天使のかたわれ 第30話

 エリザベートと食事をした翌日、朝から激しい雨が降った。雅明は仕事があるという少年を車で自宅の近くまで送ってやり、そのままトビアスの館へ行った。

 厨房で朝食を作ってもらい、一人で食べていると、アンネがやって来た。

「貴方、ご飯ぐらい自分の部屋で食べたら? 厨房は料理をするところで、食べるところではないわ」

「待てないんだ」

「呆れるわね」

 アンネはトビアスの食事を取りに来たらしく、用意されていたワゴンを押して出て行った。それくらい使用人の中年女にさせればいいのに、アンネは妙なところで家庭的なところがある。

 腹が満たされると雅明は部屋へ戻り、パソコンを立ち上げた。今追っている仕事のいくつかの情報を仲間と通信を開始し、それを記憶してトビアスに報告したり、要望された先へ知らせたり、また、こちらからの情報を告げる。

 その中の一つの情報に、雅明はキーボードを打つ手を止めた。

 シュレーゲルの近くに住む仲間からのその情報は、事務的で簡潔に、雅明の心を抉った。

”ヨヒアム 所属 ワルター・クロイツ ソルヴェイ ミハエル 射殺される”

 たちの悪い冗談だと雅明は思った。昨日、三人はあのレストランで仲良く楽しく食事をしていたのだから。

 そうでなければただの間違いだろう。

 雅明はそう決め付けて、パソコンを閉じた。

 煙草に火をつけてソファに寝転がる。雨はいよいよ激しく、うるさいくらいだ。その音が嫌に身体に響いて落ち着きを失わせていき、雅明を仕事どころではさせなくする……。

 気がついたら雅明は、雷鳴が轟く大雨の中で再び車を走らせていた。当然ながら人の姿は少ない。昼なのに空は夜のように暗く、ライトをつけないと前が見えない程だ。バケツをひっくり返したように降る雨のせいで、ワイパーを速めてもわずか五メートル先も見づらかった。

 店の前で車を止めて、ハザードランプをつけた。

 車のドアを開けただけでずぶぬれになった。傘は頭を濡れないように守ってくれるだけで、たちまち肩から下は雨で濡れそぼっていく。それでも雅明は店へ行き、あるだけの新聞を購入した。店員が気を使ってビニール袋に包んでくれたので、それだけは濡れずに済んだ。

 車内に入るなり、雅明はビニール袋から新聞を全部出し、片っ端から読んでいった。

 どの記事もわずかに表現が違うだけで、すべて同じ内容だ。闇の組織にいる雅明の方が、はるかに真実に近い情報を握っているのにも関わらず、雅明はそれを嘘だと思いたくて新聞を買ったのだった。

 雨はこれでもかとばかりに、車のボディーをめちゃくちゃに叩きつける。ハザードランプもわずかな効果しかない。ランプをつけていなければ、追突されかねない視界の悪さだ。

 薄暗闇の中で全ての新聞を読み終えた雅明は、サイドシートにぐしゃぐしゃに捨て置いた新聞の山に、それを叩き付けた。

 どれも同じだった。

 ワルターの名前は出ていなかったが、ソルヴェイとミハエルの死だけは伝えられている。違う部分は、あのホテルのレストランを出たところを射殺されたというところだけだった。

 あんなに幸せそうだったのに。

 だからこそ、見守るだけにしていたのに……。

 力任せにハンドルを叩く。

 雅明は悲しみや怒りで荒れ狂う心をもてあまして、運転席に突っ伏して身体を震わせた。

 雅明がトビアスの館に帰ったのは、深夜だった。雨は小雨になっていた。

 皆寝静まっている暗い廊下に、かつんかつんと己の足音だけが響き、それが雅明を本当の孤独に追いやろうとする。

 不意に、斜め前の部屋の扉が開き、仲間の男が一人出てきた。

「なんだアウグスト。今日は遅いんだな」

 男は仕事から帰ったばかりらしい。報告の忘れでもあったのか書類を右手に持っていて、髪は雅明と同じように濡れていた。

 問いかける仲間の顔を、雅明はぼんやりと見つめた。

「どうしたんだ?」

 様子がおかしいと気づいたらしい。

「……抱きたい。やりたい」

 突然セックスしたいといわれて、男は目を丸くしたが、切羽詰ったような雅明の目に何かを悟ったらしく、黙って雅明を部屋の中に引き入れた。

 服を脱ぐのももどかしく、荒々しく口付けて男をソファに押し倒す。男がベッドにしろよと言ったが、雅明は聞いてはいなかった。常にない手荒さで身体を開いていき、挿入する。

