天使のかたわれ 第26話

 ぐいぐいと己の慾を押し込み、細い腰を腕で固く抱きこんで揺さぶると、女は嬌声をあげて自分にしがみ付いてくる。柔らかな肌は吸い付くようで、どこもかしこも甘い香りが漂う。好きな匂いではない。だが、嫌いでもない。

 口付けを求められて望みどおりに舌を絡め、蕩けるように撫でて深く己の方へ引き込み、深く深く口付けていく……。女のぬかるみは熱く何度も達したせいか、より柔らかく慾を締め付けて開放を求めている。

 唇を離して銀の糸を舐め取り、雅明は淫靡に笑った。

(もう頃合だな)

 そろそろいくらこの女でも限界だろう。

 女の奥深くに己のものを埋め込み、慾を解放した。

 女たちの部屋に転がり込んで、愛される頃にはその部屋を出る。そういうことを雅明は繰り返し、気がつけば二十四歳になっていた。

 激しく身体を重ねていたベッドから起き上がり、雅明は裸のままで近くのテーブルから煙草を一本取り、火をつけ、煙を燻らせた。

 まだ日中だ。今日はいい天気なのか、カーテンを閉めていても部屋の中は明るい。

 真冬でも暖房が効いているこの部屋は、裸でもまったく寒くない。肌触りが極上の絹のシーツ、華やかな刺繍の入った天蓋の布。足を下ろせば毛の深いカーペットがあり、冷たい床などない。

 今雅明を囲っている女はアンネといい、このブリュッセルでは知らぬ人間などいない有名な売春婦だった。雅明が今まで抱いてきたどの女よりすばらしい肉体の持ち主で、年は25歳、ブロンドの長い髪を持っていた。

 あの『夜の白鳥』の中で女王のように君臨し、気に入らなければ、何千万ユーロと積まれても相手にしない。特定の売春婦にしか許されない拒否権を持つ高嶺の花だ。

「私にも煙草を頂戴」

 寝たかと思っていたのにアンネは起きていて、雅明は新しい煙草を一本アンネに手渡し、自分の煙草の火をわけた。

 おいしそうに吸って、アンネは笑う。

「リーゼがいまだに貴方に未練があるみたいよ? まだ私のところから出て行かないのか? って聞いてきたわ」

「リーゼ?」

 誰だと雅明は少し考え、一年ほど前に別れた茶色の髪の女を思い出した。

「その様子だと、あの子は失恋確定よね」

「女の愛などいらない」

 雅明は不機嫌そうに目を細めた。

「そうよね……愛などいらないわよね」

 アンネが深く頷く。煙草を雅明に持たせ、蝶の羽のように薄いランジェリーを着た。白く透ける布が、彼女の豊満な身体を完全に隠すどころか、より魅惑的に見せている。多くの男はここで再びアンネに挑むのだが、雅明にその気配は無かった。

 煙草を再び深く吸って、アンネは笑った。

「愛なんてあっても、お腹はいっぱいにならないわ。お金がないと何も手に入らないもの。美味しいものも、美しい服も、住まいも、娯楽も、男も……」

「ふうん」

 雅明は煙草を灰皿に押し付け、ベッドから出た。

 着替える雅明を、アンネは惚れ惚れと見る。

 職業柄、アンネは数え切れぬほどの男を相手にしてきたが、こんな男は生まれて初めてだ。

 この引き込まれるような妖しい美しさの中に見え隠れする、荒々しさや繊細さや高貴さはどうだろう。幾人もの女と寝て得たセックスの技術は素晴らしく、彼女を果てしない天国へいつも導いてくれる。

 男たちは皆、アンネの機嫌を伺ってくるのに、雅明はそのそぶりもない。それがアンネのプライドに触り、なんとか跪かせようと躍起になっているうちに、雅明を深く愛してしまった。

 しかし雅明は愛をひどく嫌い、少しでも女がそのそぶりを見せると別れてしまう。何人もの女がその憂き目に会い、涙を流している。

 だからアンネは、愛しているそぶりをまったく見せないようにしている。だから、数ヶ月で別れるはずの雅明が、一年以上もアンネの部屋に居ついている。

 アンネにとっては、この一文無しの雅明が、絶対に手放したくない男だった。

 着替えた雅明は、テーブルの上のユーロの札束を、コートのポケットに無造作に押し込んだ。これは毎月のアンネからのお手当てだ。せがめばもっとアンネは出すのだろうが、雅明がせがんたことは一度も無い。

「まだ昼だけど、どこに行くの?」

「その辺をぶらぶらしてくる」

 くすりとアンネはベッドの上で笑った。

「向こうの通りの美術館で、誰かの展覧会をしているものね」

「……そうだったかな」

 寝室の扉の前で、雅明は足を止めた。じっとアンネが見つめているのがわかるが、振り返ることなく寝室を出た。

 美しい夜景が一望できるリビングを通り抜け、雅明の部屋、アンネ個人の部屋、書斎などを通り過ぎ、広い玄関へたどり着く。この最上階の部屋の住人はアンネと雅明だけで、大理石の廊下には誰も居ない。

