天使のかたわれ 第18話

「圭吾は捨て子だったと言っていました」

 奏は頷いた

「ええ……、実際母が捨てたようなものです。だいぶ経ってから兄を探し出して、引き取ろうとしたそうですが、兄が拒否したと聞いています。当然です。自分を捨てた母を許せるわけがない」

 神殿の敷地内に、珍しく東洋人の親子連れが入ってきた。ギリシャに来て東洋人を見るのは初めてだ。子供は転がっている神殿の柱に興奮して駆け寄り、しきりに石の感触を確かめ、うれしそうにはしゃいでいる。

 それを見つめながら奏が言った。

「……本当に兄は、俺について何も言っていませんでしたか?」

「一言も……」

「佐藤さんたちも?」

「はい」

 奏は嘆息し、完全に嫌われているのですねと肩を落とした。

 恵美はだんだん奏が気の毒な人に思えてきた。確かにデルフィでは腹が立ったが、こうやって話していると普通の男性だ。指輪も多分今日には返してもらえるだろうし、あの強引なキスなども許す気になってくる……。。

 神話や遺跡物について二人で話していると、アネモネが走って戻ってきた。

「まったくもう! ただの痴情がらみよ。自分たちだけでやってろってかんじ!」

 なにやらぷんすか怒っている。

「どうしたの?」

「旅行者の女の連れととここの管理人が、昨夜デートしたんですって。アバンチュールに本気になったここの管理人が、入れないって騒いでるわけ」

「なにそれ?」

「この国での事件は、大抵恋愛関係のもつれよ」

 ずいぶんと小さな男ですねと奏は苦笑し、恵美は呆れて何も言えない。

 アネモネはくだらない痴話げんかに巻き込まれたせいで、そのあともずっとご機嫌斜めだった。そんなアネモネのかわりに、奏が恵美をアテネの案内をしてくれた。奏はアテネに数回来ているらしく、かなり詳しい。恵美は見るもの全てが珍しくて、それなりに観光を楽しんだが、アネモネの機嫌はなかなか晴れないようだった。

 それでも、大通りに面したタベルナで、グリークコーヒーを飲む頃には、少しは曲がった機嫌も治ったように見えた。

 奏とはだいぶ打ち解けたが、アネモネほどではない。ぎこちないながらも話をしていると、数人の若い白人女性が奏に声をかけた。地図を持って迷ったと言っているが、どう見てもナンパだ。 

「きれいなものに惹かれるのは、世界共通よね」

 アネモネは呆れている。 

 奏は辺りを払う美男子ぶりな上、雰囲気が優しいので声をかけやすいのだろう。奏は仕事柄英語が堪能なようで、丁寧に道を教えててやっている。しかし、一緒にお茶でもと言う誘いには笑顔で断った。日本人だからとカモにされているわけではないらしいのは、見ていればわかる。差はあっても、皆、目のどこかに羨望の光があった。

 アネモネも美しい女なので、声をかけられている。ギリシャ語を解せない恵美には、彼女がなんと口説かれているのかわからなかった。こちらはなかなかいい男で、かといって崩れた雰囲気はない。アネモネと恵美をちらちらと見比べている視線だけが、なんだか不快だ。自分が子供に見えて珍しいのだろう。

 男を追い払ってから、アネモネは何故か嘆いた。

「いいわよねメグミは。タカアキといいケイゴといい、素敵な男ばかりに囲まれて」

「何を言ってるの?」

「だって、ナンパされてるのは、カナデとメグミだけよ」

「……は?」

 アネモネはコーヒーを一口飲んだ。

「奏がメグミのパートナーだと思ってるのか、私にギリシャ語でメグミとお茶したいから通訳しろって言ってるのよ。私がナンパされてるんじゃないの。英語だとカナデにばれるからね」

