天使のかたわれ 第31話

 月日は流れ、雅明は二十九歳になっていた。

 アンネがたまたま館を開けた夜、雅明はトビアスに呼びに出されて、ベッドを共にしていた。

「お前は本当に美しいな……」

 慾を握りこまれて、雅明は身体を熱く震わせながらトビアスの熱を存分に味わう。その力加減は絶妙といってよく、何を言われてももうそれしか感じられない。

 彼と寝る場合は雅明が受け手になるため、雅明は気分的にも肉体的にも楽だった。何もしなくてもトビアスが高みに連れて行ってくれるし、淡白な自分をよく知ってくれているのでセーブしてくれる。自分本位なセックスといえばそうなるが、お遊びのようなそれにとやかく口出しする人間は組織内には存在しなかった。

「ふ……っ。アンネにこのやり方を教えたが、どうだった?」

「……あ……は…………っ!」

「あえいでばかりではわからんな」

 ずぶずぶと後ろに押し込まれたまま、前をそのように攻められていたら、言葉など発せない。アンネと抱き合ったのがいつだったのか、考えるのも億劫だ。

 突き上げを何度も何度もくらいながら、のしかかるトビアスの身体と快楽をわけあう。

「あぁ!」

 慾の先にやんわりと爪を立てられ、雅明は目の前が真っ白になった……。

 気を失った雅明に、トビアスはやんわりと口付ける。

 雅明は女でないからこそ美しく、素晴らしい。妻のアンネが夢中になるのも無理はない。性に淡白なくせに、ひとたび身体を重ねたら柔軟な反応をするのも好ましい。これで旺盛だったら物足りなくなる気がする。

 強引過ぎるやり方で組織へ入れたが、期待以上の働きをしてくれるし、何より謙虚で捉われどころがないところがいい。仲間内の評判もいい。

 だが、雅明はそれでもやっぱりシュレーゲルの人間で、完全に闇の世界の人間にはなれない。

 トビアスは雅明の頭を撫でて、ため息をついた。

 どうやら雅明はこのまま寝入りそうだ。トビアスは照明を消した。

 雅明が目覚めたのは、翌日の昼近くだった。

「アウグスト、起きろ。もう昼だ」

「今日は……休み」

 素っ裸の雅明は、枕を抱いたままベッドの中に深く潜り込んだ。困ったなと呟くトビアスの声に重なって、帰ってきたアンネの甲高い声が近寄ってきた。

「なあに。アウグストってば、またトビアスと寝てたの? 私の呼び出しにはなかなか応じないくせに、差別なんじゃないの?」

「……うるさい……あっち行け」

「そーはいかないのよ。仕事の話があるから早く起きなさい」

「……っち……、いい気分で寝てるのに」

 もぞもぞと雅明は上掛けから這い出て、大あくびをした。

「やっと起きたか。シャワー空いたから行ってこい」

 トビアスが言う。

「はいはーい」

 雅明はバスルームに入っていった。

 アンネは雅明のために持ってきたブランチを、テーブルの上へ置いた。トビアスも欲しがったので、皿を持ってきて半分に分ける。

「アウグストは変わったわね。不真面目というかふざけてるというか」

「真面目なやつは組織にいらん」

 ハムとレタスがはさまれたサンドイッチに、トビアスはかぶりついた。

「投げやりなセックスばっかりしてるわ。ソルヴェイとミハエルが亡くなってから」

 トビアスは黙り込んだ。

雅明が黒の剣で働いていたのは、家族を救うためという使命感にも似た思いがあったからだ。それなのに二人は一年ほど前に、ワルターを狙う連中に殺されてしまったのだ……。

 表向き、雅明は何事もないように振舞っていたが、何故か男と寝る回数が増えた。女と寝るとソルヴェイを思い出すからに違いなかった。

「おまけに厄介ごとよ。これを見て」

 アンネが一枚の紙切れを差し出す。

 内容に目を走らせたトビアスは、低く唸った。

 新しい仕事の依頼人の名前は、佐藤貴明とあった。

 雅明は写真を見て、へえ、まあまあ美人だと満足そうに微笑んだ。

「おいおい、それはお前の弟の婚約者だぞ」

 トビアスが、煙草を吹かしながら注意する。

「わかってるって、へえええ、あのくそ真面目そうなあいつも女おとせるんだなあ」

「お前に比べりゃ、たいていのやつは真面目だ。それより受けるのか? その嶋田麻理子のボディーガードと、彼女の親族についての捜査は。うちはさすがに日本に拠点はないぞ」

