天使のかたわれ 第15話

 眠っている恵美の隣で朝六時ぴったりに、雅明は佐藤グループ独自の通信を開始した。通話だと盗聴されるためだ。この通信は、管轄している佐藤グループの第二情報部と会長のナタリー、社長の貴明しか使用が許されておらず、相手がシュレーゲルであっても法的な開示請求がないかぎり、閲覧できない仕組みになっていた。パスワードは不定期に変わり、常に強固で柔軟なセキュリティが施されている。今回は一部を貴明が旅行前に雅明に提供し、それを今雅明が使用しているわけだ。一時的なものなので、貴明が遮断すれば使用はできない。

 だから通信相手は、当然貴明だった。

 貴明は、昨夜恵美の電話に奏が出たので、ひどく心配していた。おまけに雅明とも連絡が取れなくなっていたため、本題に入る前に、すべての事情を説明する必要があった。

 心配をかけたことを雅明は謝罪し、恵美は無事に帰ってきたが、指輪を取られたと打ち込むと、貴明は不快に思ったようだ。

〔あの親父のブルーダイヤか。抜け目が無いな〕

【あいつ、佐藤邸に恵美を引き取った時に、このままあきらめてくれると思ったんだが】

〔あの親父の弟だぞ。なんかやらかすとは思ってたが、こんなところで出てくるとは思ってなかった。くそ。同じ年なのがむかつくな。あれに兄弟がいないのが幸いだ〕

【まったくだ】

〔恵美の様子はどうだ? 仙崎にいかれてるようか?〕

【そんなふうには見えない。だがこのままでは、情にほだされるかもしれないな。恵美はあの圭吾に関わると、恐ろしく無防備になるから】

〔しっかり見はってろよ。それよりも、本当にアルブレヒト翁の容態が悪いらしいぞ。だから称号を受け継ぐお前と、リシーは結婚したいと思ってるのだろう〕

【伯爵の称号ねえ。今の時代に何の役に立つんだよ? それも、たかだか300年しか続いていない家だ。馬鹿らしい】

〔仕方ないだろう、一族の会議でお前が指名されたんだから〕

【もう排除されたと思ってたのに、リシーが私にこだわるせいでおかしくなってるんだ。婚約なんて十年前に破棄したものを、持ち出してきやがって。あいつはナタリーみたいに、一人で平気な鉄の心臓の持ち主だろ? 一体なんなんだよ】

〔そのナタリーに、恵美との仲を一族に認めさせるようにかけ合わせてる。おかげで一族の中に、賛同する者が増えているらしい。だからリシーは焦って、今回の事件を起こしたわけだ、アウグスト〕

 貴明にドイツ名を言われると、雅明は背中がむずむずする。わかっていてからかっているのだろう。

【人ごとだと思って暢気なものだ】

〔ま、敵ばかりじゃないのだから、安心しろ。だが、このままではすまないのはわかっているだろう?〕

 ナタリーは今までの贖罪もあることから、なにがなんでも認めさせるだろうが、ごり押しがすぎると歪みが生じる。事実、生じている。

 それは雅明も、もとより承知している。どうしようかと思案しているところだった。

【やっぱり、適度に私の肉を切らせる必要があるか……】

〔頼むから、恵美に何もされないようにしてくれ。うちのせいで散々苦労しているんだから〕

 それから内密の情報の受け渡しをして、通信は閉じられた。

 雅明は小型の通信機器を片付け、眠っている恵美を起こさないように軽く口付けると、切れている煙草を買う為に部屋を出た。廊下は人はおらずしんとしていて、やけに響く自分の足音をうっとうしく感じた。

 エレベーターを待っている間、雅明はどんよりと曇っている空をエレベーターの横の窓から眺めた。曇っている空を見ると、必ず思い出す人間がいる。

 かつて自分の妻だった女。

「ソルヴェイ……」

「そのソルヴェイさん、夫から虐待されて今にも殺されそうなんですって」

 部屋から出てくる雅明を待ち受けていたのか、エリザベートがにっこり笑いながら近づいてきた。

「何を馬鹿な。あの二人は……死んだはずだ」

「そういうことにしていたようだけど、実際は生きていたようよ」

「嫌な作り話だ。お前がそんな女だとは思わなかった」

「貴方の好きな煙草ならここにあるわ」

 エリザベートが煙草の箱を軽く掲げた。

「いらない」

「猿がどうなってもいいのかしら? 今すぐ奏に既成事実を作ってもらってもいいのよ」

「…………」

 エレベーターが来たが、雅明は、エリザベートに促されるままに彼女の部屋へ入った。エリザベートが差し出す煙草の箱から一本取り出して口に咥え、ライターで火を点け、深く煙を吸い込んでからゆっくりと吐き出す。