「ちょ……アウグストっ……! 早いって……、ぐ……ああ!」

 いつもなら軽口を叩く雅明が、一言も発しない。ただただ、突進して、気が狂うような痺れを男に与え続ける。

 男は、雅明とは比較にならないほど艶聞が豊富で、仲間内では好き者として有名だった。だからその方面で男は雅明を軽く見ていたのだが、それが今あっさりと覆った。

 何回達しても、何回白濁を吐き出しても、何度許しを乞うても雅明は放してくれない。最後には言葉にならず、意識さえも朦朧としてきた。それでも雅明はまた体位を変えて、貫き揺さぶる。

 何の反応もしなくなって人形のようになった頃、ようやく雅明は男から身体を離した。

 手ひどく抱いたのはわかっていたため、身体を綺麗に清めて服を着せてやり、ベッドに横たえる。

 それでも、荒れ狂う気持ちは治まらず、虚無感が広かっただけだった。

 苦しくて苦しくて仕方がない。

 雅明はその夜眠れなかった。

 次の日には、皆がその訃報を知っていた。

 誰がそう告げたわけでもないのに、雅明は肌に感じる空気でそれを察した。トビアスに呼ばれて彼の前に立った時、トビアスも知っているのだと悟った。頭たる彼が、仲間内に関わる人間の訃報を知らないはずがないのだ……。

「お前、しばらく休め」

 開口一番にトビアスは言う。

「……何故?」

「気づいていないのか? ひどい顔色だ。その様子ではまともに仕事ができるとは思えん。アンネと一緒にしばらく旅行でもしていろ」

 トビアスの横に座っているアンネが、黙って頷いた。

「抱きたいのならアンネを抱け。アンネはホレスと違って、うまくお前を流してくれる」

 ……昨夜抱いたのは、ホレスという男だった。

 それにしても己の妻を差し出すとは、どういう心境なのか。ためらいを雅明の瞳に見て、トビアスは苦笑した。

「私は何もお前にしてやれん。アンネはお前を助けたがっている。お前は苦しさでおかしくなりかけている。遠慮するな。倫理など我々にはくそ食らえだ」

 断ると、今度はアンネが壊れそうな気がした雅明は、黙って頷き、ほっとしたアンネの手を取った。

 この時はっきりと、トビアスとアンネの絆が見えた。

 これ以上はないというほどに、二人はお互いを知り尽くし理解している。それが雅明には眩しく映った。

 

 ワルターとソルヴェイとミハエルの葬式は、ヨヒアムがひっそりと行い、墓の在処はわからなかった。

 雅明を呼び出す罠が仕掛けられている可能性があるため、シュレーゲルには近寄れない。旅行先は気分も晴れるだろうと南へ下った。ツアーを組まなかったので雅明が車を運転したのだが、これは良かった。運転しているだけで悲しさがかなり紛れた。オンシーズンでどこも観光客が多かった。だが雅明はこれくらい賑わしいほうが良かった。静かな場所は、どうしても物思いに沈んでしまう

 あちこちを回り、一月ほどで、ギリシャ北西部のテッサリア地方にあるメテオラへ着いた。

「天と地の狭間。天に吊り下げられた場所……素敵ね」

「確かに珍妙な岩がどかどかと突き刺さっているな」

 雅明の言い方に、アンネは大笑いした。

「面白いわね。この神秘的な風景を」

 何メートルもある細長く大きな岩があちこちから突き出ている風景は、異様でありながらも青く晴れ渡った空に溶け込んでいて、俗世間を離れた清涼感があった。岩山の上に貼り付くように建てられたいくつもの修道院は、中世からあるものもばかりらしい。宗派は違うが、修道院の壁画に描かれた天使や聖人たちを見ると、俗世に塗れている雅明でも十字を切り、敬虔な思いに打たれた。