「そんな場所いくつも行ったよ。今回だって同じだ。第一、貴明が頼ってきたんだから受けるに決まってる」

 貴明は今まで一度だって、雅明を頼ってきたりはしなかった。それは雅明もだったのでお互い様だが、だからこそ今は行くのが当然だ。

「アウグスト」

「ん?」

 立ち上がった雅明はトビアスに呼び止められ、ジャケットに左手を通しながら振り向いた。

「必ず帰ってくるんだ」

「いつも帰ってきてるがな?」

「ああ。だがお前は七歳で日本を出てから、一度も帰っていないだろう?」

「そういえばそうだったな」

 いつも故郷を夢見ているのを、トビアスは見抜いているのだろうか。雅明は笑った。

「……そうだな。いつかは日本で暮らしたいと思っている」

「アウグスト」

「いつかはだよ」

 アンネが心配そうに寄ってきて、雅明の背中に抱きついた。それはまるで、少女が一途に慕う男に向ける仕草だった。

 困った雅明がトビアスを見ると、トビアスはいささか嫉妬が入り混じった顔をしている。まだアンネの心をつかめていない苛立ちすら、その口元から感じられた。

 雅明はアンネの頭を撫でてやりながら、言った。

「……とにかく行ってくる」

 トビアスは頷き立ち上がった。

「一つだけ言っておく。この街にも新しい勢力が入ってきて、情報がいささか混乱している。日本のような遠い国へ一度離れると、連絡が取りずらくなる。気をつけるように」

「わかった」

 二人は握手し、アンネは雅明に口づけをした。

 雅明は館から出る時、二人が居る部屋の窓に振り向いた。人影は無かった。

 いつの間にか、雅明にとってここは安らぎにも似た場所になっていた。

 あくまでも仮の場所ではあるのだが。

 日本へ帰る飛行機だから当然なのかもしれないが、座席は圧倒的に日本人が占めていて、なんとも不思議な気持ちになった。西洋人顔の雅明が日本人だと言っても、誰も信じないだろうなと雅明は心の中で面白くなる。

 ビジネスクラスの席は、エコノミーに比べていささか広い。隣がずっと空いていたので、このままかと雅明が思っていると、着陸寸前に一組の日本人夫婦の女の方がその席に座った。

 うるさいカップルだと困るなと案じたが、二人は静かに会話をするだけで、雅明は安心した。時々あたり構わず喋り飲み食いする人間が居て、そういう時は機内全体が拷問部屋と化すのだ。今回はその心配はなさそうだ。

 しかし、離陸すると、その夫婦の女が品のいい声で声をかけてきた。

「あの、失礼かもしれませんが、佐藤貴明様のご兄弟様でしょうか?」

 雅明は読んでいた新聞を降ろして女を見た。ごく自然な目つきで警戒したが、どう見ても彼女は普通の旅行客だ。

「ええ……」

「申し遅れました。私、かつて貴明様とおつきあいさせていただいたことがありますの。当時は小野寺でしたが、今は塩谷初美と申します」

 組織にあった貴明のデータには、そのような女の名前は載っていなかった。貴明が関係したのは、今は小山内性を名乗っているが小川恵美という一般家庭の女と、鹿島瑠璃という悲惨な亡くなり方をした令嬢だけだ。この女の名が無いのは、二人の交際期間が短かすぎた為だが、そんなことは雅明にはわからない。だが、女が嘘を言っているようにも見えなかったので、雅明はそのまま女の話を聞くことにした。

 初美は、貴明を愛していながら別れたのだと、笑顔で話した。

「周りから反対もされなかったのにですか? 政略結婚で?」

「ええ、そうです。親からは責められましたわ。でも、仕方なかったんです、貴明様は他の方を愛されていて、私は貴明様を愛してしまったのですから。なんとも思っていなかったら結婚したんでしょうね」

 貴明に対する恨み言を言われるのかと思ったが、初美はそんな女ではないらしく、ふふ、と花の様に笑った。向こう側の夫の男も穏やかに微笑している。つかみ所がない女で雅明はいささか面食らった。

「私、その時はまだほんの小娘でしたのに、貴明様にえらそうにこんなお話しをしましたの」

「話?」

 雅明が聞き返すと、初美はその時を再現するように、目を遠く潤ませた。

「最高の運命の相手と思える人は、生きている限り何回も現れる。そう申し上げましたの」

 初美は隣の夫の男に目をやって、二人はお互いに幸せそうに頷いた。

「その時は自分で言っていながら、半信半疑でしたわ。でも、数年後に夫と結婚して子供も生まれて、自分でえらそうに言った言葉を実感しておりますの。そしてこの出会いを作ってくださった貴明様に、深く感謝しておりますわ。貴明様にもそんな幸せが今おありでしたら、これ以上の喜びはございません」

