天使のかたわれ 第20話
夕闇に染まりゆくシュレーゲルの館の庭で、雅明は過去を思い出していた。
ドイツ語を話せず、誰も知らない人間の中にいきなり放り込まれて、心を閉ざしていた七歳の少年。
──僕は石川雅明だ。アウグスト・ヨーゼフ・フォン・シュレーゲルなんて名前じゃない!
「ここへ来るまでは、永遠にあの石川の家に住んでいられると信じていたな」
風が吹いて、雅明の長めの銀髪をさらい、揺さぶる。
「何もかもあの日に変わった」
あの頃の雅明は、父親譲りの黒髪だった……。
二十二年前のその日、ごくごく平凡な日本家屋の玄関の入り口で、双子の兄弟は母の帰りを待っていた。
すこし前に、父親と祖父母が交通事故で亡くなった。母はしばらく落ち込んでいたのだが、大企業の社長の彼女は感情を常に押し殺しており、子供や人の前で泣くことはなかった。情の怖い女だと近所の人間がひそひそと話していたが、父と母が深く愛し合っていたのを雅明は知っていたので、父がいなくなって最も悲しんでいるのは母であるとわかっていた。
だから雅明は、大好きな父に会いたくて悲しくなっても我慢しているのに、弟の貴明は思い出すたびにめそめそと泣く。
「泣いたって、父さんもじいちゃんもばあちゃんも帰ってこないんだぞ」
「……雅明だって悲しいくせに」
図星をさされ頭にきた雅明は、思い切り貴明の頭をげんこつで叩いた。貴明は当然大泣きし、慌てて宥めているところへ、やっと母のナタリーが帰って来た。
「おかえりなさい母さん」
美しい女神のような容貌の母、ナタリーはやさしく雅明を叱った。
「だめよ雅明。貴明を泣かせては。今日はお客様がいらしたから静かにね」
「お客様?」
見ると、家の前に止まった大きな車から、背の高い若い男が降りてきた。
「こんにちは」
挨拶をしたのに、その男は雅明の方をじろりと見ただけで、何も言わなかった。こんな無愛想な大人は初めてだ。
視線の鋭さに雅明が恐ろしさを覚えると、貴明が敏感にそれを感じ取り、ますます声を出して泣き出した。
「ナタリー。これが貴女の子供たちか?」
「そうよ」
「……こっちの方がものになりそうだな」
男は泣いている貴明の腕を掴み、自分に引き寄せじろじろと見る。
「貴明に何するんだよ!」
乱暴な態度に雅明が怒鳴ると、男は雅明を見下ろした。
「お前はいらない。お前がいるからこの子供は泣き虫なんだ。ナタリー、自立させるには引き離した方がいいだろうな」
オマエハイラナイ。
ひどい言葉に雅明が呆然としていると、ナタリーが怒った。
「圭吾、子供に対してなんてことを言うの! いくら私の婚約者だといっても許しませんよ」
「事実だ。ナタリーだってそう思ってるくせに」
圭吾という男に言われて、ナタリーは口をつぐんだ。雅明は母を、信じられない思いで見た。その顔にはハッキリと肯定の二文字が浮かんでいる。
(カアサンモ ボクガ イラナイ……)
圭吾は貴明を雅明に突き放し、宣言した。
「私は佐藤圭吾、今度お前たちの母親と結婚することになった」
「うそだ……。だって母さん!」
雅明はナタリーに嘘だと言ってほしかったが、ナタリーはうなずいただけだった。雅明の後ろで貴明がぎゅっと腕をつかんだ。
ナタリーは二人に庭で遊んでいるようにと言い置き、圭吾と家の客間に入っていった。
二人は遊ぶ気もせず、縁側で足をぶらぶらとさせた。
「あんな男やだな。父さんなんて呼べないや」
雅明がぽつりと言うと、貴明もうなずいた。
「じいちゃんやばあちゃんが生きてたら、反対したのにな」
「そうだよね」
やさしい三人がどうしてそばにいてくれないのだろう。
画家だった二人の父親の石川雅文は、いつも二階にあるアトリエで絵を描き、暇を見ては二人と遊んでくれた。やさしい祖父母も交代で二人の相手をしてくれ、母親のナタリーが仕事で多忙をきわめてそばにいなくても、二人は幸せで楽しく生活していた。
それなのに、雅明と貴明が学校に行っている間に、三人は事故で帰らぬ人となってしまったのだ。
葬式が終わってからは寂しい日が続いている。
ほとんど家にいないナタリーに代わって、雇われた家政婦の戸部恵子が母親代わりをしてくれていたが、所詮は他人だった。しかもこの中年女は、貴明に対する態度と雅明に対する態度が全然違うので、二人は彼女を嫌っていた。
そんなふうに家族を犠牲にして働いても、会社は赤字続きらしかった。
(母さんはきっと、会社のためにあの圭吾と結婚するんだ)
嫌だな……と雅明が思っていると、足音がしてその圭吾本人が現れた。圭吾はさっきと同じように貴明の腕を掴んだ。
「来い。アメリカの学校へ行くことになったからな。支度が整い次第車を出す」
「ええ?」
二人とも仰天した。貴明はまた目に涙を浮かべている。雅明は貴明の腕を掴んでいる圭吾の腕を引き離そうと、必死になった。貴明も圭吾の手をはがそうともがきだした。
「やだっ! 行かないよ僕」
「うるさいもう決まったんだ。こいつめ腕をはなせ!」
圭吾は雅明を睨みつける。
「絶対離すもんか」
しかし大人の力に敵うはずもなく、雅明は圭吾に突き飛ばされて、庭の池に落ちた。
「雅明っ!」
泣き叫んでいる貴明の声が遠くに聞こえる。
