別を知ってはいたが、これほどのものとは恵美は思っていなかった。彼らにとって自分は人間ですらないらしい。

「そこまでにしておけ、リシー」

 雅明が部屋に入ってきた。

「紅茶をかけるなんて下品極まりないな……ん?」

 恵美はくるりと雅明に背を向けたが、雅明の目はごまかせなかった。ブラウスの胸元をいきなり押し広げられた。

「や!」

「これは……」

「これだけよ。他にはなにもされてないわ」

 多分なにもされない。恵美は寝ている間に吸われた部分を、隠した。雅明はため息をついて、バスルームへ行くように促す。しかし、恵美は聞きたいことがあった。

「雅明さん、ドイツへ帰るの?」

「いつかは帰るが今は帰らない。まったく、とんでもない女だなリシー。偽情報を流しやがって」

「引っかかる貴方が悪いのよ」

 恵美はほっとした。奏と何もしていないのも、雅明はわかってくれている。とりあえず着替えようと、恵美が着替えを旅行鞄から取り出していると、エリザベートが嘲笑った。

「出会ったばかりの奏の誘いにほいほいのるとは、なんてお尻の軽いお猿さんかしら?」

「いい加減にしろ! お前が奏をそそのかしたんだろうが。わざわざあいつに引き渡す為に、私を閉じ込めやがって。本当に何かあったらどうする気だ?」

 雅明は今の今まで、閉じ込められていたらしい。

「あのギリシャ女が監視していたのが残念ね。人選を誤ったわ」

(アネモネ……)

 恵美は胸を温かくした。アネモネが、奏を辛うじて阻止してくれたらしい。

 どちらにしろ、雅明の一族は恵美を排除しようとしているのは変わらない。だが、今の雅明は昼とは違い元気そうだった。

 言い合っている二人を置いて、恵美はバスルームに入って服を脱ぎ、ぎょっとした。

 目に入ってきたのは、首元から胸につけられたおびただしい数の赤い華……。

 去ったはずの恐怖が蘇り、ぞくりと背筋を昇ってきた。

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