天使のかたわれ 第24話

 翌朝、アルブレヒトは、雅明の部屋で置き手紙を握りしめた。

” 愚かな孫をお許しください ” 

 部屋の中のものは、ほとんど持ち出されておらず、事件性は皆無だった。

 置手紙を発見したのは館のメイドで、いつも六時に朝食のテーブルにつく雅明が部屋から出て来ない為、具合でも悪いのだろうかと心配して部屋に入ると、机の上にこの置き手紙があったのだという。

「おじいさま……」

 背後から遠慮気味に声をかけるエリザベートには、アルブレヒトの絶望のほどがよくわかる。彼女もまさか雅明が、こんな暴挙に出るとは思っていなかった。今回改めて、雅明はシュレーゲルの異端児だと思い知らされた気分だ。

「……こんな!」

 アルブレヒトは机を拳で叩いた。

「馬鹿者がっ! ……これであいつの未来は台無しだ!」

 すぐにアルブレヒトは、雅明の捜索を開始した。

 雅明の車は、車庫に置かれたままになっていた。足がつくのを恐れたのか、タクシーが使われた形跡もない。友達、一族、クラブ仲間などをしらみつぶしに探しても、誰も二人の行方を知らなかった。当然ながら、シラーのところへも問いあわせたが、彼は二人の逃避行に口を閉ざした。

 あっさりと見つかると思われたが、手がかりになるものは何一つ発見されなかった。

 夕刻、机に突っ伏しているアルブレヒトに、部屋の入り口から執事が遠慮がちに言ったた。

「アルブレヒト様、お隣のヨヒアム様がおいでになりましたが……」

 訪問の目的はわかっている。ソルヴェイがいなくなった、どこへやったかと聞いてきたのだろう。アルブレヒトはすぐに行くと返事して、執事を追いやった。

 エリザベートが何かを言いかけたのを押しとどめ、アルブレヒトは暗い瞳を彼女に向けた。

「あれほど言ったものを……。リシー。非力な老人の私を許しておくれ。アウグストの馬鹿め。なぜお前というすばらしい女が居るのに、よりにもよってソルヴェイを選んだのか……」

 エリザベートは、優しくアルブレヒトの背中を摩った。

 アルブレヒトの妻は二十年ほど前に他界しており、孫の彼女がアルブレヒトの世話をしていた。アルブレヒトの経営している会社を全て引き継ぐために、始終アルブレヒトの傍にいるエリザベートは、一族の若者の中で一番優秀な人間だったので、誰も疑問に思わないし文句も言わない。

「……仕方ありませんわ、おじいさま。アウグストはいつだって日本に帰りたがっていたのですもの」

「いくら見かけが日本人でも、ソルヴェイはドイツ人だ」

「ええ……」

 エリザベートは目を伏せた。アルブレヒトは深い絶望のため息を吐く。

「……ナタリーに、なんと言えばよいのか」

 首を軽く横に振り、アルブレヒトは部屋を出て行った。その足どりに快活さは全くない。

 一人残されたエリザベートは、カールしている自分のプラチナブロンドの髪に、そっと触れた。

 近日中にシュレーゲル一族は、雅明をどう扱うか会議をするはずだ。もともとナタリーを母とする雅明達は、部外視されている存在だった。ドイツに住んでいないことと、アルブレヒトの次男だったナタリーの父親が勘当されていたためだ。不動産会社を興したナタリーが佐藤圭吾と結婚して業績を伸ばし、大手ゼネコンにのし上がるまでは、一族とは認められていなかった。

「アウグスト……」

 絶対に振り向かない、誰よりも美しくて残酷な従弟。

「アウグスト、何もかも失って帰っていらっしゃい。抜け殻になっていても愛してあげる。その時は絶対に逃さないから」

 唇をきつく噛み、エリザベートは朝から机に置かれていた置手紙を、真っ二つに引き裂いた。

 

 一方雅明は、ソルヴェイのおなかの子供に気遣いながら電車の旅を続け、数日後にベルギーの首都ブリュッセルに着いた。隙間がない石造りの建物が建ち並び、かなり重苦しい。しかし、人々があふれていて活気に満ちている。

 この国は政府がマリファナを法律で容認しているので、自分にも身重のソルヴェイにも要注意だ。普通に人々が歩く道端に、気軽に吸えるようにその手の店が建ち並んでいるのが信じられない。

「ソルヴェイ、一人でなるべく外をうろつかないでくれ」

「わかっているわ。安心して」

 二人は紹介状にあったディートリヒの住所を訪れた。そこはかなり大きな門がある、貴族が住むような館だった。ディルク・ディートリヒは大きな貿易会社の三男だった。

 ディルクと、ディルクの兄であるディートリヒ貿易の社長のパウルは、二人を喜んで迎え入れてくれた。

「シラーから話は聞いているよ。でもまさか、恋人まで連れてくるとは思っていなかったよ」

 ディルクはまだ四十歳前の独身で、くすんだ金髪のどちらかというと冷たい容貌の持ち主だが、親切な男のようだ。兄のパウルも同じような感じだ。だが彼はもう結婚しており妻子が居る。