庭の池は水深がかなり深く、まだ泳げない雅明が必死でもがいて池を取り囲んでいる岩の一つにしがみついた時には、弟の貴明の姿は消えていた……。
家政婦の戸田がずぶぬれの雅明を見てびっくりして、あわててお風呂のお湯を沸かしてくれている間、雅明はひとりぼっちで縁側に足を抱えて座っていた。
「雅明ちゃん、お湯が沸いたから入りましょうね。風邪をひいてしまいますよ」
「……母さんは?」
「圭吾様と貴明様とお出かけになりました」
「アメリカに行っちゃったの?」
「……はい。貴明様は、アメリカの寄宿舎付きの学校に行かれるんだそうです」
貴明様、と戸田は呼ぶ。そして自分の事はちゃんづけで呼ぶ。
どうしてかは決まっている。貴明はきらきらの天使で、自分は真っ黒な髪の毛の悪魔だからだ。貴明は天才でナタリーはずっと英才教育を施していた。つけられている家庭教師が出す問題をすらすら解いている貴明の横で、雅明はちんぷんかんぷんなそれを見ているだった。いやがおうにも差を見せつけられた。
(……どうして僕も、賢く生まれてこなかったのかな)
雅明はいつも貴明がうらやましくて、仕方がなかった。でもアメリカには行かされたくはない。
その日の夜遅く、ナタリーが眠れずにいる雅明の枕元にやってきたが、雅明は寝たふりをした。
翌日、朝食をもそもそと食べている時に、ドイツに行かされると知った雅明は驚いてナタリーを見上げた。
「シュレーゲル……?」
「そう、その街に同じ名前の私の親族が住んでいるの。雅明はこれからそこで暮らすのよ」
そんなところに行きたくない。
ナタリーは、箸を置いた雅明を慰めるように言った。
「ごめんなさいね。今、会社はとても大事な時なの。私は貴方たちにかまってあげられない。だから貴方たちをもっと世話してくれる人が必要なの」
母さんはやっぱり僕がいらないんだ。と、雅明は小さな胸の中で思った。
「私も寂しいのよ……。本当は離れたくないのだけど……」
「……り」
「え?」
小さすぎる声で、ナタリーは雅明が言った言葉が聞き取れなかった。雅明は覗き込んでくるナタリーを睨みつけた。
「うそばっかり! 母さんはせいせいしてるんだっ! 僕はいらない子なんでしょうっ!」
「雅明!」
ナタリーに頬を叩かれ、雅明はさらに母を罵った。
「母さんも圭吾も、いなくなっちゃえばいいんだ。大っ嫌いだ!」
その言葉を最後に、雅明は誰とも口を聞かなかくなった。
ドイツ南部にあるシュレーゲルの館は、お城のような大きさだった。
今年で六十五歳になる大企業の経営者、シュレーゲル伯爵アルブレヒトは、明るく楽しく常に誠実な人物で、多くの人々に尊敬されて愛されていた。
そのアルブレヒトの、雅明に最初に出会った時の印象は『繊細すぎる』というものだった。
一方で、雅明がここへ来る前に会った事がある弟の貴明は、弱虫ですぐに泣くものの遥かに打たれ強く、猛禽類のような強さと、経営者の器があるように見えた。将来の経営者と見込んで、そういう子供たちが集まるアメリカの学校へ、貴明を行かせたナタリーと圭吾の目の確かさに、ナタリーの会社の赤字続きはこれからはなんとかなるだろうと、アルブレヒトは思っている。
だが雅明は……。
庭の片隅に座っているだけの雅明を、いとこの子供たちがなんやかんやとかまっているのをアルブレヒトは見た。雅明は何も言わずにその子供たちをじろっと見るだけで、遊ぼうともしていない。
「もうあんな子知らない!」
十歳になるエリザベートが、ぷんぷん怒りながらアルブレヒトの部屋に入ってきた。後ろでエリザベートの兄の、十二歳になるフランツも困り顔をしている。
「アウグストはドイツ語がわからないんだよ」
「私だって日本語なんてしらないわよ! でも日本語で話しかけても無駄なんじゃないの? 目を合わせようともしないんだもの」
「……エリサベートはアウグストが好きなんだろ? だから怒ってるんだ」
「ばっ……! 何言ってるのお兄様!」
エリザベートは顔を赤くして怒った。
雅明は弟の貴明の華やかさに隠れていたが、ナタリーゆずりの美しい顔をしていた。エリザベートは王子様みたいだと思っている。
「でもおじいさま。アウグストは大丈夫なんですか?」
フランツが緑色の瞳を向けてきた。アルブレヒトは新聞を読もうとして、伸ばした手を止めた。
「大丈夫か、とは?」
フランツはエリザベートと顔を見合わせ、自分の栗色の髪を掴んだ。
「アウグストの髪の毛ですよ。来た時は真っ黒だったのに、この一週間で銀色に変わってきていますが……」
それはアルブレヒトも気にしていたが、医師はストレスによるものだろうからどうしようもない。銀色になったからと言ってどうこうなるものではないが、そのストレスをどうにかする必要があると言っていた。
(見知らぬ異国でひとりぼっちにされたのだ。心を閉ざしても無理はない。ましてやあの繊細さだ……、ほかの子供たちより遥かに傷ついているだろう)
アルブレヒトがもう一度庭に目をやると、雅明に近づいていく同じ年くらいの少女が見えた。
(あれは……)
雅明の目の前に女物の靴が見えた。
見上げると、肩ぐらいまである長い黒髪を風に揺らめかせながら、同じ年ぐらいの少女がにっこり笑った。
「私、ソルヴェイ・彩って言うの。貴方はだあれ?」
久しぶりに聞く日本語に、雅明は泣きそうになった。