 エレベーターで一階へ降りると、ガードマンが頭を下げ、マンションのドアを開けた。

 

 その絵画展は、あのディルクのものだった。準備しているのを数日前に見かけ、行かない方がいいとわかっていても、迷惑をかけた相手がうまくやっているかどうかが気になっていたので、ずっと離れていたにもかかわらず足を向けたのだ。

 鏡に映る自分は、かつてのような晴れやかな姿ではない。誰も自分とは気づかないだろう。

 だから雅明は安心して、絵画展の会場へ入った。

 絵画展は盛況で、人の波を縫うように歩かないと絵画にたどり着けない。ディルクは雅明があの家に住んでいた頃は不調だったが、今こうしてちゃんと復活していることに雅明は安心した。

 酷評はされたが、自分のしたことを思えば恨む気は無い。

 ひとつの絵の前にようやく辿りつき、雅明はそれを見上げた。

(これは……)

 描かれていたのは静物画だったが、その技法に見覚えがあった。それを雅明は人物画で使っていた。しかし、無理に静物画でそれを用いられているため、妙にそれが浮いて見えた。

 気のせいかと思い、次の絵を見る。雅明は絵を見ていくにしたがって、怒りや悲しみが己の心の奥底に湧き出てくるのを感じた。

 会場の隅に置かれている、批評家たちの評が掲載されていた新聞を読み、その怒りがはっきりとした輪郭を持つ。

 その批評家たちは、かつて同じ技法で書かれた雅明を酷評した者達だった。雅明の時はあんなにひどく書き散らしたくせに、この賞賛ぶりはどうだ。

 あまりに感情的になりすぎたせいか、頭に血が上ってくらりとする。雅明は展示会場から出て、用意されていた庭の喫茶スペースを通り過ぎた。怒りでどうにかなりそうな顔を人に見られたくなくて、さらに庭の奥深くへ進んだ。

 ちょうどベンチがあった。雪がちらちら舞っていたが太陽が出ているので暖かい。雅明は少し積もっている雪を払い、腰掛けて空を仰いだ。

「うまくやったな、ディルクの奴……」

 呼吸を整えていると、向こう側から男の声がした。雅明の姿は死角になって見えないようだ。雅明も知っている中年の画家、二人だった。

「あれって、あいつんちの居候だったノアって奴の編み出した技法らしい」

「人物画の?」

「ああ。だからあいつの静物画に合ってないんだ。でもま、批評家を抱きこんでるから大絶賛さ」

「あのヨヒアムの庇護を受けてるからなあ……。うまくやったなあいつも」

 野卑た笑いが、ひどく不快だ。

「ノアの技法を盗みまくって、今では売れっ子画家様。一方でノアはどこで野たれ死んだやら誰も知らないとは、気の毒なことだ」

「ディルクはノアを、酷評をもとに家を追い出しらしいしな。自分でやっといてひどいものだ」

 雅明は本屋へ行き、出版されているディルクの画集を開いた。

 どれもこれも見覚えのある描き方だ。おかしく見えるのは、あきらかに雅明の技法をそのまま用いると見破られるため、ディルクのごまかしを取り混ぜているからだ。

 吐き気を覚えて、雅明は本屋を出た。

 あの技法を出すのに、雅明はシラーから何度も指導を受けた。シラーの指導は厳しかったが、それでもやり遂げられたのは、あの温かなシラーの手があったからだ。

 そうそう真似できるものではないのを、ああも再現できるのは、ずっと隠れて盗み見ていたのだろう。

 ソルヴェイや自分の境遇や本名を騙していたのは、明らかに自分が悪いが、これはまるで、雅明の負い目を踏み台にしてのし上がっているだけだ。あらかた盗んだ頃に、どうやって雅明を追い出すか考え、うまい具合にヨヒアムがやってきた。そして二人は共通の目的……、雅明の社会的信用失墜に乗り出したのだ。

 がつとレンガの壁を叩く。

 自分もソルヴェイも、ディルクの卑怯な虚栄心のために不幸になったのだ。元を作ったのは確かに自分だが、それでも幸せだった。

「……許せない!」

 しかし、すぐに雅明は怒りから醒めた。

 今の自分は、アンネの元で飲んだくれているただの居候だ。

 絵以外は何もしてこなかった自分は、絵を奪われて諦めた今は何の価値も無い。

 武器を持たない雅明は、二人に何もできはしないのだった……。

 絶望だけが雅明を満たしていく。

 夏の夜のブリュッセルの繁華街の裏は、妖しい熱気に満ちあふれている。

 男と女の情熱。

 酒と賭博。

 そして……マリファナの煙……。

 祖父アルブレヒトが、あれほどソルヴェイとの結婚を許さなかった理由。それがこのマリファナだった。

 彼女の父、ヨヒアムはドイツ国内での麻薬密売組織の総元締だった。裏の社会に精通し、裏工作や人殺しなど生業としている。表向きは普通の運送業の会社。だが裏の仕事が本業だった。