「……ソルヴェイの事は、信じても信じなくてもいいわよ。彼女がどうなろうが正直な話、私はどうでもいいもの。あんな頼りない頭空っぽ女、私は大嫌いだったから。あの猿のほうがはるかにましね。己の立場をよく弁えているし、ソルヴェイみたいに貴方に頼りきりの馬鹿じゃない。友人も多いからそれなりの猿なんでしょう」

「孤独な奴は人間として駄目ってか?」

「友人が居ない人間は己しか愛さず、感謝を持たない、神に見捨てられた存在だわ。あの猿は思いやりすぎて、馬鹿みたいに翻弄されているようだけどね」

「お前は相変わらず手厳しい。親に害されるとわかっていて、どうして友人など作れる?」

「それなら家から出ずにいるべきだったのよ。違うかしら」

「……違わない」

 過去の過ちが、雅明の前に壁のように立ちはだかった。栄光を約束されていたはずの自分の人生は、ソルヴェイに関わったために闇へ沈んだ。だがそれはソルヴェイのせいではない。自分の境遇を案じて雅明を突き放そうとした彼女を、無理に手に入れたのは雅明自身だったのだから。

「……本当に生きているのか?」

「事実よ。貴方の意思ひとつで助けられるけれど、どうするの?」

「何が、望みだ?」

 エリザベートが、この場では完全に勝者だった。

「恵美に近づく、奏の邪魔をしないことよ」

「それは……」

「私の言う事を全て聞きなさい。そうしたらソルヴェイを助けてあげる。大嫌いだけど、どちらにせよ彼女も被害者だわ。貴方のせいでさらに不幸になったのよ? それなのに貴方だけが幸せになるなんて罪深いと思わない? おまけによく考えなさい。そんな貴方と一緒になったら、あの猿もその罪を被ることになるのよ。それでもいいの?」

「奏は……」

「猿が貴方を愛していたなら、奏の誘惑には落ちないわ。その程度で切れるような頼りない赤い糸は、そうそうに断ち切ってしまうべきよ」

 恵美が愛しているのは、佐藤圭吾だけだった。

 だった、と、雅明は信じたい。

 雅明は銀色の睫を伏せた。

 貴明のさっきの懇願が脳裏を過ぎったが、こればかりはどうにもならなかった。この場合、雅明の切られる肉に恵美が含まれるのは、必定だった。また、これぐらいの試練を乗り越えられないような女を、シュレーゲルを束ねているアルブレヒト翁が認めるわけがない。愛する孫娘のナタリーの願いであったとしてもだ。