「…………」

 貴明が結婚しようとしていることを、雅明はなぜか言う気になれなかった。おそらくは、もう出会う機会などない男女だ。終わった二人の恋に、第三者が口を挟む内容ではない気がする。

 ソルヴェイとミハエルが亡くなって大分経つ。

 時々傷は痛み苦しくはなるが、それだけだった

 飛行機の窓から眼下に雲が広がっている。この雲の下に、地球上のどこかで、自分の次の運命の相手は生きているのだろうかと、雅明は思った。

 依頼した貴明が旅行先の北海道に居るため、東京へは帰ってきたものの佐藤邸へは向かわず、ひとまず雅明は駅を乗り継いで、ずっと気になっていたあの石川の家へ向かった。

 駅を出てぶらぶら歩くと懐かしい風景が出迎えてくれた。変わっていると思っていたが、山深い田舎のせいか、少し家が増えたり店が新しくなったりしているだけで、学校も古くなっただけで佇まいはそのままだった。

 雨上がりでむしむししている。

 あんなにも焦がれていた場所へ帰って来れたというのに、どこか喜べない。あの石川の家は、今は無人なのだ。

 貴明と母親のナタリーは、佐藤圭吾が東京に建てた馬鹿でかい屋敷に住んでおり、石川の家にはまったく近寄らないと聞いた。手入れはしているとはナタリーは言っていたが……。

 一人で帰ったところで、さみしさだけが胸を満たすような気がした。

 それでも記憶と変わらない、石川の家の灰色の屋根が目に入ると、安らかで温かなものが胸に広がった。

 今にも父母と、子供の貴明が飛び出してきそうだ。

 そんな幻想を抱いて石川の門の前にたたずむと、本当に玄関から母のナタリーが出てきて、雅明は驚きのあまり、荷物をぼとりと地面へ落としてしまった。

「雅明。おかえりなさい」

 二十二年ぶりに会う彼女は、年をとっているが女神のように美しいままだった。

「……ただいま」

 ナタリーは雅明の側まで歩いてきて、自分の背丈を遥かに追い越した息子を見上げて、うれしそうに微笑んだ。

「立派になったわね。雅文にそっくりよ」

「そうですか? こんな軟派野郎でしたかね父さんは?」

 にやりと雅明が笑うと、ナタリーは声を出して笑った。

「それはアルブレヒトお爺さまよ。変な所が似てしまったわね」

 雅明とナタリーは家の中に入り、一緒にご飯を食べて夜を過ごした。子供の頃でも滅多になかったことで、雅明は日本へ帰ってきてよかったと思った。二人は空白の二十二年を埋めるかのごとく、ずっと喋り通した。

 夜になると布団を並べて敷いて、一緒に寝ころんだ。話はいつしか、貴明の恋愛話になっていた。

「じゃあ貴明は、北海道へ麻理子さんを無理矢理旅行に連れて行って、プロポーズしてフィアンセにしたんですか? 大丈夫ですかそれ。恋人になってまだ数日で……。」

 事のあらましを聞いて、雅明は弟の貴明の強引さにびっくりしていた。ナタリーはそうねえと笑った。

「大丈夫みたいよ。彼女も貴明が好きなようだし。ああ良かったこと。やっと跡継ぎに悩む必要もなくなるわ」

 嶋田麻理子が危険にさらされていることを、ナタリーは知らないらしい。今回雅明が帰ってきたのは、唯の帰郷だと思っているようだった。貴明はナタリーに心配をかけまいとして、内緒で雅明をボディーガードとして雇ったのだ。貴明も母には弱いらしい。雅明はそれがなんとも気分が良くて、にやけながら眠りについた。

 家の中はあらかたナタリーが掃除してくれていたので綺麗に片付いていたが、庭のほうは定期的に人の手が加えられているとはいえ、草が伸び放題になっていた。それがさながら怪談の妖怪等が出てきそうな不気味さだったので、雅明は朝食の後、さっそく除草作業に取り掛かった。

 伸び放題の草はなかなか手ごわいうえに、不気味な虫がうじゃうじゃ出てくる。雅明は組織の任務中に散々やっているので、苦にはならないが、ナタリーはとても太刀打ちできそうもない。彼女は経営の仕事はできても、こういう仕事はてんで駄目だった。

「昨日、上の和室に大きなムカデが居たのだけど、怖かったから逃がしたわ」

 一休みにお茶を飲む雅明に、ナタリーは言う。それは駆除してくれないと夜に刺されたらそれこそ一大事だ。ムカデは小さくても病院に行く必要があるほど、腫れあがる毒をもっているし、大体が家族で住んでいる。少なくともあと二匹はいるはずだ。

