天使のかたわれ 第17話
午後をだいぶ回った頃、恵美たちはアテネへ帰ってきた。
たくさん居る観光客、ずっと車が途絶えない道路、排気ガス、それでも神話を感じさせるそこかしこの建造物、何も変わっていない。
わずか数日の滞在だったのに妙に懐かしい。
恵美はホテルを自分で探そうとしたが、すでに奏が手を回していて、泊まるホテルが決められていた。先日泊まったホテルと同じグレードのホテルで、恵美はまたかと思いながらも、指輪を返してもらいたい一心で何も言わなかった。恵美に用意された部屋がツインでアネモネと一緒だったのもある。
あとで一緒に市内を回りましょうと言い残し、奏は自分の部屋のある階へエレベーターで昇っていった。
「どうなるかと思ったけれど、とりあえず一安心だわ」
荷物を置き、アネモネがほっとしたように表情を緩めた。
「指輪を返してもらってないわ」
ベッドの端に腰を掛けて恵美が言うと、アネモネはミニ冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してグラスに注ぎ、恵美に手渡した。
「この際、指輪はどうでもいいじゃないの。それをネタに好き勝手にされたら、たまったもんじゃないもの」
アネモネにとってはそうかもしれないが、恵美にとっては何よりも大事な指輪だった。なにしろ圭吾が恵美のためにデザインし、石を選び、何度も作り直した代物なのだから。
並べられた中から選んだ時、すぐにこれがいいと思ったのも道理で、圭吾は恵美の好きなものすべてあの指輪につぎ込んでいたのだ。
あの指輪には、圭吾の恵美への愛が凝縮されているといっていい。
だからなんとしても取り返したい。
恵美の説明にも、アネモネはわかってくれなかった。
「形あるものはいつかは消えるものよ。それが無くなったって、ケイゴがメグミを愛したことにかわりはないじゃないの」
「そりゃ……そうだけど」
「私がケイゴだったら、そんなもののためにメグミが他の男にいいようにされるほうが、よっぽど嫌よ」
恵美はそれには何も返さず、アネモネがグラスに注いでくれたオレンジジュースを飲んだ。
今度は雅明の顔が浮かんできたからだった。
圭吾を思えば雅明を、雅明を思えば圭吾が出てくるのが最近当たり前になっている。
圭吾が好きで、雅明も好きだ。
恵美はグラスをテーブルに置いて立ち上がり、窓辺のカーテンを少し開けた。相変わらず白のパルテノンが高台の上に建っている。
五階のこの部屋から下を見ると、先ほどと同じように車が流れ、観光客がぞろぞろと歩いているのが見えた。各々の行きたい場所を観光し、異国の料理を食べ、人とふれあい、己の国へ家へ帰っていくのだろう。
恵美の帰る場所は、あの田舎の古ぼけた家だ。
恵美は少し早い晩御飯を作り、ご飯だから皆いらっしゃいと呼ぶ。すると居間で遊んでいた子供たちがキッチンへやってきて、おかずを見てうれしそうに笑い、お父さんを呼んでくるねと二階へあがっていくのだ。
やがて二人に急かされて雅明が降りてくる……。
カーテンを閉めて、恵美は弱弱しい微笑を浮かべた。
雅明は、本当に普通に違和感なく、恵美たちの中にするりと入り込んできたのだ。迷い猫でもこうは簡単になれやしないだろう。
圭吾を愛しているのには変わりない。
でも、雅明も愛してしまった。
「……ドイツから雅明さんは帰ってくるかしら?」
独り言だったのに、アネモネが敏感に反応した。
「アルブレヒト翁が耄碌して馬鹿になってない限り、戻ってくるわよ」
「……うん」
昼の三時を過ぎても日差しは強く、とても暑かった。空は青く雨雲などどこにもない。
恵美たちは、パナシナイコ・スタジアムでタクシーを降りた。隣の催事場は新車がずらりと並んで、人も多くにぎやかだったが、スタジアムは人一人居らずしんとしていた。
近代オリンピックが開かれた競技場だと言われているが、今の規模で考えるととても小さい。
紀元前に作られた当時は観客席はなく、ローマに支配された時代に、今の大理石の観客席が作られたらしい。全体的に白のイメージが強いのはそのためで、スタジアム全体が全体が遺跡のようだ。
「私には珍しくともなんともないけどね」
アネモネが毒づくが、恵美には珍しかった。近代オリンピックが開催された都市が刻んである石碑に、Tokyoという字が刻まれているのを見つけた恵美はなんだかうれしくてドキドキワクワクした。奏もそれを見て言った。
「俺は楽しいですよ。神話もいいですが、異国で自分の国を意識するのは楽しいです」
まったく同意見だ。
風がさらさらと葉を揺らしているオリーブの木へ、奏が手を伸ばし葉を二枚取った。
「恵美さんはご存知ですか?」
「何を?」
「ギリシャでは、オリーブの葉を取って帰ると、また来れるというジンクスがあるそうです」