 シュレーゲルの後ろ盾が無い雅明を陥れることなど、朝飯前の容易さだったにちがいない。

 けばけばしいネオンの中で、雅明は自嘲した。飾り窓から売春婦たちが雅明に視線を投げ掛ける。もう女はいらないと彼は思った。アンネの部屋にも戻りたくない。

 結局ソルヴェイでないと自分は満足できないのだ。

(私は私にふさわしい地獄に堕ちたんだな。最初からこうなる事が、じじいには見えてたというわけか)

 雅明はふらふらと一つの店に入り込んだ。マリファナを数人の客が吸引しており、煙が店内で充満している。ここは合法的にマリファナを販売している店だったが、特にお金を出せば法で定められた以上のマリファナを出す。

 紫色の薄暗いライトが照らす店内で、雅明は吸引器具にマリファナを入れて火をつけた。麻薬に手を出したのは今日が初めてだった。

 しかし、吸い口に唇を寄せたときに、誰かが吸引器具を叩き落とした。

「……何をするんだっ!」

 雅明は叩き落とした人間を睨みつけ、目を見張った。

 そこに居たのは、祖父のアルブレヒトだった。

 何故こんなところにいるのだろう?

「堕ちる所まで堕ちたようだな。麻薬に手を出すとは」

「うるさい、私の事は放っておいてくれ……。立派な家名に傷がつく」

 雅明は吸引器具を手に取ろうとしたが、アルブレヒトに胸ぐらを掴まれて頬をぶたれ、床に転がった。

「そうやってお前が堕落するのを見て、お前を不幸にした人間が喜んでいるのだと何故気づかんのだ?」

「勝手に喜べばいいだろう。喜んでもらえて光栄だ」

「日本で、お前の弟の佐藤貴明は立派に会社を再建しているというのに、兄がこのていたらくとはな」

「……貴明はりっぱなご仁だからな。あっちは天使で私は悪魔というわけさ」

 やつれきった顔で力なく笑う雅明を見下ろし、アルブレヒトが悲しげに顔をゆがめた。

「……悪魔は元は天使だったんだぞ? お前は自ら悪魔になったんだ」

「だから、……だからお望み通り、いなくなってやるって言ってるんだよ!」

 叫んだ瞬間、雅明はアルブレヒトに老人とは思えない力で引き摺りあげられて、殴られ、他の客のテーブルにぶつかって再び床に転がった。

 マリファナで気分が高揚している客たちは、それを見て喜んでいる。

「今ならまだ間に合う! 絵を描け! このままで終わっていいのか」

 雅明は唇の端から流れ出た血をぬぐい起き上がろうとしたが、そのまま座り込んでしまった。

「画家としての私の名前は地に堕ちてんだ。本名に戻しても無駄さ、皆知ってるんだから。酷評の嵐のあとで大量に画商から返品されて、損害賠償を支払ったぐらいだ。再起しようとしたってもうベルギーでは無理なんだよ!」

「ならばドイツへ帰ってこい。あのシュレーゲルの街へ帰ってこい」

 アルブレヒトが跪き、噛み付くような顔をしている雅明の頬を、しわだらけの手で挟んだ。

「誰が受け入れなくても、私はお前を受け入れよう。お前を信用する」

 雅明は首を力なく横に振った。

「じじいだけが受け入れたって……」

 うつむく雅明の頭を、アルブレヒトは優しく撫でてくれた。

「ナタリーが、お前の絵を毎朝眺めてなかなか動かんと、貴明がぼやいていたぞ。お前が初入賞したあのソルヴェイの絵を、ナタリーに送ったんだ」

「…………」

「ナタリーと貴明も、お前を受け入れてくれるだろう。雅明、お前のそのすばらしい才能が本物だという事を、人の心を揺さぶるものだという事を私は知っている。……描いてくれアウグスト。今は誰も振り向かなくとも、描き続けていけば必ず認める者が出てくる」

 雅明の膝に涙がぽたぽたと落ちた。

「……本当に? こんな私でも……。母さんと貴明は……」

「当たり前だ。お前はあの二人の家族だろう? 遠く離れていてもいつも一緒にいたんだぞ? シュレーゲルの家に帰ったら、二人から送られてきた手紙の束をお前に渡そう。すごい量だ」

「……私は」

 自分は何もかも失ったわけではなかったのだ。

 その熱い想いが、希望となって雅明の心を満たしていく。涙はあふれて止まらない。アルブレヒトが優しい笑みを浮かべて、雅明を抱きしめた。

「アウグスト……いや、雅明。お前は私の誇りなのだよ……」 

 アルブレヒトの肩は、相変わらず温かかった。

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