 雅明はソルヴェイを紹介した。

「妻のエミリアです。妊娠五ヶ月の後半です」

「え? 結婚していたの?」

「はい、でも……家には内緒にしておいてください」

「駆け落ち同然というわけか」

 パウルが面白そうに笑った。雅明は自分の名をノアと名乗り、ソルヴェイにも偽名のエミリアを名乗らせていた。ちなみに画家としての活動も、偽名を使うつもりでいた。少なくともあと二年は……。

 壮麗な屋敷の中の一部屋を与えられ、二人のベルギーでの生活は始まった。

 すべて順風満帆だった。雅明は画家としての腕を上げ、ディルクの後押しもあって画商からの予約がひきをとらなくなった。雅明はお金にこだわる男ではなかったから、半分はディートリヒの家に納めた。

「こんなにいただくわけにはいかない」

 半分としても巨額な金額に、パウルは固辞した。しかし、雅明が頑として受け取って欲しいと差し出すので、パウルはこっそり雅明名義の通帳を作って、彼の為にすべて貯金してやることにした。

 やがてソルヴェイは元気な男の子を出産し、名前はミハエルと名付けられた。

 瞬く間に月日が過ぎ、ベルギー生活がすっかり安定した頃、雅明は絵画展の為に留守が多くなった。

 一才のミハエルは、雅明がいないと探し出す。

「ちゃーちゃー!」

「父上はお仕事なの。でもすぐ帰ってくるわ」

 留守がちといってもすべて国内なので、二、三日後には必ず雅明は帰ってくる。

 ソルヴェイはミハエルを抱き上げ、優しく頬ずりした。優しい夫。可愛い息子。広く美しい庭。穏やかで幸せなのに、ソルヴェイは時々恐ろしくなる。

 恐ろしい影が、いつも自分たちを見張っている気がしてならない。

 その冴えない表情のソルヴェイを、ディルクは不思議に思っていた。駆け落ち同然の結婚だったから家が恋しいのだろうか? でもそれにしては表情が暗すぎる。

「ノアが心配ですか?」

 ディルクの声にソルヴェイは、はっと振り向いた。

「いいえ、幸せすぎて怖くて」

「怖い?」

「気になさらないで。時々私は……」

 ふつと言葉を切り、ソルヴェイは黙り込んだ。その表情は固く、いつもの朗らかな彼女ではない。

「時々、私はノアが……」

「ノアが?」

「いえ、なんでもありません……。すみません。幸せなのにおかしいですね私」

「…………」

 とんとん拍子に、夢を叶えて光り輝いていく雅明。ソルヴェイの知っている雅明は負け知らずで、強くて、すばらしい男だ。だが、いつまでそれは続いてくれるのだろうか……。

 こんなに幸せが続くと、その反動が怖い。ソルヴェイは不幸の中で育った女で、それゆえに、それを案じずにはいられないのだった。

 一方ディルクは、ソルヴェイの言葉をはき違えていた。妻子を溺愛している雅明が、何かひどい暴力を振るう時があるのかもしれないと。それならばなんとかしなければと考えたのだ。

 そこへ雅明が帰ってきた。

「ちゃーっ!」

 ミハエルが飛び出していく。

「ミハエル元気だったか? お利口にしてたか?」

「あい!」

 雅明は優しく子供を抱き上げる。

 どう見ても幸せそのものの家庭だ。しかし、ソルヴェイの顔色はどこか冴えない。そしてそのソルヴェイを、一瞬鋭い目で雅明が見たのをディルクは見てしまった。

(何かある。重大な何かが)

 考え込んでいたディルクは、雅明の声に一瞬反応が遅れた。

「あ、何だ?」

「ですから、来月から一週間、フランスで絵画展を開く事になったんです」

「……へえ、それはすごいな」

 ディルクの胸を嫉妬がちくりと刺し、どす黒いものが広がっていく。

 まだベルギーに来てニ年しか経っていないのに、もう雅明は、ディルクを上回る評価を得ていた。このままどんどん伸び続けるのだろう。

 天とは、与える者にはたくさんのものを与えるらしい、そう思いながらディルクは笑顔で嫉妬を押し隠し、雅明を見返した。

 ソルヴェイは雅明を見上げる。

「寂しいわ」

「大丈夫だ。すぐ終わるんだから」

 幸せそうに妻を抱きしめる雅明を見て、独身のディルクは再び暗い感情を燃え上がらせる。

 この男に挫折というものは、果たして存在するのだろうかと。

 

 それは不運な偶然だった。

 ソルヴェイの父ヨヒアムが街を車で走っている時、彼は雅明の絵の師であるシラーを見かけた。

「あの男は確か……」

 運転手に命じて車を止めさせる。

 シラーは、スポンサーの一人である起業家と、カフェの外で話をしていた。

 その起業家はベルギー人で、ヨヒアムも知っている鉄鋼業の社長だった。

 ヨヒアムは娘のソルヴェイと雅明の行き先を探していたが、二人の行き先は杳としてしれない。アルブレヒトも探しているようだったが、まだ見つけていないらしい。

 シラーが雅明に絵を教えていたことを、ヨヒアムは知っている。

(まさか、とは思うが……)

 家に戻ってからヨヒアムは、部下に命じてベルギーでの新人の画家を捜させた。そして数人に目星を付けて、さらに家族調査をさせる。

 すると、あった。

 ディートリヒ家に住んでいる、二十歳過ぎの画家とその妻子が。

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