天使のかたわれ 第23話

 ソルヴェイと結ばれた翌日の昼、雅明が彼女との結婚の許可をもらうためにアルブレヒトの部屋へ行くと、エリザベートが来ていた。

「ちょうどよかったアウグスト、エリザベートの横に座れ」

 彼女の隣などいつも座っているのにと雅明は内心で首を傾げたが、特に反対するいわれもないので、おとなしくエリザベートの隣に腰を落ち着けた。

 窓から見える外は、雪がちらちら降っていて寒そうだが、ぱちぱちと暖炉の火が燃えているので、部屋は暖かく心地いい。

 アルブレヒトはとてもご機嫌そうに、二人の前に座り、足を組んだ。

「お前たちの、婚約式の日取りを決めようと思ってな」

「は?」

 雅明は驚き、にこにこ顔のアルブレヒトと、対照的に難しい顔をしているエリザベートを見比べた。

 それをなんととらえたのか、アルブレヒトは楽しそうに笑った。

「いいのう若い者は」

 我慢できなくなって雅明は立ち上がった。

「待ってください。私はリシーとは結婚できません。ソルヴェイが居るんですから」

 がらりとアルブレヒトが苦々しい表情に変わった。

「なにを言っとるんだおまえは。そんな話は聞いておらんぞ」

「だから今お伝えしています。私はソルヴェイが好きで、彼女も私を……」

 アルブレヒトは重々しく首を横に振り、立ち上がった。そのまま窓へ歩いていく後姿に雅明は言った。

「聞きました、リシーと結婚するという話が出ていたのは。ですが、まだ正式なものではない、それなら……──」

「アウグスト、お前は七歳の時に、一族によって、このエリザベートとの結婚が定められている」

「そんな昔から? 知りませんでした」

 これでわかった。何故エリザベートが、ソルヴェイと仲良くするのを邪魔したのか。婚約者と定められている男が他の女と仲良くしていたら、心穏やかでいられるはずがない。子供ならなおさらだ。

「言わなかったからな。言えばお前は何をするかわからなかった」

「そりゃ……」

「アウグスト。おまえはエリザベートが嫌いなのか?」 

「好きか嫌いかと言われれば、好きとお答えします。でも結婚は無理です。私はリシーを愛していない」

「まだ若いからわからないのだろうが、結婚は愛だけではできん。アウグスト。お前はエリザベートと結婚した方が、確実に幸せになれる」

 雅明は隣のエリザベートをちらと見た。彼女は難しい表情のままだ。

「エリザベートだって、好きな男と結婚した方がいいはずです」

 なるべくエリザベートを傷つけたくない一心で、雅明は言った。それがかえって彼女を傷つけているとも気づかずに。

 アルブレヒトはため息をついた。彼はエリザベートの雅明への好意を知っていた。だから彼女の心を思うと、やりきれない思いがする。成長するにつれてソルヴェイとは疎遠になり、会うたびに喧嘩をしても仲がいい二人を見ていたので、このままうまく行きそうだと思っていたのだ。

 振り返ったアルブレヒトは、シュレーゲル一族の統帥の顔をしていた。

「一族の富の分散は、今の時期は避けなければならん。お前たちは必ず結婚しな……」

「嫌です。それに私は財産もいりませんし、子会社を継ぐ気もありません! 経営能力がない人間に、会社を継がせようとしないでください。いくらでも他に人が居るでしょう?」

 自分はまた他人のいいようにされるのかと、雅明は腹が立った。

「画家をやめろとは言わない。アウグスト……」

 雅明はアルブレヒトを睨みつけた。

「会社は継がない。エリザベートとも結婚しない。私を縛らないでくれ!」

 話し合うだけ無駄だと思った雅明は、立ち上がり扉に向かった。その背中にアルブレヒトの怒鳴り声が追いかけてきた。

「いいか! ソルヴェイだけは駄目だ。絶対に許さんぞ!」

 雅明は扉を力任せに閉じた。

 腹立ちまぎれに廊下を足音をたてて歩いていると、エリザベートが追いかけてきた。

「待ってアウグスト」

 雅明は振り返って、怒鳴った。

「お前も何で言わないんだ! 勝手に決められて腹が立たないのか!?」

 いつもなら言い返してくる彼女なのに、今日のエリザベートは妙に静かだった。そこでやっと雅明は暴走気味の自分に気づき、気持ちを鎮めた。エリザベートはずっとこの婚約を大事に思ってきたのだ。雅明とは違って、生まれた時からシュレーゲル一族の掟にしたがって生きているのだから。