「本当?」
「ええ」
見るものがたくさんありすぎるので、一回来たぐらいでは全て見回れないと思っていた恵美は、もう一度来れるという言葉に心惹かれた。
手のひらのサイズもない、つるっとしたオリーブの葉を手にし、恵美はまた来れるといいなと呟いた。
今度は子供たちと来たい。
恵美はオリーブの葉を大切に手帳に挟んだ。奏も同じ様に挟んでいる。アネモネは、変なことをするわねと頭を傾げた。
大理石の座席は太陽の熱を存分に吸い取っていたため、とても熱く座れなかった。本当なら朝か夕方の方がいいのだとアネモネは言ったが、それでも恵美は今のこの暑い太陽の下で見るのも楽しいと思った。人がほとんどいないのもいい。
座れないので、恵美はミネラルウォーターを立ったまま飲んだ。
まだ一時間も経っていないのに、500ミリリットルのミネラルウォーターのボトルが、半分ほどなくなっている。前に雅明が言っていたとおり、この地中海の気候はあらゆるものから水分を奪っていくようだった。日焼け止めも、あまり効果は期待できそうもない。日傘を一応差してはいるものの、地中海の太陽は、日傘を突き刺してなお容赦なく肌を焼いていくような勢いがある。空気もカラカラなのだ。あの湿気を含んだ、日本特有のむっとする夏の風はギリシャでは起こらない。
ふいに郷愁がこみ上げてきて、恵美は無性に日本の自分の家へ帰りたくなった。懐かしさが胸をきりきりと締め上げ、子供たちへの愛しさがそのあとを満たしていく。
「気分でも悪いのですか?」
奏が心配そうに覗き込んできて、恵美はなんでもないと首を横に振った。
次に向かったのは、前のホテルからも見えたゼウス神殿だ。ローマ時代に建てられたという神殿は屋根もなく、百何本もあったという柱も二十数本が立ち並んでいるだけで、崩れた柱がそこいらへんに無造作に転がっている。
「柱の装飾がきれいね、パルテノンと全然違う……」
恵美が言うと、アネモネは当たり前よと言った。
「時代が違うし様式も違うわ」
神殿内へは入れないようにロープが張られていた。
猫や犬がそこかしこでうろついており、アネモネが雅明と同じ様に注意した。
「ま……、タベルナじゃ犬猫が徘徊しているのが当たり前だけどね」
それは恵美がずっと思っていたことだった。日本ではありえないと言うと、アネモネは、
「日本人が几帳面すぎるのよ」
と言うのだった。しかし、ホテルには当然ながら、犬猫はいない。それは日本人だけでは、ないからではないか。
木陰の大きな石に座るとひんやりとしていた。これが地中海気候のいいところで、日向がどれだけ暑くても、日陰は涼しい。ほかの観光客たちも同じ様に涼んでいた。
奏が恵美の隣に座った。
「アテネは都会ですから、こんな午後でも入場できるようになっていて、よかったですよ」
「シエスタでしたっけ?」
「ええ。でもまあ、この日差しの中では働きたくなくなるのもわかります」
その時、わからない言葉で若い男女が話しかけてきた。アネモネが反応し言葉を返す。しばらくやり取りしてから、アネモネが言った。
「何か誤解があって入場できない仲間がいるらしいわ。二人ともここに居てね。奏、恵美を誘惑しないでよ」
奏は微笑むだけでそれに返さず、アネモネに行くように促した。
アネモネは、恵美を気にしながら入り口へ歩いていく。
「今のはノルウェー語ですね」
「ご存知なんですか?」
「友達に一人居ます」
「貴方はわかるの?」
「挨拶程度は」
奏は自分のミネラルウォーターのキャップを閉じ、ゼウス神殿を見上げ、さらに視線を遥か向こうに投げた。
「ここから望むパルテノンも素晴らしいですね。何回も観に行ってます」
雅明と行った日に見かけたのはやっぱり奏で、幻ではなかったのだ。
「ここで夜を過ごせたら素晴らしいかもしれません。星座発祥の地で星を眺められるなんて、最高の贅沢です」
「そうですね」
それには恵美も完全同意だ。奏も圭吾と同じで星が好きらしい。
目が合うと奏はうれしそうに笑った。
「やっとそんな目で私を見てくれるんですね。強引な事ばかりして、嫌われたのかと心配していました」
あれだけのことをして嫌われないかと心配するとは、奏という男は女性慣れしていないようだ。
「圭吾の指輪を返してくださったら、忘れます」
「……ああ、そうでしたね。でも少し待ってください。俺は貴女ともう少し居たいんです。返してしまったら、もう二度と会ってくれないでしょう?」
図星だったので恵美は何も言えなかった。
「佐藤兄弟が邪魔しなければ、貴女と俺は普通に出会えたはずなのに……」
「あの、それってよくわからないんですけど」
奏は寂しそうに笑った。
「兄の遺言か何かがあるんでしょうね。俺の家も風通しがいい家とは言えませんでしたから。父も兄をいないものとしています」
風がそよと吹いた。