 目をぱちくりさせる恵美に、アネモネは苦笑した。

「今のところはカナデが貴女の番犬なんでしょうね。一番やっかいなのが彼なのに」

「……日本人はちょろいと思われてるから、仕方ないわ」

「そうね。特にメグミみたいなおいしそうな女はね。ま、引っ掛けたあとが地獄だけど? こわーいバックがいくつも控えてるんだから」

「貴明の事?」

「それもあるけれど……ま、いーわ。でもね恵美」

 人々のざわめきで奏の耳には届かない声の大きさで、

「カナデを信用しては駄目よ。この男、見かけは優男だけど本当に見かけだけよ。油断しないことね」

 と、アネモネは恵美の耳元に囁いた。

「……わかってるわ」

「どうだか。あの男からもらったオリーブの葉を綴じるなんて、ありえないわ。本当に単純でお人よしなんだから」

 恵美はアネモネに図星をさされて、顔を赤くした。

 確かにそんなに悪くない人かもと思っていた。

 しかし、悪くない人が、その人が大切にしているものを取ったりするわけがないし、強引にああだこうだと決めてくるわけがない。悪い人ではないかもと思うこと自体、奏の思うように動かされている証拠だった。

 道に面しているせいか騒々しく、ナンパをかわすのも面倒なので、三人はタベルナを早々にあとにした。

 背の低い恵美は、頭上で奏がアネモネに挑発的に笑ったのに気づかない……。アネモネは悔しそうに唇を噛んだ。

 深夜、恵美はアネモネに起こされた。

「……どうしたの?」

 眠くてたまらない恵美は、寝返りを打った。あちこち移動して疲れているのだから、朝まで起こさないで欲しい。

「とにかく起きて! ほらほら!」

 無理やり起こされ、なんとかベッドから起き上がった。部屋は照明がついていないので、外からもれる明かりだけで薄暗かった。

 異様な緊迫感を漂わせたアネモネは、恵美の着替えをベッドの上に広げた。

「メグミ、今すぐ着替えて荷物を片付けて。日本へ帰るの」

 唐突過ぎて恵美は驚き、目をはっきり覚ました。

「どうして? 雅明さんを置いて帰れないわ」

「彼は置いて帰ったって大丈夫。ちゃんと味方が居るもの。でも、貴女の味方は日本にしかいないの。ぐずぐず言ってないで早く!」

 アネモネは恵美の夜着を強引に脱がせて、着替えさせようとする。何をそんなに急いでいるのだろう。津波がすぐそこまで来ているのにのんびり歩いている者を、激しく叱咤しているかのようだ。とりあえずアネモネが冗談でこんなことをするわけがないので、恵美は言われたとおりに着替えた。

「いったい本当になんなの?」

 ホテルの裏に止めてあったタクシーに乗り込み、空港へ向かう最中に、恵美はアネモネに聞いた。アネモネの表情は固い。

「カナデから離れる必要があるのよ!」

 すれ違う車のライト。アネモネの声は切羽詰っていて、恵美は命の危険すら感じて怖くなった。真夜中だというのに車の波はとぎれることなく、どこまでも続いている。

 恵美は自分のスマートフォンを鞄から取り出そうとしたが、しまっておいた筈の場所になかった。取り出した記憶がないので、落としたのかと思っていると、察したアネモネが言った。

「ごめんなさい。貴女のスマートフォンは廃棄させてもらったわ」

「どうしてよ!」

 思わずかっと恵美は怒ったが、次の言葉に身体の芯が冷えた。

「貴女のスマートフォンは盗聴されてたわ。どこでつけられたかはわからないけれど、マサアキやタカアキではないことは確かね。盗聴していたら、二人とも今みたいな裏はかかれないでしょう」

 穏やかではない話だ。犯罪ではないか。

「じゃ……それって」

「十中十、カナデの仕業よ。あの男と関わっていいことなんて一つもないわ。メグミはタカアキやマサアキが、何故奏の存在を黙っていたのか気になるでしょうけど、貴女の為を思ってのことは確かよ」

「それならどうして、一緒に観光なんかしたの?」

「油断させるためよ。でも、今はそんなことよりも逃げた方がいいと判断したの。一応東京のタカアキに電話を入れたわ」

 恵美はふと、取り戻せなかった指輪を思った。もう永遠に、あの輝きは目にできないのだろうか。心の中で深く圭吾に頭を下げた。

「タベルナで、ナンパをかわす彼を見て思ったの。あの男は優しい外面で人を安心させるのが、天才的に上手だわ。わざと隙を見せて捕らえるの。怖い男よ。貴女みたいなおひとよしを騙すなんてお手の物でしょうね」

 恵美は恐ろしくてたまらなくなり、それ以上は聞いていられなかった。今ほど自分が無力だと思ったことはない。盗聴なんて気づきもしなかった。

 でも。

 恵美はあの寂しい表情の奏が演技だったとは、どうしても思えなかった。あれだけは真実のはずだ。自分は捨て子だったと話した圭吾や、同じ寂しさを抱えた己自身とまったく同じだった……。