「……すまない、エリザベート」

「いいのよ。私も親のいいなりで結婚なんて嫌だったもの。……でも」

 美しい顔にエリザベートは影を作った。本当のことを言えば雅明は逃げてしまうとわかっているので、彼女は自分の気持ちを打ち明けない。

「おじいさまのおっしゃることは、正しいのよ。それだけはわかってあげて。それにおじいさまは、いつも貴方の幸せを考えていらっしゃるのよ」

「何故、ソルヴェイとの結婚に反対するんだ? 若いからか?」

「だっていきなりすぎやしない? 貴方が結婚したいと思うほどソルヴェイが好きだったなんて、私も今日知ったわ」

「そうかもしれないが、見合い相手がいるんだろ? 早くしないと、確定してしまうかもしれないじゃないか!」

「そう……ね」

 エリザベートの返事は彼女らしくなく、精彩を欠いていた。言いたいことが言えないでいるからそうなっているのだが、自分とソルヴェイの結婚だけで頭がいっぱいになっている雅明は気づかない。

 部屋へ戻ると、雅明はすぐにソルヴェイへパソコンでメールを送った。しかし、帰ってきた返事はソルヴェイの父親からのもので、愕然とする内容だった。

”ソルヴェイには二度と近づくな。ペーター・バスとの婚約が決まった”

「……ソルヴェイ」

 愛していると自覚した瞬間に、二人は引き離されようとしている。

 

 雅明は監視されるようになった。館の中でも外でも、常に屋敷の男たちが見張っている。部屋の中に、盗聴器が仕掛けられている確率も高そうだ。

(何故なんだ。何故そんなに見張られなければいけないんだ)

 雪が積もった道を歩いている雅明は、腹立ちまぎれに、後をつけている男に雪玉を投げつけて命中させた。

 ソルヴェイの父親から、相当強く言われたにちがいない。思えばあの父親は、昔からあまり雅明に対していい顔をしていなかった。いや、雅明だけではない、アルブレヒトにもエリザベートにもそっけなく挨拶するだけで、パーティに呼ばれても、すぐに帰るほどの無愛想ぶりだった。シュレーゲル一族を嫌っているのだろう。

 ソルヴェイの母は亡くなっているので、面識はない。しかし、もし生きていたなら、彼女との橋渡しをしてくれたのかもしれない。日本人だったというだけで、雅明はソルヴェイの母を善人のように思っている。

 不意に郷愁がこみあげてきて、灰色のドイツの空が嫌になった。

 ドイツは冬になると灰色の空ばかりで、滅多に青空を見られない。日本はそうではなかった……。

 アルブレヒトによると、あの石川の家はまだちゃんと存在しているらしい。雅明はソルヴェイと住みたいと思っていた。そしてまた、昔のようなあの温かな家庭に触れてみたかった。

「ソルヴェイ……」

 何日経っても、数ヶ月が経っても、監視は解かれなかった。

 めずらしく監視している男たちをまけた日、雅明は晴れ晴れとした気分で街中を歩いていた。そこかしこに春の気配がただよっていて、さらに雅明の気分を高揚させる。

「アウグスト君」

 雅明が顔を上げると、そこは画家のシラーの家の前だった。シラーは雅明に手招きをして、家の中に入るように促した。

 シラーは十年前に妻を亡くし、子供もおらず、一人暮らしだった。今も長年連れ添ったその妻を愛していて、家の中はその妻の絵が至る所にかけられている。若い頃、結婚式の頃、そして年老いた近年……。

 狭い居間に案内された雅明の目に、優しいものが入ってきた。

「……ソルヴェイっ!」

 ソファから立ち上がったソルヴェイの細い身体を、雅明が力いっぱい抱きしめると、ソルヴェイもしがみついてきた。

「……逢いたかった! 父にもアルブレヒト様にも、アウグストには絶対に逢わせてもらえなくて……。この数ヶ月の間、気が狂いそうだったわ」

「私もだ」

 久しぶりに会えてうれしくて、雅明は笑み崩れた。ソルヴェイは、相変わらず日本の香りがする。優しくて、温かくて……。

 キスを繰り返す二人に、シラーが咳払いをした。そこで二人はようやくシラーが居たのを思い出し、赤面して離れた。

 シラーは、二人を自分と向かい合わせのソファに座らせた。

「アウグスト君。君はずっと画家をやっていくつもりか?」

「はい、事業を継ぐ気はありませんから」

 そうかと頷き、シラーは白い封筒を雅明に差し出した。

「紹介状を書いた。ベルギーのブリュッセルに、私の友人でディルク・ディートリヒという画家が居る。彼を訪ねるがいい」

「シラー先生?」

 白髪頭を撫で付けて、シラーは微笑んだ。

「あの家にいては窮屈だろう? それくらいならばいっそ国を出てしまえば良いのだ。ディートリヒは私より有名だ。才能もある。アウグスト、君の将来の為にもいい事だと思うぞ」