 とはいえ狭い庭だったので、午前中でほぼすべて取り除けた。刈った草は干しておけば乾くし、あとは燃やせばいいだろう。近所にそれをしてくれる人が居るらしい。

 午後に東京へ帰るナタリーのために、早い昼食をとっていると、子供の声がした。

「近所に二人居るのよ」

 ナタリーが言う。

「いたずらしてきませんか? 家に」

「母子家庭だけど心配ないわ。しっかり躾されているから」

「大変ですね」

「そうね……大変だわ。貴明も結婚するというのに」

 貴明はここに住まないし、しっかり躾されていると言う割にはいたずらでもされているのか、ナタリーの口調は重かった。

「貴方もだけど、くれぐれも身は清めておいて頂戴。遊びには加減が必要だわ」

「手厳しいですね」

「そうね。私たちにもいろいろあったから、余計にそう思うのね」

 この二十二年の間に、義父の佐藤圭吾は事故で亡くなり、愛人の間に子供を一人作っている。それを言っているのだろう。

 ナタリーが、どこまで雅明のプライベートを知っているのかわからないが、線引きが難しいなと雅明は思った。ともあれ、母にあまり心労をかけるべきではない。いい大人になった自分たちが、散々働いてきた母を助けるべきだった。

 昼食を食べ終えると、ナタリーは屋敷から迎えに来た執事の車に乗って、先に東京の屋敷に帰っていった。多忙なのにわざわざ石川の家に帰ってきてくれた彼女を、雅明はうれしく思いながら車を見送った。

 さて家に入るかと振り向いた時、青い小さなボールが足下に転がってきた。拾い上げると子供の声がした。

「あー! そこのおじさん、ボールとってえ!」

 さっきの近所の子供だろう。投げようとして振り向き雅明はびっくりした。

(な…………)

 天使のような黄金色の髪に薄茶色の瞳。

 そこに居たのは小さな貴明だった。

「……貴明? お前、全然成長してなかったのか?」

「僕、穂高だよ? たかあきじゃないやい」

「ほたか?」

 わけがわからないまま雅明は、穂高だと名乗った小さな男の子にボールを返した。すると少し離れた所に建っている家の中から、母親らしい女が出てきた。

「穂高ー? どこ行ったの? ご飯ですよ」

「僕ここー!」

 穂高という子供の視線の先を追ってその女を見た瞬間、雅明の周囲の時間が止まった。

(ソルヴェイ……!? …………なわけない。二人とも亡くなったんだ)

 女も雅明を見て目を見開いた。後ろから小学生くらいの少女が走ってきて女の横に立つ。

「貴明、あんたどうしてこんな所に」

 女が声を震わせる。しかし雅明は、それに返事はできなかった。こみ上げて来る熱い想いを押さえこむのに必死だったからだ。

 懐かしい石川の家の前。あまりに自然にとけ込んでいるその親子と自分。

 それは雅明がずっと心に描いていた、暖かな風景そのものだった。

 雅明は息を止めていた自分に気づいて、深呼吸する。

(この女だ。間違いない。やっと出会えた、運命の女――)

 女がソルヴェイに似ているのではない。ソルヴェイが女に似ていたのだ。

 感情をすべて封じ込め、雅明は穏やかな声を出すのに苦労した。 

「貴明は弟です。私は彼の兄で石川雅明と言います。この家は私の家なんです。とは言っても二十年以上留守にしておりましたが」

 雅明が右手を差し出すと、ソルヴェイよりはずいぶん背が低い女は、戸惑ったように見上げてきた。

「雅明……さんですか、失礼しました。私は小山内恵美と言います」

「恵美……」

 小山内恵美。確か、貴明のもっと若い頃の灼熱の恋の相手で、佐藤圭吾の愛人だった女の名だ。同じ様に見上げてくる少女は、圭吾にそっくりだ。これが二人の間にできた子供だろう。だが、この穂高という子供存在は無かった、どういうことだろうか。

 疑問に思いながら雅明は恵美と握手した。先ほどのナタリーの口ぶりを思い出す。

 どうにも離れがたい。雅明はもっとこの三人と居たくなった。

「ちょっと家に上がっていかれませんか? そちらのお子さん方とご一緒にどうぞ」

「わーい! 謎の幽霊屋敷に潜入だー!」

「姉ちゃんずるい! 僕も!」

 とまどう恵美をよそに、子供たちは石川の家に勢い良く入っていく。  

「あ、じゃあ、少しだけ」

 はにかむ恵美の手を握りしめて、雅明は夢から現実へ足を踏みだした。

 そうだ、やっと現実へ帰ってきたのだ。なんと長い間。自分は夢を見続けてきたのだろう。

(私は自分の家にやっと帰ってきた……)

 雅明の心を、幸せと恋のときめきと、懐かしさが満たしていく。

<第二章 雅明の過去 終>

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