 シュレーゲルの血は、その中で生きようとする者には、誰であろうと非情を強いるようだった。

「明日になったら、私と一緒にドイツへ帰ってもらうわ。お爺様がお呼びなの。貴方は行く義務があるでしょう?」

 ため息をついて、雅明は煙草を灰皿で押し消した。

「わかった。言う事を聞く。だからソルヴェイを助けてくれ」

「私が嘘をついているとは思わないの?」

「嘘だとしても、恵美に何かするんだろうが」

「ふふ、最悪よりましな悪を選ぶのは良い事よ。その中から活路が見出せたらいいわね」

 雅明は祈りにも似た気持ちで、恵美の自分への愛を願った。

 引き込んでおいてと恵美は怒るだろうか、詰るだろうか。だがその怒りも悲しみも全て欲しいと思う、救われようのない貪欲さが雅明の愛にはあるのだった。

 恵美は目覚めたら雅明がまた居らず、しかもドイツへ帰ってしまったと聞いて愕然とした。帰らないと言ってまだ一日も経っていないのに、一体何が起こったのだろうか。

 こればかりはアネモネもわからないらしい。アネモネは恵美の味方ばかりをするので、契約を解除されてしまい、情報が掴めないという。

「どちらにしろ、あの女狐が何か脅したのは間違いないわ。マサアキが貴女を無責任に置いて行くわけがないもの」

 恵美は食欲がないので朝食を抜こうとしたが、そんなことをしたら体調を崩すとアネモネに猛反対され、しぶしぶホテルのレストランでシリアルをつついていた。

「ラウルさんはどうしたの? 婚約者なんでしょ」

 恵美が言うと、アネモネはあんな薄情な奴は知らないと、吐き捨てた。

「あっちについていったわよ。恋人より仕事を取るなんて最低。婚約破棄してやったわ」

「そんな……」

 自分のせいで婚約破棄だなんて、後味が悪すぎる。今すぐ仲直りしてほしいと言うと、アネモネは、右手をひらひらとさせた。

「いいのよ別に。今の私にはメグミのほうが大事だもの。カナデの毒牙にかけてなるもんですか」

「…………」

 微妙にかけられている恵美は、黙ってシリアルを口に運んだ。砂のような味で美味しくない。

「雅明さんは大丈夫かな」

「男なんだしなんとかするでしょ。人の心配より自分のことを心配なさい」

 アネモネは恵美の後ろに視線を流し、声をひそめた。

「カナデがオーナーのこのホテルは危険だわ。今日中にアテネへ、そして日本へ帰りましょう」

 恵美が何も言えないでいると、さっと影がさした。奏だった。

「楽しそうなお話ですね」

 そう言って勝手に恵美の隣に座る。アネモネが睨んだがどこへ吹く風だ。

「このホテルから黙って去ろうなんて、不可能ですよ? 痛い目に遭う前に、私を連れて行くと承諾なさった方が賢明というものです」

 奏はいつものように優しげに微笑みながら、それでいて相手に有無を言わせない残酷さを滲ませた。

「嫌な日本人ね。最近の日本人は素直じゃないわ」

「素直になる相手には素直です。ねえ、恵美さん?」

 肩に手を置かれ、恵美はびくりと身体を震わせたが、奏から発せられる威圧感のようなものが恐ろしくて、振り払えなかった。アネモネの表情が固いのは、きっとまずい状況だからなのだろう。いつの間にか、レストランから一般客の姿が消えているのは、偶然ではないはずだ。

 いや、違う。

 そもそも昨日から、このホテルで自分たち以外の客の姿などなかった。

 そうだった。奏は言っていたではないか……、エリザベートに協力する為に、ホテルを提供したのだと。

「アネモネさん。貴女が味方にしていた人たちは、皆エリザベートさんにつきましたよ? 観念なさい」

「まあ、お金で買収したのかしら?」

「情報で」

 奏は運ばれてきたミネラルウォーターのグラスを取り、圭吾によく似た所作で口に含んだ。

「アテネへ帰りたいのなら、私と一緒であることが条件です。呑まない限り、このホテルからは一歩も出しませんよ?」

「たいした自信だこと。恵美、気にする必要はなくてよ? 今頃タカアキが、何か手を打ってるに違いないんだから」

 そう、貴明なら時間がかかっても、必ず助けてくれるだろう。恵美もそう思ったが、首を左右に振った。

「構いません。ご一緒してください」

 アネモネが、とんでもないと声を張り上げた。

「メグミ! 貴女自分が何を言ってるのか、わかってるの?」

「そのためにアネモネが付いてきてくれるんでしょう? 信頼してるわ」

「……だからって…………」

 アネモネはぶつくさ言いながら、両腕を組んで背もたれにもたれた。 

 恵美だって奏と一緒に行動したくない。

 それを了承したのは、奏なら雅明がなぜドイツへ行ったのか、知っていると思ったからである。それにブルーダイヤの指輪も返してもらわなければならない。あれには圭吾との思い出が、それこそたっぷり詰まっている。

 奏が恵美の左手を取り、恋人にするような口づけを甲に落とした。

「アテネへ無事にお届けしますよ」

 切れ長の目の色が、圭吾にそっくりで心がぐらりと揺れる。危険さを十分に承知しているのに手を出しそうになる、麻薬に似た危険な魅力が、今の奏にはあった。

 恵美は、ぞっとして奏の手を振り払い、席を立った。

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