「……でも」

 雅明は躊躇った。

「一人前と認められるには、それなりに成功せねばな……。ソルヴェイと結婚したいのだろう?」

「はい」

「ならば、数年の別離ぐらい我慢しなさい。ソルヴェイは婚約したとしても、挙式は二十歳になってからと聞いた。二年もあれば、アウグスト、君の才能ならばもっと広く世に認められているはずだ」

 雅明は悩んだ。ソルヴェイとは別れたくないし、事業を継ぐ気もない。だが今のままでは、誰からも彼女との結婚を認めてもらえそうにもない……。

 この異国で、自分は一人でやっていけるだろうか。

「大丈夫よ。手紙を書くわ!」

 明るく言うソルヴェイに、雅明は顔を上げた。彼女の顔に子供の頃のはつらつさが戻っていた。

「シラー先生、お願いがあります。アウグストからのお手紙は、先生が受け取ってくださいますか? 私の家だと父に取りあげられてしまいます」

「かまわないよ」

 戸惑っている雅明にソルヴェイは言った。

「ね、大丈夫よ。私、ずっと待ってるから!」

「でも」

「たった数年でしょう? アウグストなら大丈夫よ。私、信じてるから……。今のままだと、絶対にお父様もアルブレヒト様も認めてくださらないわ。私、アウグストと結婚したいの。お願い」

 恋人の懇願に、雅明はようやくうなずいた。

「わかったよ。やってみる」

 シラーは満足そうにうなずき、二人の逢瀬のために家の外へ出て行った。

 二人きりになると、雅明はソルヴェイの肩を抱いて、いろいろこれからについて話し合った。積もる話や未来への夢が沢山ある。

 しかし、恋人たちの濃密な時間は冬の昼のように短く、あっという間に夕方になった。

 もう帰らなければと雅明が残念そうに言うと、ソルヴェイは自分のウェストポーチから手帳を出した。

「その方の住所を教えてくれる? 紹介状に書いてあるみたいだから」

「いいよ」

 その時、はらりとソルヴェイのポーチから、白い小さな紙切れが落ちた。

 ソルヴェイは顔色を変えてそれを取ろうとしたが、雅明の方が早かった。

「なにこれ?」

「見ないで!」

 ソルヴェイの言葉よりも早く、雅明はその紙に書かれているものを見てしまった。

 それは産婦人科の領収書だった。

「だめっ!!」

 ソルヴェイはそれを素早くポーチに入れた。

 雅明はそのソルヴェイをぼんやりと見た。何故そんなに血相を変えるのだろう。女ならば、受診しても不思議ではないはずだ。

(まさかソルヴェイは……) 

「……早く住所教えて」

 細かく震える手でペンを持つソルヴェイを、雅明は優しく抱き寄せた。驚きと恐れと喜びと不安で胸が高まり、呼吸が苦しい。

 心当たりが一つだけある。相思相愛だとわかったあの日、二人は雅明のベッドで……。

「子供、できたの?」

「違うわ! 生理不順で……」

「うそはよくない。正直に答えて」

「本当よ」

 ソルヴェイは首を横に振ったが、雅明はそれでかえって確信した。

「……今からソルヴェイの父上の所に行こう?」

「駄目! そんな事をしたら赤ちゃんが殺されてしまう! そしてアウグストとの結婚をますます許さなくなるわ! 父ならそうするわ。そういう人なんだからっ!」

「……そら、やっぱりそうなんじゃないか」

「あ……」

 ソルヴェイは雅明に口車に乗せられて、妊娠を認めてしまい、口を手で塞いだ。そしてうつむいて泣き始めた。

「ごめんなさい……。私、私」

「……今、何ヶ月なの?」

「……五ヶ月」

 こんな重い秘密を、彼女は一人ぼっちで抱えて過ごしていたのかと、雅明はそうさせた自分が情けなかった。そしてこれも自分が避妊に失敗したせいだと、自分を責めた。二人とも初めてで、避妊具の使い方を誤ったのかもしれない。

「……ごめんなさい」

「あやまらないで、私が悪いのだから。私に全部の責任がある。謝るのは私の方だ……。何も知らずにソルヴェイだけを苦しめてしまった」

 ソルヴェイのおなかを触ると、少しだけ膨らんでいた。ゆったりとした服装をしているので、今までばれずに済んだのだろう。

 どうしたらいい。このままでは、子供も結婚も夢となって消えてしまう。あの石川の家で穏やかな家庭を築く夢も……。この温かなぬくもりと、新しい命を手放したくない。これさえあれば、自分はどんな困難にも耐えてゆけると思えるぐらいに、愛しいものだ。

 雅明は白い封筒を手に取った。そうだ、もうこうするしかない。

 思い切り、震えるソルヴェイを抱きしめる。

 迷いはない。

「ソルヴェイ。一緒にベルギーに行こう」

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