「観光地化が進んでいるから、修道士が結構出て行ってるみたい」

 雅明に手を引かれ、アンネが言う。

「確かにこれじゃ、落ち着いて修行などできないな」

 前も後ろも観光客だらけだ。

 修道院を出ると、澄み渡った青空と、巨岩群とはるかに広がる緑の大地の絶景が出迎えてくれ、雅明はこの旅行中で、自分の罪が洗い流されているのを感じた。

(そういえば、ソルヴェイとミハエルと三人で旅行さえしてやれなかった)

 あの時はほんの数年の辛抱だと、ずっと二人をブリュッセルに押し込めていた。

 外へ行く雅明を、いつも彼女は優しい笑顔で見送ってくれ、帰ってきたら同じ様に抱きしめてくれた。

 寂しくなかっただろうか。いや、寂しかったに決まっている。それなのに彼女は文句一つも言わなかった……。

 夕暮れ時に大平原の中を車を走らせていると、この時代に羊飼いが群れなして歩いているのがいくつも見えた。現代にいるのに、中世へ紛れ込んだような牧歌的な風景が、雅明の郷愁をひどく刺激する。

 雅明を置いて時間は過ぎ、太陽と月は巡り、季節も移り変わっていくのだった。

 ほんの一月だったが、雅明には十分だった。

 今も昔も、ソルヴェイとミハエルに会えないのは変わりない。

 そして幸せを願う気持ちも変わらないのだ。たとえ、相手が天国の園の住人になったとしても……。

 欠けた部分があっても、その思いは雅明の心へすとんと落ちた。

 ホテルへ入り、雅明とアンネは食事を部屋に持ってきてもらい、二人だけで夕食を食べた。

 この旅行中、雅明は一度もアンネを抱いていない。アンネもせがんで来なかった。それが、ブリュッセルでのソルヴェイと重なった。

(そろそろ見切りをつけなければ)

 雅明はスプーンを置いた。

「……すまなかったな、アンネ。もう私は大丈夫だから、ドイツへ帰ろう」

「どうしたの突然」

 デザートの皿を平らげて、雅明のものまで欲しそうにしていたアンネは、いきなり帰ろうと言い出した雅明に面食らっている。明日はまたアテネへ行こうと、朝に言っていたところだったのだ。

 雅明は立ち上がり、窓際の壁に背中を預けた。

「トビアスが待ってるからな」

「そうかしら、日本で言う……ええと、鬼が居ぬ間になんとやらじゃない?」

 頬を膨らませるアンネは、女らしい可愛気に満ちていて、雅明は微笑した。

 どこまでも彼女は雅明を想ってくれる。

 それなのに今の自分は想いを返さないまま、甘えているだけだ。

「旅行中、一緒に泣いてくれてありがとうな……」

 アンネは顔を赤くした。図星だったようだ。

「な、何言ってんの! 私は貴方にかこつけて旅行を楽しんでるだけよっ!」

「それが、お前流のいたわり方だろ? ありがとう」

 罪はあらかた洗い流されたが、芯の部分はこびりついている。これからの人生はそれを償う為にあるのだろう。

「アウグスト……」

 アンネが近づいてきて、雅明の胸に顔を埋めた。

 優しい曲線を、雅明はある意識を持って撫でおろし、強く抱きしめた。

「抱いていいか?」

 耳元で囁くと、アンネは呆れたように雅明の胸を抓った。

「いいに決まってるでしょ……。こんなにいい女を何日放置してるの?」

「悪かった」

 雅明は今にも泣きそうになっているアンネに口付け、隣の寝室のベッドへ移動した。

 もう大丈夫だ。

 夢は消えてしまったが、自分は生きている。

 それだけで十分だと雅明は穏やかに思い、アンネを愉悦の高みへ連れて行った。

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