「メグミ、貴女はもっともっと己の幸せに貪欲になるべきよ。貴女が今一番大切なものは何? 子供たちなんでしょう?」

 アネモネの言葉は恵美の胸を突いた。

 そうだった。今の自分は一人ではなくて、守らなければならない家族が居る。 

「ええ」

 はっきりと頷き、恵美は前を向いた。

 アテネ国際空港に着いたのは、深夜の二時を少し過ぎた頃だった。

「飛行機にさえ乗ってしまえば大丈夫よ」

「本当にありがとう」

 恵美はアネモネに礼を言った。

 アネモネは本当は一緒に行きたかったが、どうしてもチケットが取れなかったらしい。恵美はアネモネと抱擁し、アネモネは両頬にキスをしてくれた。慣れていない恵美にはくすぐったかった。

「タカアキによろしくね……」

「うん。アネモネもラウルさんと仲直りしてよね」

 アネモネは、ほかにもいい男がいるのよとふてくされたように呟いた。

「一生のお友達で居てくれる?」

 恵美が言うと、

「もちろんよ」

 とアネモネは笑って手を振った。

 しかし、アネモネが帰ったあと、困った出来事が起こった。ダブルブッキングが起きて、恵美の席にはもう他の客が座っているのだと言う。

 幸い他に席はあったのだが、代わりにと用意された席はエコノミーではなくファーストクラスだった。恵美はどうしてもああいう特別席は苦手で、エコノミーで良いと言ったのだが、客室乗務員は、この席しかないからと申し訳無さそうにするので、恵美はそれ以上は何も言えなくなり、だだっ広い、落ち着かないファーストクラスの席に座った。

 外は夜景が光り輝いている。 

 恵美はさまざまな事件が起こりすぎたギリシャに、もう一度来たいとは今では思えなかった。鞄から手帳を取り出し、奏からもらったオリーブの葉を手にして見つめ、床に落とした。

「ひどいですね。そんな風に捨てるなんて」

「!」

 居るはずのない男の声がした。

 ぎくりとして顔を上げると、優しげに微笑む仙崎奏が立っていた。

「ど……して?」

 足先から震えが上ってきた。

 奏は屈んでオリーブの葉を拾いあげ、恵美の手を取り、そっと載せた。

「どうしてとはご挨拶ですね? ひどいじゃありませんか、黙って日本へ帰るなんて……」

「だって……これは」

 気を失いそうになるくらい、胸が痛くて苦しい。嫌な汗が身体中から滲み出て、気持ちが悪くなってきた。

 奏の手が恵美の頬に触れ、優しく撫でる。恐怖でいっぱいの恵美は、振り払う余裕もなく、撫でられるままだった。

「俺はホテル業をしている。横の繋がりは広い。頼めば、どこのホテルでも、タクシーでも、航空会社でも情報を流してくれるんです。盗聴器はただのフェイクですよ。アネモネさんの失敗は、貴女が日本人だったことですね。ヨーロッパでは、東洋人……特に日本人は目立つ。特定は簡単でした」

 目を開けているのも辛くなり、恵美は目を閉じた。その横で、奏が客室乗務員から水を取り寄せて、コップにさらさらと何かの粉を入れて混ぜた。

「雅明さんはドイツのシュレーゲル。頼りになる貴明さんは、現在アメリカのLA行きの飛行機の中です。奥様はつわりで入院中だとか。……お子さんが心配ですね」

 一番の弱点を引き合いに出されて、恵美に緊張が走った。子供たちに何かあったら、生きていけない。震える声で恵美は奏に懇願した。

「お願いだから……子供には……何もしないで」

「俺について来ますか?」

 絶対に嫌だと、強く言えたなら。

 少しでもこの男を不憫に思った自分を、恵美は呪った。

「子……供たちに危害を、……加えないと約束するなら」

「約束しましょう」

 恵美は、奏の差し出したコップを受け取り、全て飲み干した。おそらくは睡眠薬だろうと察しがついていた。果たして、すぐに眠くなってきた。

 遠く離れた場所に居る雅明に、恵美は別れを告げた。

<第1章 ギリシャ旅行 終>

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